5 呪いの成就
結局のところ、市間いちるに対する認識が甘かったのだ。この女は狂っている。俺がそう痛感したのは、母親を伴って観覧車に乗り込んできた時だった。白いワンピースはボロボロでところどころ血が滲んでいた。腕や足には多数の擦り傷が見て取れる。頬には新しい痣ができていて、なのにニコニコと笑っていた。母親も同様に、薄汚れたボロボロのジャージに、ボロボロと涙をこぼしていた。周囲にはずっしりとしたフケの匂いが漂っていた。もうずっと風呂にも入らず、着替えてもいないのだ。
「着いたよ、ママ。ここにパパがいるの」
「あんた……本当に頭がおかしいんじゃないの……こんな時間に、こんな場所に連れてきて……狂ってるわ……」
時刻は深夜だった。観覧車の周囲は真っ暗で、なのにぐるぐると廻り続けている。なんの意味なく馬鹿みたいに廻っている。
俺は言葉を失っていた。本当にこの馬鹿は狂っている。俺のような悪霊をパパだと信じ込んでいる。今、目の前には二人の生きている人間がいた。この腹の底から湧き上がってくる怒りは、間違いなくこの二人に向けられている。だからどうあれ、呪うだろう。市間いちるはともかく、母親は間違いなく呪うだろう。こんな不安定な奴、どこからでも呪ってくれと言っているようなものなのだから。
「ママ、見て。目の前にパパがいるんだよ」
「……私を、馬鹿にしやがって!」
母親は、市間いちるの胸倉を掴んで窓に叩きつけた。軽かった。憔悴した女の片腕で胸倉を掴まれるほど、市間いちるの体は小さく、そして軽い。
「お前、本当に狂ってんじゃねぇのか! 私を台無しにするだけじゃ足りねぇのか! お前があの人を弄ぶんじゃねぇ! どこまで私を馬鹿にすれば気が済むんだお前はぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「い……痛いよ、ママ。……ほら、笑ってよ……ママは笑顔がとっても素敵なんだから……パパもきっと、そう思ってるよ」
「なにがパパだ! バカにしやがって! このバカが! クズが! 痴呆が! 疫病神が! 悪魔が! 私をコケにするのがそんなに楽しいか、なぁ!?」
ひとしきり叫んだ後、母親は息を荒げ手を降ろした。市間いちるの落ちた衝撃で、観覧車が静かに揺れた。やがて母親は嗚咽を漏らした。
「もう嫌……どうしてこんな思いをしなくちゃいけないの……こんなことなら……お前なんか生むべきじゃなかった……生まれてくるべきじゃなかったんだお前は……」
その瞬間、市間いちるの表情が凍った。初めて観覧車に乗った時に見せた、あの表情だ。なんの感情もない表情。俺だけが、そんな市間いちるを見守っていた。
つまるところ、そういう話だ。この話は突き付めるほどそういう話だ。かわいそうな女の子が、ただかわいそうだというそれだけの話。続きもなければ終わりもなければ意味もない、救いはない、人はただ一人で生まれて一人で死ぬ、その当たり前を再確認したというだけの話。
ただ――意味があろうとなかろうと、俺のするべきことはただ一つ。呪う。
不用意にも悪霊の元にやってきた哀れな女を呪う、ただそれだけ。
俺は母親に向かって手を伸ばす。障りには触りが必要なのだから、それ以上の意味はない。
『あなたが何をしようと無意味なんですよ。だってもう死んじゃってるんだから』
死神の言葉が脳裏をよぎる。その通りだ。俺が何をしようと無意味だ。市間いちるは変わらない。母親も元には戻らない。死んだ人間は生き返らない。崩壊した家庭は復活しない。
俺にはどうにもできない。だから呪おう。
精一杯の悪意を込めて。
「パパ……?」
その時、市間いちるには俺の姿が見えただろう。そして、母親にも見えていたはずだ。なぜなら俺が、彼女の頭を掴んでこちらに向けたからだ。驚愕に見開かれた目をまっすぐに見つめる。そして言う。
「俺とお前が出会ったことは決して嘘にならない。無くならない――だから、この子が生まれてきたことも、決して嘘にはならないんだよ。絶対に無くならないんだ」
周波の同調――俺が呪いを送る時、相手の思念も受け取りやすくなる。その時、俺は確かに視た。この母親が、出会い、築いた思い出の数々を。決して無くならない、なかったことにはできない想いの数々を。
無くならない以上は、向かい合うしかない。
どんなに意味が無くたって、生きている間は決して無意味になんてなれないのだから。
だから俺は、生きている人間を憎悪する。
「ありがとう……変なお兄ちゃん」
市間いちるが泣いていた。きっと、周波が同調していたのは母親だけじゃないのだろう。市間いちるはいつだって不安定で、だから誰よりも感受性が強いのだから。
この話はこれでおしまいだ。そのあと、二人がどうなったかなんて知らない。意味のない詮索だ。
後日談など、死んだ人間にとってはまるで無意味なのだから。
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