2 市間いちる
彼女は顔じゅう痣だらけで、衣服は異様に汚れていた。白いワンピースだから、余計に醜悪が目立った。せっかくの笑顔も台無しだった。
熊のぬいぐるみが、彼女の良き友人のようだった。彼女は友人に向かって絶えず笑顔を浮かべているのだった。
まぁ、それ自体は驚くほどのことではない。ライナスの毛布――よくある話。
(問題はそのレベル――程度だ)
こういう人間は共通して、強烈な不安を抱いている。だが、少女の表情からは不安など微塵も感じない。ただ単純に、ぬいぐるみとのお喋りを楽しんでいる――たかが七、八歳の子供が、その“深さ”に到達するまでに、一体何があったのか。
おそらく想像を絶する“何か”があったのだろう。
でなければ、こういう風には歪まない。
(だが、俺には関係ないし何の意味もない――)
意味があるのは、この馬鹿が観覧車に乗り込んできたことだ。俺がいるとも知らずに。無邪気に、無警戒に、無計画に、のこのこと。
「楽しみだねぇ。くまたろー」
市間いちるは、観覧車に乗っても落ち着きなくぬいぐるみに話しかけていた。少女には「くまたろー」の声が聞こえているらしく、二人だけの会話が成立していた。
俺はしばらく彼女の行動を見守ることにした。面白かったからだ。この不幸でトチ狂ったガキを、いつまでも見ていたいと思った。他人の不幸は蜜の味。
だが楽しい時間はあっという間に過ぎ、観覧車は早くも中間地点――即ち、頂点に到達していた。
「見える? くまたろー」
彼女は落ち着きなく行ったり来たりを繰り返して、下界を眺めた。まるで何かを探しているように。或いは誰かを探しているように。
「いないね」
そう呟くと、彼女は途端に黙った。これまでの饒舌っぷりからは想像もできない消沈だった。幼い顔からは表情が消え、ぬいぐるみも地面に落としてしまう。
(まぁ――少しは愉しい見世物だったよ)
これ以上は何も出ないだろうと見切りをつけ、俺は市間いちるの頭に手を伸ばした。呪いをかけるには対象の体に触れる必要がある。障りには触りが必要――しかも、できるだけ不安定になっている瞬間がいい。この少女を呪ってやるには、今が絶好の機会だった。
(恨むなら俺ではなく、自分を恨むんだな)
生きている人間は俺にとって憎悪の対象だ。子供だろうと女だろうと関係ない。幸福だろうと不幸だろうと関係ない。そこには何の意味もない。ただ生きている。それだけで
これからの人生がもっと苦痛でありますように。もっと悲痛でありますように。もっと凄惨でありますように。救いなんてどこにもありませんように。そんなありったけの呪いを込めて、俺は市間の頭部に向かって――
「そこに誰かいるの?」
その瞬間、市間いちると目が合った。
(馬鹿な。まさか俺が見えているのか?)
いや、それは無い。今の今まで、俺の気配など微塵も感じていなかったはずだ。
(まさか――波長があったのか?)
呪いをかけるのに最も都合がいいのは、対象が不安定な瞬間だ。それはつまり、俺の恨みが介入しやすい状態ということ。もっと言えば、それだけ相手の思念もこちらに引っ張られているということ――波長が合ってしまうということ。
しかし、それが一体どうした? 見えていようといまいと、俺がこいつを今ここで呪うことに変わりはない。市間の頭から呪いを注いでやれば、それで終わり。
そう思って、市間の頭を掴んだ。しかし――
(なに……?)
信じがたい話だが、結果から言うと、俺は市間を呪うことができなかった。呪おうとした瞬間、そっと手を押しのけられたのだ――誰に? 分からない。分からないとしか言いようがない。
だが同時にその時、俺は文字どおり肌で感じ取っていた。市間いちるという不幸の権化に閉じ込められた悪霊、怨霊、生霊、悪鬼、物の怪、ありとあらゆる負がごちゃ混ぜになった“何か”が、そっと囁いたのを
「もう入らない」のだと。
「お前の呪いが付け入る隙など無いのだ」と。
(馬鹿な……こいつ。たった七・八年でなんてもの抱えて――)
驚き、畏れることしかできない俺の脳裏に、死神の声が蘇った。
『あなたが無意味と呼ぶ世界には、もっとかわいそうな人がいるんです。あなたは遠からずその意味を知る時が来るでしょう』
かわいそう? そんな言葉では済まされない。そんな表現では足りない。生ぬるい。触れた時に分かった。こいつはそんなものじゃあないのだと。
生きながらにして呪われ、恨まれ、疎まれ、必要とされず、施されず、愛されず、孤独という業火に灼かれながらただ笑うしかできない子供を、かわいそうで済ませるのは、あまりにも言葉が足りなさすぎる。
「そこにいるのは、パパなの?」
市間いちると目が合う。その表情は相変わらず無で、何を考えているか分からない。何を見ているのか分からない。どうすればいいか分からない。
しかし、口は勝手に動いていた。
「俺はお前のパパなどではない。勘違いも甚だしい」
「ふぅん。そっか。へんなの」
市間いちるはそう言うと、にこりと笑った。そして堰を切ったように、徐々に、大きな笑い声に転じる。
正直、俺はこの少女を畏れていた。まるで話が通じない。常識が通じない。次に何をするか分からない。
分からないというのは――怖い。
「何がおかしい? この状況のどこに笑う要素がある?」
「笑ってるんじゃなくて、嬉しいんだよ」
市間いちるは、目元に溜まった涙を拭いながら言った。
「パパ以外にも、私の頭を撫でてくれる人がいるんだなぁって」
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