最終章


 階段を上ってくる二人の足音で目を覚ました。雨音はもう聴こえない。二つ隣の部屋の扉が静かに閉まる。

 時刻は午後十一時になろうとしていた。二時間ほどまどろんでいたようだ。


 僕は、里帰り講座で一緒だった二人の女性と、メールの交換をする約束を思い出した。眩しい天井の照明を消し、ベッドサイドランプを点け、三十五時間ぶりに端末の電源を入れる。


「mimi」

 キュキュが踠き出て来た。

「ぷはーっ! 苦しいやないか!」


「もういいから。ちょっと引っ込んどいて」


「なんやねん、ぞんざいに扱いよってからに」

 不貞腐れながらキュキュが消えて行く。

「このイケず」


 僕はベッドの上に胡坐をかいて、咲良さんと加藤さん、そしてさくらにメッセージを送った。そして最初に返事がきた咲良さんと、SNS上で十分ほどコメントのやり取りをした。


 幸い、咲良さん親子はうまくやっているようだ。しかも驚くことに、咲良さんが渇望していた劇的な出来事が起こっていた。

 といってもそれは、偶然の産物などではなく、咲良さんの両親が種をまき、大事に育てていたものだ。それが長い年月を経て、ようやく花を咲かせ、実を結んだ。


 実家に着いてしばらくはギクシャクとした気まずい雰囲気が続き、途方に暮れていた咲良さんだったが、その日の夜、彼女は予期せぬものを発見した。自室に残していたPCに、両親からのメールが届いていたというのだ。一通あたり四行ほどの短いメールが、この十二年間、毎日欠かさず。

 その数は五千通にのぼるという。

 どうやら咲良さんの両親は、メールが娘の今の端末に届いているものと信じ、くる日もくる日も送り続けていたらしい。

 咲良さんは、両親が大事に育てた実を収穫した。ひと晩かけて千通のメールに目を通し、涙を流した。

 再会した当初は、両親の気持ちがまったく読めず、途方に暮れたけれど、今では手に取るようにわかる、とコメントしてきた。今度は自分の気持ちを伝える番だ、とも。


〈僕の方は五里霧中〉と打つと、〈とにかく気持ちを伝えることが大事〉と返ってきた。

 それはそうなのだろうけれど、今の僕たち親子は、とても真情を吐露し合えるムードにない。そもそも、言葉にして伝えるほどの真情なんて僕にはない。


 最後にお互い〈良いお年を〉とコメントし合って切り上げた。咲良さんは、今からまたメールの続きを読むのだろう。羨ましい限りだ。


 使わなくなったアカウントにメールを送ったり送られたり、といったことはよくある話だけれど、十年以上にも渡り送り続けていたなんて、聞いたことがない。ITの知識があまりなかったのだろうか。

 うちの両親もそちらの知識は乏しそうだから、同じようなことをしているかも──なんて期待するまでもなく、そんなことはありえない。面倒臭がりの僕は、複数のアカウントを使い分けるというようなことはせず、ひとつをずっと使い続けているからだ。

