橙髪少女と小旅行

七四六明

橙髪少女と小旅行

 世界政府は奔走し、世界は震撼した。

 何せ自ら他の生物の一切が済まない静謐なる霊峰から出ることのなかった災禍が、自ら飛び出していったのだから。

 理由は不明。行先は多くの民と異国の旅行客が集う南の王国。かの災害が猛威を振るおうものなら、世界に対する損害と被害は甚大だ。

 すぐさま作戦会議のために対策本部を設置、五人の大魔術師に連絡を取り、応援を要請。誤認中三人は応答せず【不動】の魔術師は通り名の通り動けない。

 その中で唯一、最後に連絡した魔術師が応答したことに関しては、世界政府も驚きを禁じ得なかった。

 今の今まで連絡も寄越さず、応答もしなかった【外道】の魔術師――アヴァロン・シュタインは悠々と皮肉を込めて挨拶を述べる。

『これはこれは世界政府のボンボン諸君、ご機嫌いかがだろうかネ。こちらは生憎と研究で忙しいのだが、大量ホムンクルスの生産依頼なら受けなくもないヨ』

「アヴァロン・シュタイン! 今どこにいる! 今南のラィクード王国に災禍が出現した! 至急そこへ向かって災禍の様子を見張って欲しい! 状況次第では――」

『交戦も在り得る、と言いたいのかネ? ご苦労なこったネェ、世界政府は。災禍が移動しただけでこれだけ騒がなければいけないのだから、大した重労働だヨ』

 鬼気迫る緊迫感で連絡を寄越してきた相手に対し、外道魔術師は騒ぎ過ぎだと言わんばかりに悠々と皮肉を籠めて返す。

 嘲笑されたように感じただろう政府の人間は怒りに任せて怒鳴ろうとしたが、それすらも御見通しとばかりに外道魔術師は先んじて言葉を投げつけてきた。

『問題ないヨ。今、災禍を窓越しに捉えている』

 まさかすでに災禍のすぐ近くにいるなどとは思わなかった政府の幹部は黙ってしまう。言葉を詰まらせて次に繰り出す言葉に悩む姿を想像したのか、外道魔術師は今度こそ政府を嘲笑った。

『まったく、衛星補足で位置だけを特定しているから無駄骨を折るのだヨ。奴ならすぐここから消えるサ。だがこれから、そうだネェ……二、三時間は何もしない方がいいと、警告しておくヨ』

「どういう、ことだ」

『なぁに、簡単なことだヨ――これから二人の時間だ、邪魔をするべきじゃない。それだけのことサ』

 外道魔術師との通信はここで一方的に切られた。

 政府としては彼の意図も、彼の言葉の意味も理解しかねるものだったが、結局彼の言葉通り何も起きることはなく、心配は杞憂に終わり奔走は徒労に終わる。

 結果、張り詰めていた緊張感は疲労感へと変わって政府全体を緩ませたものの、結局災禍が何故動いたのか、その理由を見出すことはできないままだった。


  *  *  *  *  *


「少し……飛ぼうか」

 説明のいらない誘い文句だった。

 少なくとも、記憶喪失にてあまり語彙を持たない少女に求める新たな言葉はなかった。

 多くの命を奪った声に誘われるがまま、多くの命が消えゆく瞬間に触れた腕に抱き上げられて、疾風はやての如く飛翔する。

 オレンジにとって、空は特別なものではなかった。飛ぶということに対する感動も薄い。

 何せ今生活をしているのは空中施設で、窓の外は一面の青空。

 雲海を掻き分けて進む寒さも、V字に隊列を組んで鳥の力強さも、空にいたから誰よりも先に知ってしまっていて、その部分に関しては世間と大きくズレが生じていた。

 だが今、少女の価値観は引っ繰り返る。

 自らの体で風を切り、地に足がつかぬまま平行に移動する感覚にあるのは、体重が十分の一以上軽くなったような爽快感。

 時に臓物が掴まれ、持ちあげられような感覚に覚えるのは若干の恐怖。

 同時、ひしとしがみつく腕の力強さに安堵し、自分が今災禍の腕の中にいるのだという事実確認を経て、オレンジはただ身を任せ、目の前の情景に心を動かすことに集中できた。

 颯爽と、花弁を散らしながら花畑を直進。崖を飛び降りて、水面ギリギリ上を滑空する。

 白波を立て、掻き混ざった潮騒を届ける海そのものは漆黒で、光源もない無限の深淵。だが波を立てる水面は夜空で輝く星々の光を転写して、何億光年先のそらから来る色彩で彩られている。

 呼吸はできる。光も見える。潮騒も、彼の息遣いも体温も感じられる。

 だが光景だけを見ればもはや空を超えたその先を駆け抜けているような感覚で、生きているような死んでいるような、なんとも言えない心地が少しだけ怖くて、少しだけ弾んだ気持ちになった。

 外道魔術師たる博士からしてみれば「つまらない奴だネェ。そんな原始的な物を見て楽しいのかネ」などと言い捨てそうな光景であったが、オレンジには余りある情景だった。

 難しいことはわからない。物の価値なんて計れない。

 世界に対して無垢ならまだしも、無知な相手に何かを送るとしたら、こんな幻想的風景のような、考える必要もないくらいに当然のものがいい。

 誰もが考えるまでもなく美しいと思える、等価値のものがいい。

 世界が災害として認めた災禍レキエムは世界が思うよりもずっと優しく、記憶喪失の少女の扱いをわかってくれていた。

「どうだろうか。少しは、気が楽になっただろうか」

「はい。綺麗、ですね」

 剣を向けられていた震えはない。もう怖くない。自分を抱き上げ、星を見せてくれる災禍の温もりが、剣を向けられていた恐怖を拭い去ってくれた。

「さっきは、ありがとうございました」

「……本当に、虫の知らせがあったのだ。風の便りがあった。そういう魔術があるという話ではない。感覚の話だ。そんなあやふやなものだったが、行かねばならぬと思った。そして、従ってよかったと思っている。汝を、護ることができた」

