ジョニトリー、風雲急を告げる!
第30話
「はぁ……」
ジョニトリ―の控室。時刻は午後九時過ぎ。勤務を終えてから椅子にどっぷりと座りこみ、天井の照明を仰いで零した溜息はこれで七度目。
お盆時期は、飲食店においては掻き入れ時らしく、それはもう繁盛繁盛の大繁盛。
それによっての疲労感から溜息を零したのは一回。一回だけだ。七回の内、残りの六回は別の事を思い返したり思案したりして零れたもの。
例えば溜息を零した内の二回は、先日の事を思い返したから。
『貴方、司……?』
立木見さんのご両親が経営する喫茶ヴァラドンで出会った少女が零した言葉。それに対して俺は唖然としてしまって。
八回目の溜息交じりに、瞼を閉じつつ彼女の呼び名を零す。
「マネージャー……」
すっかり忘れていた。よく言うが、人間は嫌な事を忘れて精神衛生を保っているそうだ。
故に、思い出の段ボールに仕舞いこんでガチガチにガムテープで塞いでいたそれを開け放たれてしまい、心のメッキがボロボロと剥がれて零れ落ちていくのが実感できた。
……ホント、零れまくり、転げ落ちまくりの人生である。だが、あの当時と違うのは、涙が零れないことか。
と。
「お疲れさまー」
「あ、獅々田さん、お疲れさまです」
ジョニトリ―の制服姿の獅々田さんは、対面の椅子に腰を下ろした。そしてどこか意地悪気な微笑を携えつつ、前のめりで問うてきた。
「もしかして、私のことを待っててくれたの?」
「いえ、ちょっと疲れてしまっただけですよ」
苦笑交じりに本当の事を告げた。が、何故か獅々田さんは頬をぷくっと膨らませる。
「もう、太田さんは本当に……」
「え? な、何かお気に障る事でもしちゃいましたか?」
しかし獅々田さんは「べっつにー」と言いつつ、相変わらず不機嫌そうな顔を見せた。……何が何やら。
しかし獅々田さんは直ぐに何かを思い出したように表情を変えた。それはどことなく神妙な面持ちで。
俺がはてと首を傾げると、彼女視線を逸らしながら恐る恐るといった具合に口を開いた。
「その……この前、喫茶ヴァラドンで会った学生さんの事なんだけど――」
ガタッ。
「ど、どうしたの? 突然ビクンと背筋伸ばしちゃったけど」
「い、いえ。ちょっと背骨を鳴らしたくなっただけですよ、ええ」
あははーと苦笑していると、獅々田さんは「そう?」と、やや怪訝そうな顔を見せつつ、言葉を継いだ。
「それで、あの学生さんって太田さんと同じ中学に通っていた同級生って話だったわよね?」
「そう、ですね。はい」
我ながら歯切れの悪い返事をしつつ、獅々田さんから視線を外す。
あの日、俺はマネージャーと大した話はしなかった。獅々田さんや立木見さんがいた手前というのもあるし、そもそも俺は陸上部での一件からマネージャーとはロクに口も利いていなかった。当時は向こうから話しかけてくる事もあったけど、俺が逃げるように――いや、正しく逃げて、会話することを避けていた。
あれから三年が経つってのに一切の成長もなく、喫茶ヴァラドンで再会したマネージャーを前に、俺は言葉少なに応対する事に終始していた。
具体的に喫茶ヴァラドンでの俺とマネージャーの会話は以下である。
「久しぶりですわね。お元気かしら?」
「ああ」
「そう……えーと、中学の皆と誰か連絡は――」
「取ってない」
「そ、そう……ところで、その格好は――」
「趣味だから気にしないで」
「しゅ、趣味?」
「何か文句ある?」
「文句はありませんけど……随分、変わったんですわね」
「三年も経てば変わるもんさ」
そこまで思い出して俺は絶叫したくなった。
いや変わり過ぎだろ!? 何をフッと笑いながらほざいてんだよ! 陸上部で汗流して溌剌としていた当時から打って変わって、何で女装しちゃってんだって話でさ! それにコミュ障過ぎる返事の数々! こっちとしては獅々田さんはさておき、立木見さんには俺が男だとバレる訳にはいかないので、どうしても素っ気ない返事になってしまっていたけど、女装姿をマネージャーに見られてしまったことも合わせて、思い返すだけで死にたくなる。
結局その後は、マネージャーが「そうですわね、三年もあれば変わりますわね」と妙に感慨深そうに告げてから去っていった。
本当は変わってないから! 嫌々ながら女装してるんだから!