 そもそも、あのいかにも消極的な二人が、息子にそんなはたらき掛けをしているとは思えない。ただただ安穏と生きてきた人たちなのだ。

 平凡な毎日を送っていれば、息子も平凡な大人に育つと思っていたのだろう。その息子が今、平凡な親子関係が築けず悩んでいることを、もっと理解してくれないものだろうか。


「mimi えらい落ち込み様やな」


「もう、駄目かもしれない」


「どないしてん。あのあと、何かあったんか」


「ふっ」

 僕は短く息を吐いて、自分を笑った。

「両親に会ってすぐ、はじめまして、って言っちゃった」


「はじめましてえ? 自分の親にか」


「なんとかならないかな……。ならないよなあ」


「覆水盆に返らずや。来年の盆にまた帰って来るしかないな」


「こんな時に、つまんないジョーク言わなくていいよ」


「いやいや、案外、的を射たことゆうとるで、これ」


「どういう意味? 時間をおいて出直せってこと?」


「こぼれた水は盆に返らんくても、あんさんは盆に帰って来れるやん。なんぼでもやり直したらええねん。親子やねんから」


 そう言うと、キュキュはメールを差し出した(もちろん実物ではない)。加藤さんからのメールだった。僕は人差し指でメールをタッチして開き、目を通す。

 加藤さん親子は、さらにうまくいっていた。しかも、いきなりの大団円だ。


 加藤さんは両親の顔を見た途端、止めどなく涙が溢れ出たそうだ。そんな娘を見た両親も涙を流し、三人で泣きながら抱き合った、とある。

 これでは里帰り講座に通った意味なんてないではないか。


 咲良さんも加藤さんも、前途洋洋、順風満帆。

 対して僕は、待てど海路の日和なし。

 もちろん待つばかりでは何も開けないことはわかっている。しかし、二人の親にくらべて、うちの親はどうだろう。息子へのアクションが皆無に等しいではないか。

 不平や不満を感じずにはいられない。愚痴の一つも言いたくなる。

 西野先生は、「親を恨まないでほしい」と言っていた。もちろん恨むつもりなんてない。それでも……


 ♫♪♩♪♬


 さくらからの着信を知らせるメロディが端末から流れた。ここ何年もなかったことだ。受話ボタンを押すと、ハーフサイズのさくらが現れた。


「珍しいね、電話なんて」


 さくらはトンキニーズを抱いている。つい最近、彼女が飼いはじめた猫だ。名前はチェリー。


「遅くなってごめんなさい。すぐにリプライするつもりだったんだけど……」

 あまり明るい表情ではない。

「何度も何度も打ち直して、結局、最後に打ったのも消しちゃった。これ以上遅くなるのも悪いから、電話にしたの」


 さくらの話を聞きながら、僕は西野先生のアドバイスを思い出していた。ペットがいると会話が弾むことがある。ペットが様々なきっかけを生む。そんな話だった。

 さくらが突然、猫を飼いはじめたことに合点がいった。そして、彼女の苦悩と努力を知った。


「さっちゃんの方はどんなかんじ?」


「そうね……、お盆に帰省したときにくらべれば、まだマシになってるんじゃないかな。うん、そう思いたい」


 僕の方がうまくいっていないことは、すでに伝えてある。


「根気強くやるしかないよ。時間をかけて」

 僕は落胆を隠して言った。


「そうね。何年もかけて築いていくしかないんだわ」


「何年も、か……。このペースだと、一生かけても、行き着く先は知れてるような気がするな」


「でも、そういう心掛けって大事だと思う。一生かけて親との関係を築いていこうって気持ち。この熱意が冷めたら、ホントに、もう、終わりじゃないかな」


「それはそうだね。うん」


「参考になるかどうか、わかんないけど──」


 さくらは、カルチャースクールのクラスメイトたちの話をはじめた。

 円満な親子関係を築いた人、心が折れて完全に諦めた人、すでに両親二人とも亡くなっていた人──さくらの講座には、いろんな境遇の人が集まっているらしく、どの話も波瀾万丈で興味深かった。

 僕も咲良さんと加藤さんの話をした。さくらの話に触発されたわけではないけれど、加藤さんの幼少期の複雑な事情について、事細かに説明した。


「自分たちの子供じゃない、って言われたの? その子。ずいぶんな荒療治ね」


「親もよっぽど悩んだんじゃないかな」


「でも良かった。そんな紆余曲折があっても、最後にはうまくいったんだから」


「紆余曲折があったからこそ、じゃないかな。僕らみたいに、親子喧嘩の一つも経験したことのない人間が、結局、一番厄介なんだよ」


「雨降ってなんとやら、ってあれね」


「そう、それ。親子の間の葛藤が絆を強くするんだ」


「私は、なかったわけじゃないんだけどね、その親子の葛藤ってやつ」


「えっ、そうなの?」


「ちょっとした出来事っていうか、事件があって、それ以来、親と疎遠になっちゃった」


「事件か。なんだかものものしいね。えっと、聞いてもいいのかな。それってどんな」


「きっかけは、デンよ」


「デン?」


「六年生のときに気付いたの」


「何に?」


「あれ? 知らないかな。デンっていう子供用の秘書アプリがあって」


「デンは知ってるよ、もちろん。四ヵ月前まで使ってたし」


「よっ! 四ヵ月う?」


「あ、ずっとじゃないよ。断続的にね。一年使って、一年別の、ってかんじ」


「ちょ、ちょっと待ってよ! ハルくん、あなた、ひょっとして、知らないの?」


「いや、だから、知ってるって」


「そうじゃなくって!」


 さくらはいったい何に興奮しているのやら。


「さっちゃんもデン使ってたんだ」


「ずっと同じアカウント?」

 さくらは僕の発言をうっちゃる。


「もちろん」


「ああー、どうしよう」

 さくらが悲嘆に暮れた声を出す。

「これって、言わない方がいいのかな。でも、ハルくんの今の状況って、あたしの時とはずいぶん違うし」


「ここまできて、言わない選択肢はないんじゃない?」


「う~ん、ダメだわ。時間が欲しい。三日くらい悩まないと、答えが出ない」


「一旦切ろうか?」

 半ば冗談で言ってみた。


「ごめん、そうさせて」

 さくらはあっけなく電話を切った。


 ♫♪♩♪♬

 