 波打つ鏡が潮の流れに掻き混ぜられ、映す星の海をも掻き混ぜる。

 出来上がった極小の銀河の中に飛び込んだレキエムは、渦巻く銀河の中央から颯爽と飛び上がり、海面の銀河を作り上げた潮の流れに乗ってゆっくりと、漂うように飛んでいく。

「あの星は、流れ星ではないのですか?」

「あれは彗星、と呼ぶ。流れゆくものではあるが、あれは広大な宇宙を絶えず燃えながら動き続け、種類によってはこの星にて見られるのは数万年も後というものもあるらしい」

「ずっと、流れているのですか?」

「そうだ。流星は、この星の上を流れる一瞬しか輝けぬ。しかしあの星は、我々の想像を遥か凌駕する時間輝き、想像を絶する距離を巡ってこの星の上にいる。今我々の上で輝くあれも、次にいつ見られるかわからん――もう二度と、見られぬかもしれん」

「奇跡、なのですね」

「そうかもしれん。丁度、汝を励ますにいいと思った……奇跡と呼んで、過言でもなかろう」

 流れ星、隕石は一度見たことがある。採取までしたことがある。

 だけど今、空で尾を引いて輝く彗星という星は触れることさえ能わず、もう二度と見ることさえ能わないかもしれないという。

 広大で、壮大で、偉大で、自分なんてちっぽけな存在では決して届かない領域だ。

 自分だけでは、今日この空を見上げただけで終わっていた。空に輝く真白の尾を引く赤い星を見上げたところで、不思議だなと思うだけで終わっていた。

 無知故に、それだけで終わってしまっていた。

 だけど彼のお陰で、今日の空が特別な空となったことはきっと、いやずっと忘れない。もしもまた記憶を失ってしまっても、この日のことだけは忘れたくない。

 そう強く思うこの感情の根源は、その名は――無知故に、知らないが。

「震えが、止まってくれたな」

「あなたから見ても、この空は綺麗ですか?」

「あぁ。少なくとも、霊峰からは見られぬ空だ。この空は、あの彗星は、誰の心にも等しく、美しいものとして残るだろう。汝の心にも、残るといいのだが」

「残ります。私は、あの星よりも綺麗なものをまだ、見たことがありません。きっとこの先も、今日見たあのすい、せい……を超えるものはきっと、ない……と思います」

「――いや、すぐに超えるかもしれん」

「え……?」

 不意に、一つの光源が現れる。

 水平線をゆっくりと昇ってくるそれの正体が朝日だと、太陽だと気付くのに少し時間がかかった。

 去年の元日、博士やホムンクルスの皆と初日の出と称して朝日を見たはずなのに、まったく違う印象だった。

 どこか神々しくて、暖かい。

 今の今まで鮮明な星空を映していた水面が白く染まって、星の輝きを掻き消していく。空の真ん中で美しく尾を引いていた彗星の存在さえ、消えて行ってしまう。

 そう思うと寂しくもあったが、確かに彼の言う通り、水平線より昇り来る太陽の輝きは、今さっき最高だと思っていた彗星の輝きを霞ませるほどに美しかった。

「今日の汝のように、恐ろしい目にも合うだろう。夜が恐ろしくなる日も来るだろう。そんなときは星を見つめよ。わずかな光を見続けて、自らを鼓舞し、耐えるのだ。そうすればいつか、必ず、太陽が顔を出す。そなたにとっての太陽、恐怖を掻き消し、恐怖を誤魔化すため見続けていた星の輝きさえも忘れてしまうほどの希望が、必ず――」

 汝が私にとっての太陽であったように、必ずな。

 その言葉は、災禍の中に押し留められた。

 人間としての恥ずかしさが残っていたのか、最後にその言葉を添えることだけは憚られた。どうしても恥が勝って、言えなかった。

 けれど、伝えたいことは伝えられた。そして今、少女の感動は朝日の美しさにある。無粋な言葉を長々と添えるものでもあるまい。

「ありがとうございます。レキエムさん――私、今日のことを忘れません。ずっと、ずっと憶えています。憶えていたいです。ずっと……あなたとこうして、一緒に朝日を見れたこと」

「そうか……私としても、嬉しい。汝の心に、残ることができるのなら――またいつか、星を見よう。汝に辛いことがあったとき、恐怖に怯えたとき、私が連れ出そう。だから、共に、見に行ってくれるだろうか。こんな醜き怪物の願いを、聞いてくれるだろうか」

「はい、どうか連れ出してください。あなた様の手で、無知な私に、世界の一端を教えてください」

 恐怖は闇。しかしそこに輝く小さな星々。

 開けぬ夜はなく、いつとて夜を終わらせる太陽は昇り、明日は始まる。

 オレンジと災禍の小さな旅路もまた終わりを告げ、二人の再開はまた次の機会へと。

 ただし決して遠い話ではない。光は互いの胸の中に、互いの形を影として、輝き続けているのだから。

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