やどや

 むかしむかしあるところに、小さな宿屋がありました。宿屋は木造で、装飾こそ質素な作りでこそありましたが、見事な料理や、くつろぐのにちょうど良い広さの大浴場、宿の女将さんの心あるおもてなしなどで、お客様からの評判は上々でした。ところがお客様の中には稀に素行の良くない方がやって来ることがありました。ある日のこと、素行の悪い人の中でも、今まででは一番酷いという人が、とうとう宿にやって来ました。そのお客様は従業員や他のお客様に、機嫌の良い時はちょっかいを出し、悪い時は相手が打ちのめされるまで罵詈雑言を浴びせました。

 耐えかねた女将さんは、このタチの悪いお客様を注意し、これ以上周りに危害を加えるようならば、退去してもらうと、穏やかながらも強い口調で言いました。すると、そのお客様は却ってますます腹を立てて、宿泊している部屋や、宿の廊下、売店、食堂、大浴場で暴れ、辺りを散らかすだけ散らかしてから、御代も払わずに帰ってしまいました。従業員の多くはショックで気が滅入って仕事に手がつかなくなり、他のまともなお客様もあんな困ったお客様が来るならと泊まらなくなっていきました。女将さんも相当落ち込み、胃薬が足りないほどでした。

 それから暫くした後、宿が立ち直ろうとしている最中に、あのタチの悪いお客様の話題が沸き起こって来ました。なんとあのタチの悪いお客様は、実は創業数十年以上の老舗の大企業の社長でした。社長は名声を盾に、宿の悪口を、ネットを通して世界中に言いふらし、今では宿は「近年稀に見るサービスの劣悪な宿」で有名になっていました。社長の傘下の企業で働く人々は多く、反論する者はいませんでした。

 やがて宿は経営が苦しくなり、すっかり寂れました。女将さんはどう考えても宿が立ち直れないと確信すると、優しさから他の従業員達を少しずつ、他の有望な宿へと転職させました。独りぼっちになった女将さんは、涙ながらに愛する宿の中で包丁を胸に刺して亡くなりました。それから数か月後、女将さんの愛した宿はよりにもよってあの社長が土地を買い取り、ここに新しいリゾート施設を建てようと計画し始めたのです。ところが予定地で作業していた人々が怪現象に襲われるようになりました。社員達は狂気に我を失って帰ってきたのです。

社長は問題を解決すべく部下を派遣したものの駄目だったため、自ら予定地に行きました。すると、辺りは湯煙が立ち込めており、視界が見えません。覚束無い足どりで社長が前に進むと、そこにはあの宿がありました。社長は潰したはずだと不気味に思いながらも中に入りました。中はがらんとしていて誰もいません。社長が恐る恐る進むと、「いらっしゃいませ」と繰り返す声が聞こえました。そこには胸から血を流す女将さんがいました。女将さんは「地獄へいらっしゃいませ!」と笑うと、包丁で社長の全身を滅多刺しにして、切り刻むと、刺身にして綺麗にお皿へ盛り付けました。お頭になった社長は、自分の身体が食堂で鬼達に振るわれているのを黙って見ることしか出来ませんでした。

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習作掌編小説まとめ・怖い話 天海彗星 @AmachanKantai

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