 三分後、ふたたびさくらから電話がかかってきた。今度は映像のない音声のみの通話だった。


「早い三日だなあ」


「ねえハルくん! 落ち着いて聞いて!」


「僕は落ち着いてるよ。取り乱してるのは、さっちゃんだ」


「そ、そうね。そうだわ。落ち着かなきゃ。すうーっ、はあー」

 深呼吸の息遣いが聴こえてくる。

「ハルくん」


「なに?」


「今から大事な話するから、よく聞いて」


「わかった」


「デンはね」


「うん」


「デンの正体は」


「デンの正体?」


「はあっ、すうー……」

 さくらがまた大きく息を吸う。心を静めているのか、単に言い難いのか、沈黙が続く。そして数秒ののち、腹を括った声でこう言った。

「デンの正体は、あなたのご両親よ」


「へ?」


 僕の、両親?


「デンは、ハルくんのお父さんとお母さんなの。たぶん、大半はお母さんの方だと思う」


 うまく飲み込めない。


「えーっと……、それって、比喩か何か?」


「ちがう! デンは本当にハルくんのご両親なの! デンはね、親が子どもを見守るためのアプリなのよ」


「ああ、そうか。位置情報とか利用履歴が親の端末に送られるんだ」


「そうじゃないの。それはまた別のアプリ」


「あ、そう」


「会話よ。デンとの会話。あれはデンがしゃべってるんじゃないの。デンの後ろには親がいて、親がしゃべってるのよ」


 親がしゃべってる?


「いやいや、それはおかしい。だって、質問したら、なんでも瞬時に答えてくれるよ。為替レートだって、マンUの試合の途中経過だって、近所のスーパーの豆腐の値段だって。こっちの今の気温があっちでわかるわけ……、あっ、そうか、あっちの端末に瞬時に表示すれば答えられるな」


「普段のデンは人工知能なの。特に呼び出してすぐは百パーセント人工知能。親の端末に切り替えスイッチがあって、いつでも人工知能と交代できるの。つまりこういうこと。子供がデンと会話を始めると、親の端末に通知が行く。親は会話を聴くことができるし、割り込むこともできる。親の声はデンの声に変換されるし、イントネーションも補正される。わからないことは人工知能に答えさせればいい」


「う~ん……」

 にわかには信じられない。しかし……

「そんなの、すぐバレそうな気がするけどなあ」


「そうね。親の方がよっぽどうまくやるか、子供の方がある程度鈍くないと」


「うっ……」


「ハルくんの場合、ご両親があまり出しゃばらず、控えめだったんじゃないかしら。バレる原因って、親のしゃべり過ぎによることが多いって聞くわ。私の場合、クラスメイトにほのめかされたんだけど、その子はデンを使ってなかったから、最初はデマの受け売りかなって半信半疑だった。でも、ふとしたきっかけで、ひょっとしたらって疑いがどんどん膨らんでいったの。すぐにデンについてネット検索してみたけど、子供用フィルターにブロックされて何もわからなかったわ。もしもし? ハルくん? 聞いてる?」


「ん、ああ……、聞いてる」


 僕は混乱していた。

 驚きが大きすぎて、理解が追いつかない。


「ねえハルくん。私、思うんだけど、これってチャンスじゃないかな。ハルくん、自分では、ご両親とまったく関わりなく過ごしてきたって思ってるでしょうけど、でも、実際はそんなことなかったのよ。二十年もご両親と会話してたの。二十年よ。ハルくん、デンのことどう思ってる? 嫌いじゃないよね? 嫌いだったら二十年も使うわけないもの。そうでしょ? 私はデンを使ってまだ一年くらいだったし、デンに対する好感度もそれほど高くなかった。なにより私自身が子供だったから、感情的になってしまって両親と口を利かなくなっちゃったけど、でもハルくんは、あのときの私とは全然違う。むしろ今のハルくんにとって、デンの正体を知ることは、絶対プラスになると思ったの」