と告げたい気持ちで一杯だったが、口の端をぴくぴくと痙攣させながら彼女の背中を見送る事しか俺にはできなかった。
……なんでいう無様で情けない顛末を見届けた獅々田さんと立木見さんから「知り合いか?」とか、「どんな関係だったの?」とか質問を投げかけられたが、俺としてはマネージャーとそんな姿(女装姿)で再会してしまった絶望感から、「中学の同級生です……それ以上以下も無いです」をただただ繰り返した。
よって、今回日を跨いで獅々田さんからマネージャーの事や俺の事を尋ねられるのは酷く億劫だった。俺としては思い出したくもないトラウマなのだから。
獅々田さんは俺が男だって知ってるし、どうせ『中学の時は女装してなかったの?』とか尋ねられるに違いない。
俺が伏し目がちに「はぁ」と九度目の溜息を吐いた時に、獅々田さんの口をついた言葉は。
「その……太田君は、あの子の事好き?」
「好きって……え? 好きって、え?」
ぽかんである。完璧な美少女顔をして尚、口を半開きにしている姿はきっと、マヌケ面であると嘲笑されること請け合いな程にぽかんとしてしまった。
俺の反応を見てからワンテンポ遅れて、獅々田さんはハッと何かに気づいた様子で首を横へ何度も振った。
「違う、違うのよ!? 変な意味では無くて、ちょっと、あの、きょきょ、興味――って言うと失礼ね、えーと、その、何となくなんだけど、何かよく分かんないけど、そんな気がしたっていうか、何ていうか……」
何故か絵に描いたようなしどろもどろ具合である。終いには赤らんだ顔を伏せてだんまり。そんな、獅々田さんにしては珍しい様子を見て、俺は思わず笑みを零しながら天井を仰ぐ。
「好きか、ですか。好き、ですね」
「好き、なんだ……」
少しばかりトーンが落ちた獅々田さんの声を聞きながら、俺は「でも」と続け。
「昔の話です。今は……自分でも分かりません」
獅々田さんの珍しい様子を見たからだろう。俺は、偽らざる思いの丈を曝け出した。それも意図せず零れた自嘲交じりに。
そうして見つめた獅々田さんの顔は、呆気に取られていた。
「分からない?」
「はい……まぁ、色々あったんです」
我ながら気取った言い方だ。でも、余り深く語りたくもない。
そんな俺の気持ちを悟ってくれたのか、獅々田さんは口を噤んだ。
一秒、二秒、三秒。沈黙が都合十秒は続いただろうか。
コミュ障な俺は、もう受け身態勢が完全に整っている。最早三秒も沈黙が続いた時点で、自分から口を開く事は無理である。
そうして十秒後。口を開いたのは当然獅々田さん。その表情は、何か決心をしたかのような真剣なもので。
「私は――」
だが何かを告げる前に、こちらへと誰かが入ってくる物音が聞こえて獅々田さんは口を閉じた。
「はぁ、マヂ最悪ぅ。もうムリ帰ったらスーパードライ飲も。それも五百缶三本……って何よ。ここは葬儀場? なんなのこのしみったれた雰囲気は」
現れたのは愛猫さんである。とても気だるげなオーラを垂れ流していらっしゃる。
すかさず獅々田さんが取り繕った笑みを浮かべた。
「い、いえ。それよりどうかしましたか?」
陰ながら俺は、どこか張り詰めた緊張感から解放されて、ホッと胸を撫で下ろした。……こんな生き方してるからコミュ障なんだろうなぁ。
なんて物思いに耽る俺の正面の席に、愛猫さんは心底疲れた様子で腰を下ろしつつ話し出す。
「どうかしたなんてもんじゃないわよー。今月中に近隣で競合店が出来るらしいのよ」
「競合店? 飲食店ですか?」
獅々田さんの問いかけに、愛猫さんは深く頷く。
「そう。それもファミレス。コンビニがあった更地で何か建ててるってのは知ってたけど、まさかのフライアーズ」
「え。フライアーズですか? 行きたいかも……」
思わず口を挟む。フライアーズと言えば、首都圏を中心に展開するファミレスで、料理の質はもちろんの事、店員さんの制服が可愛いことで有名だ。是非眺めたい。えへへ。
と思っていたら、愛猫さんにジト目で睨まれたので表情を正す。
「ったく……」
「なるほど。フライアーズ相手だと、このジョニトリ―の持ち味が失われるかもしれないですね」
思案顔で告げる獅々田さんの言葉に、愛猫さんはこれまた深く頷く。
「そうなのよ。被ってんのよコンセプトが。わざわざここに建てなくて良いでしょって感じよ。嫌がらせかっつーの」
随分殺気立っていらっしゃる。
俺と獅々田さんが苦笑いを浮かべていると、愛猫さんは「それに」と口にした。
「フライアーズとは別に、もう一店舗、居抜きでチェーン店が出来るらしいのよ。それも、晴れ晴れマリオ」
「え。晴れマリとか、行きたい……」
獅々田さんの呟きに対し愛猫さんはギロリと鋭い視線を向ける。すると獅々田さんは口を一文字に結んで視線を逸らした。
「晴れ晴れマリオっていうのは有名なんですか?」
聞いたことも無いので尋ねると、愛猫さんは再再度深く頷いた。
「有名も有名。ただし、東北地方でね。あっちじゃ知らない人間はいないぐらいらしいわよ。名物の爆裂ハンバーグは絶品って触れ込みで、待ち時間も二時間越えはザラって話らしいわ。それで、今回は関東に満を持して初出店。その第一号店がこの近隣に出来るのよ」
「それは……ヤバそうですね」
「ヤバいなんてもんじゃないわよ! 絶対にここの客数も目減りするわ。こっちはただのフランチャイズ店の雇われ店長だってのに、何でこんな憂き目に……あぁー、やだやだ。数字数字数字。もうムリ本当ムリ。数字とか消えろよマヂで。経済なんて消え失せろ」
などと、ぶつぶつと念仏をダウナーに唱える愛猫さんを、俺と獅々田さんは苦笑して見守るばかりだった。
ジョニトリー! 夜鷹亜目 @nebaru
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