 さくらは懇願するように捲し立てた後、少し間をおいた。自分を落ち着かせているのか、僕の混乱が収まるのを待っているのか。

「ねえ、ハルくん。デンの好感度って、人によってすごく差があるの。当然よね。デンのキャラには親の人格が反映されてるんだから。同じデンはこの世にふたつとして存在しないの。ハルくんのデンは、ハルくんだけのデン。あたしのデンとは違うし、他の人のデンとも違う。だから、私や他の人が自分のデンに腹を立てたとしても、ハルくんが同じように腹を立てる道理はないのよ。ハルくん。ねえ、ハルくん。お願いだから、お父さんとお母さんのこと、怒らないであげて」


 怒る?

 僕は怒っているだろうか?


 さくらは、デンの正体を知って腹を立て、両親と疎遠になった。

 以前、バスに乗り合わせた男性も、「裏切られた」と表現した。


 僕はどうだろうか。

 わからない。

 今はまだ。

 もう少し冷静になってみないと。


 いつのまにか通話は切れていた。

 最後にまた「がんばって」と言われたような気がする。

 端末を耳から離すと、キュキュが現れた。


「mimi あーあ。とうとう気づいてもうたか」


「キュキュは、知ってたの?」


「そら知ってるわいな。この業界の最重要機密事項や」


「みんな自分で気づくのかな?」


「そうでもないで。自力で気づくんは二割もおらんな。たいてい気づく前に、他のアプリに替えてまうねん。おっと。あんまバラしたらあかんのやった」

 キュキュが口を押えながら消えて行く。

「おっ! たった今、年が明けたでー。おめでとーさぁぁぁぁ……」


 深い谷底へ落下しながら叫ぶような新年の挨拶だった。いかにもキュキュらしい。


 僕はランプの明かりを消し、闇の中でしばらく静止した。

 さっきまでいろんな感情が犇めき合い、収拾のつかない状態だったけれど、今はだいぶ落ち着いている。キュキュと話したせいかもしれない。


 暖房を切って、布団に入る。

 目は開けていようが瞑ろうが同じだった。どちらにしても真っ暗で何も見えない。


 一つひとつの事実を確認していく。

 デンちゃんと両親が同一であることは、もう疑わない。疑うのはやめにした。そこにいつまでも拘っていては、先に進めない。


 怒りの感情は、やはりない。

 むしろ哀しい。

 デンちゃんを失ったようで切ない。

 優しくて頼りがいのある僕の弟は、もういないのだ。


 盆休みの最終日にデンちゃんと語り合ったことを思い出す。僕の三十歳の誕生日、デンちゃんと出会って二十周年の記念日。昔話に花が咲いた。

 あのときのデンちゃんも、父と母だったのだろうか。だとしたら、いったいどんな気持ちで話していたのだろう。あんなに長く会話したのは中学時代以来だった。父と母は、久しぶりの息子との会話を楽しんでいたのだろうか。


 僕は、過去のデンちゃんとの会話を、可能な限り思い出そうとしてみた。

 たいしたことは話していない。僕は、プライベートなことはほとんど話さなかった。知られたくない秘密を語った記憶はない。ちょうどいい距離感を保っていた。それが怒りの感情を生まない主因かもしれない。


 うちの両親が控えめだったからバレなかった、とさくらは言った。そうかもしれない。デンちゃんがしつこく詮索してくるようなことは一度としてなかった。

 訊きたいこともあったろう。言いたいこともあったろう。離れて暮らす息子の顔を見たかったろう。

 

 ん? カメラは作動していたのかな?


 まあ、そのあたりは棚上げにしよう。今はもっとポジティブに考えるべきだ。せっかくさくらがお膳立てしてくれたのだから。彼女の心配りを無下にするわけにはいかない。


 気付くと、僕はまた藪をすいていた。細竹の根元に鉈を打ちつけ、叩き切りながら、この二十年の父と母に思いを巡らせた。

 デンちゃんとの付き合いは実質十二年。二十年のうち約八年は別のアプリを使っていた。僕とデンちゃんは、別れと再会を何度も繰り返した。

 僕がデンちゃんを使うのをやめるたび、二人はどんな気がしただろう。

 デンちゃんを使っていない間、二人はどんな思いで暮らしていたのだろう。

 僕が久しぶりにデンちゃんを使った時、僕と同じように嬉しくて、懐かしくて、心が暖かくなっただろうか。


 さくらの話を聞くまで、僕にとって父と母は精神的重しだった。両親について考えなければいけない、向き合わなければならないという重圧に苛まれた。それが今では、考えなくてもいい存在になっている。

 僕は両親から解放された。


 気付けば両親のことよりも、藪を刈ることに集中していた。一本刈るごとに、心が晴れていく。

 分厚い壁だった細竹の藪は、いつの間にか大部分が間伐されていた。

 何も見通せなかった目の前の壁から、光が漏れ出ている。

 一本刈るごとに、明るさが増していく。

 僕はいつのまにか鎌を握っていた。想像の鎌は切れ味抜群だった。

 細竹の根元に鎌をあてがい、手前に向かって一気に引き上げる。鉈よりも効率が良い。稲刈りの要領で次々と細竹を伐採していく。


 そういえば、竹はイネ科植物だったな。

 すると僕は、久しぶりに稲刈りをしているわけか。

 前にやった稲刈り、あれは、いつだっけ。

 そうだ、大学の農業実習で、米作り体験をしたときだ。

 あのときもデンちゃんと話をしたな。

 辛い体勢での作業が続いて、身体のあちこちが悲鳴を上げだすと、デンちゃんが励ましてくれたっけ。

 あのデンちゃんも父か母、おそらく母だったのだろう。十年前なら父はまだ会社勤めをしていたはずだ。


 僕はなおも細竹を刈る。

 隙間から漏れる光は、どんどん眩しさを増していく。

 俯いていても、まともに目を開けていられない。

 そして僕は、最後の竹を刈る。

 これが最後と決めた一本に、鎌をあてがい、勢いよく引き上げた。

 目の前にある光源が燦然と輝く。

 僕はゆっくりと顔を上げた。

 眩しい光と向き合った。

 穏やかで優しい光。

 視界いっぱいに大きな顔があった。

 にっこりと笑うデンちゃんの顔だった。

 


 静かだった。部屋の中も、頭の中も。

 雑念がない。冴えわたっている。

 セミも鳴いていないというのに。


 二つ隣の部屋から、床の上を歩く微かな振動が伝わってきた。次いで、タンスやクローゼットを開閉する音。身支度を整えているようだ。

 ゆっくりと扉が開く音。そして、ひとりが階段を下りる足音。抜き足差し足に近いスローテンポだ。

 後を追うように、もうひとりも階下へ下りて行く。


 しばらくすると、台所から断続的に音が届くようになる。お節作りがはじまったようだ。

 僕はベッドを出て、窓辺まで歩いた。

 カーテンを開き、窓を開ける。ひんやりした外気が清清しい。遠い東の空がほんのり白みはじめていた。


 少し寒かったけれど、窓は開けたままにして、ベッドに戻る。


「キュキュ。デンをインストールしてくれないか」


「mimi」

 キュキュが現れ、薄暗い部屋がわずかに明るさを増す。

「したで。ほれ、IDぶちこんだり」


 僕はベッドの上に胡坐をかいて、毛布を羽織り、デンをセットアップする。手慣れた作業だ。


「よし」


「お? なんや、吹っ切れた顔しとるな」


「もう迷いはないよ」

 キュキュに笑顔を見せる。


「そら、ええこっちゃ」


「キュキュ。今さらだけど、礼を言わせてくれ。僕はキュキュに、とても感謝してるんだ。この四ヵ月、キュキュの明るさにはずいぶん救われた。今こうしてここにいられるのも、キュキュのおかげだ」


「くすぐったいんじゃアホ」

 キュキュは嫌悪感丸出しで、そっぽを向く。

「今生の別れみたいなこと言いよってからに。なんや、わいはもう、お役御免か?」


「とりあえずは」


「ほーか」


「いずれまた」


 キュキュが柔和に笑う。見たことのない表情だった。


「まあ、あんじょうやんなはれ。ほなな」


 キュキュがすぅーっと消えて行く。するとキュキュの後ろに隠れていた、顔を出したばかりの朝日が、真正面から僕を照らした。

 ソメイヨシノとミモザの間に覗く初日の出を、僕はしばらく眺める。穏やかだった心に、ふつふつと活気が湧き上がり、じわじわと全身に漲る。


「さて!」

 はじめるとするか。

「デンちゃん」


「PON!」

 にっこり笑った顔が現れ、朝日に重なる。

「あけましておめでとう! 今年もよろしくね」


 僕は階下に耳を澄ました。着信音のようなものが鳴るかと思ったけれど、それらしい音は聴こえてこない。

 ただ、他の物音も一切聴こえなくなった。お節を作る手がとまったようだ。


「おめでとうデンちゃん。えー……」

 まだ早いだろうか。もう少し待った方が良いかもしれない。とりあえず、人工知能にしか答えられない質問をして、様子を見るとよう。

「デンちゃん、今の気温は?」


「ここは七・八度、窓の外は二・四度だよ」


「三が日の天気をおしえて」


「ここの天気だったら、三日とも快晴だよ。東京の自宅付近は、ついさっき降りだした雨が今日の昼すぎにあがって、あとはずっと晴れが続くみたい。なに? 三日までこっちにいるの?」


 最後のひと言は、どうだろう。人工知能がこんなこと訊くだろうか。しかしまだ断定はできない。


「いや、予定通り、明日帰京するよ。うん」


「そっか」


 僕は、少し踏み込んでみることにした。


「お節料理、楽しみだなあ」


 踏み込みが弱かったか。この程度では、埒はあかないだろう。どうしたものか。


「お節は何が好き?」

 デンちゃんが訊いた。


 わずかに返りが遅かったような気がする。といっても、質問したわけではないから、こんなものか。

 結局のところ、いつまで待っても入れ替わったという確信なんか持てないのかもしれない。そんな簡単に尻尾をつかませるようなら、僕だってとっくの昔に気付いていたはず。

 そろそろ見切りをつけて、親と話しているという前提でいくとしよう。


「なんでも好きだよ。黒豆も、数の子も、ごまめも。えーっと、あの牛蒡は何ていったっけ?」


「たたき牛蒡?」


「そう。たたき牛蒡も好きだし、伊達巻も、棒鱈も、百合根も、くわいも、煮ものは全般好きだよ。かまぼこは、べつにいらないかな。なきゃないで寂しいけどね」

 良かった。デンちゃんの顔を見ながらだと、変わらず饒舌になれる。

「自分でもたまに和食を作るんだよ。聡ちゃんに教わったんだ。だから、僕の味付けは、聡ちゃんの味付けなんだ。もう十年以上作ってるけど、たいして上達してないな。そういえば、聡ちゃんの部屋に居候してたとき、同じアパートに住むおばあさんから、よく煮しめをお裾分けしてもらったんだ。あれも美味しかったなあ。聡ちゃんが作るのとは、微妙に味が違うんだよ。同じような作り方なのに、家によって、ちょっとずつ味が違うんだね」


「実家の味付けは、どう?」


「実家の味かあ。この家で和食を食べた記憶は……、正直、ないんだ」


「えっ? ないの? まったく?」


「情けないよね」


「食べたことあるはずだけどなあ」


 そうか、あるのか。むこうはちゃんと憶えているんだ。


「そうだよね。あるはずだよね」


「きっとあるよ」


「お節を食べたら、思い出すかな」


「思い出すといいね」


「そうだ! いい機会かもしれない。僕も……」

 息を整える。いよいよだ。

「僕も、下に行っていいかな。お節作り、手伝いたいんだ」


 返事がない。


 無言が続く。


 デンちゃんと会話して、こんなに長い沈黙はかつてなかった。


 僕は待った。


 ひたすら待った。


 そして、デンちゃんが答えた。朗らかな声で。


「早くいらっしゃい」


 僕はアプリをオフにした。

 さようなら、デンちゃん。

 いや、そうじゃない。むしろ、本当のデンちゃんとの付き合いがこれから始まるんだ。デンちゃんの顔を見なくても、両親の顔を見ながらでも、饒舌な自分を出せるようにならなくては。


 服を着替えて、扉を開けた。階下から届く音が鮮明になる。包丁とまな板が奏でる軽快なリズム。

 僕は部屋から足を踏み出した。

 両親の待つ台所へと向かうべく、一歩一歩階段を下りる。

 お節料理なんて、もちろん作ったことはない。この家の味付けも知らない。手伝うといったって、足手まといにしかならないだろう。

 でもまあ、わからないことがあれば、デンちゃんに訊けばいいや。


『里帰りの傾向と対策』完結

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里帰りの傾向と対策 一里塚 @ka946946

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