雪女郎

増田朋美

雪女郎

雪女郎

その日はことのほか寒く、朝からどんよりしていて、これは雨が降るぞと明らかにわかる天気であった。みんな洗濯物を外に干さず、家の中で干した。

その日の午後、天気予報では、山間部は雪が降ると報じていた。と言っても、電車が止まるような大雪になることはないので、みんな、冬の恰好をして、外へ平気で出て行った。

「今日は寒いわねえ。」

ブッチャーの姉有希と、ちょっと小康状態を得て、外へ出た水穂が、製鉄所近くの道路を歩きながら、そんなことを言っている。二人は、年越しに飾るためのお飾りなどを買うために、ホームセンターに出かけて、その帰りだった。

「水穂さん大丈夫?」

有希は、水穂さんにそっと声をかけた。水穂は、小さい声でええ、とだけ言った。でも、本当は、この寒さで、凍えそうなほどであった。

暫く歩くと、二人の鼻の上に冷たいものが乗った。なんだろうと思ったら、氷の塊だ。つまり、雪が降ってきたという事か。急いで帰ろう、と、有希も水穂もそれなりに歩き始めた。

急に風が吹いてきて、雪が激しくなってきた。道路にも雪が積もり始める。多分きっと、最近よく使われる異常気象という言葉で、片付けられるかもしれないが、有希はそれを、こんな風に解釈したのだった。

「怖いわ。ひょっとすると、雪女とか、さむとの婆とか、そういうモノかも知れない。いきなり、こんな大雪になるなんて、あり得ない話だもの。」

そんなわけないでしょうと、水穂は思ったが、この気持ち悪いほどの強い風と雪は、もしかしたらそうかもしれないと、予測してしまいそうなものであった。

「それにしても寒い。とにかく早く帰りましょう。」

有希は、水穂さんの手を引っ張って歩き始めたが、水穂さんはもう疲れ切ってしまって、歩くことなど、とてもできないのであった。ちょうど、目の前にバラ公園が見えたので、あそこのあずまやで少し休んでいこうかと、有希は言った。水穂もそうした方がよいと思ったので、二人はそうすることにした。二人がバラ公園のあずまやにたどり着いたときは、たぐいまれなる大吹雪になっていて、もう前方を見る事すらできないほどになっていた。たぶんきっとすぐ止むだろうと、二人は、椅子に座って、しずかに待っていることにした。

しかし、雪はやまない。どんどん強くなるばかりである。これでは、雪というより、冬の嵐という感じである。もはや、どこに何があるかわからない状態までなり、これではまさしく、遭難したというのと同じような感じではないか、と、二人が考えていると、前方に一人の人物が立っているのが見えた。間違いなく人間の形をしているのであるが、でも、どうしてこの寒いのに、白い着物一枚で平気なのだろう、と考えると、答えはやっぱり一つしか考えられないのだった。

「雪女だ。やっぱり雪女が出たんだわ。」

と、有希がそうつぶやく。という事は、誰かよい男を見つけて、その生き胆を抜くか、あるいは凍死させる目的で現れたんだろう。有希も、彼女に対する伝承は、昔話が好きな親戚のおばから、そう聞かされたことがある。

と、いう事は、標的は水穂さんか。

後で、水穂さんが咳き込んでいるのが聞こえてきた。有希は、この人だけは絶対に渡さないと心に誓った。

前方から近づいてくる女は、やはり有希が予測した通り、雪みたいに色白で、一枚の白い着物を身に着けていた。両手には、小さな子供を抱いていた。そこも有希が聞いた伝承のとおりだった。確か、その子どもを抱いてくれと頼んで、その子の体重を段々に重くさせ、疲れ果てたところで凍死させる。これが、彼女のよく使うテクニックであるという事も有希は知っている。

有希は、そういう手を使ってきても、絶対に水穂さんをあなたには渡すものか、と身構える。女の姿は、いよいよはっきりとわかってきた。やっぱり、跣で歩いているんだから、雪女だ。それに間違いない、と有希は確信した。

「この子を抱いてください。」

と、彼女は細い声で言った。その白い顔と、水穂さんの白い顔が、同じくらいの白さであることに、有希は驚いてしまった。多分、そのセリフは水穂さんに言ったんだと思う。雪女が標的にするのは、大体男性であるから。

「いいわ、子守なら、私がする。産んだことはないけれど、私だって、小さな赤ちゃんの面倒を見た覚えはあるわ。」

有希は水穂さんの前に立ちふさがって、つっけんどんに言った。そして、女から子供を奪う様に抱きかかえた。これが、だんだん重くなっていくと思われたが、それでも人間の赤ちゃんと大して変わらないのだった。

「一体何があったんです?」

有希は、何食わぬ顔をして、そう彼女に聞く。

「いえ、どうしても、この子を育てられなくて、困っているところなんです。」

と、彼女は言った。その言葉は、まるで水穂さんに言っているように見えた。まあ確かに、標的は水穂さんであるから、そうなってしまうのだろう。

「そうですか。」

軽く咳き込みながら、水穂さんはそう言った。その真っ青な顔は、目の前にいる雪女と大して変わらないのは前述したとおりであるが、雪女も彼を同胞であると勘違いしているらしい。それとも、標的に対して、攻撃の仕方を変えているのだろうか。

「育てられないって、いったい何があったんです?夜泣きがひどいとか、ミルクを飲みたがらないとか、そういう事ですか。」

水穂さんがそう聞くと、彼女は答えに迷っているようだ。

「ええ、飲まないんです。いくら乳をあげても、飲まないんです。」

という彼女。

「僕も、實を言うと、牛乳は苦手でしたね。まあ、牛乳を用意する余裕もありませんでしたが。」

水穂さんは、またそういうことを言った。

「そうなんですか。あたし、乳は出なくて。」

という彼女。

「今は、公共の相談機関なんかもあるじゃない。そういうものをうまく使えば、なんとかなるんじゃないかしら。あたしなら、真っ先にそうするかなあ。それに今は、若いお母さんを援助するようなサークルもいろいろありますし。」

と、有希が口をはさむ。そう言うと、雪女は有希をぎょろっとした目で見た。多分、そういう答えは言ってほしくないのかもしれない。

「そうですね。確かに、そういうところに行くには、交通手段も必要ですし、誰かの理解がないと、いかせてもらえませんしね。相手が無理解な人であったら、それは行かせてはもらえないでしょう。」

水穂さんがそういうと、彼女は、やっとわかってくれたのか、という顔をした。

「そうですか。あなたも、経済的に貧しいとか、そういう方なんですか。僕もそうでしたよ。この銘仙の着物が動かない証拠です。」

そう言って水穂さんは、羽織の袖を彼女に見せた。そうすると、彼女は、さらにびっくりした顔をしていた。

「驚かれました?僕みたいな身分の人間が、まだ生きていたのかと思うでしょう。」

そういう水穂さんに、彼女は、小さくうなづいた。

「そういう事ですか。僕みたいな階級はもうないとでも、思ってましたか。」

水穂さんは、彼女にそういうのである。

「僕の住んでいたところは、そういう所でした。ほかの人から、立ち入り禁止と言われて、そこの入り口をくぐるのが何よりも嫌でした。外へ出れば、革の匂いで汚れると周りの人から言われまして。家の中には、牛や豚何かの革が大量にありましたよ。それで、鞄とか、帽子とか、靴とか作って、生計を立ててましたから。みんな、今日のご飯を食べるのがやっとで。そういう作ったものを販売したりとか、日雇いに出るとか、そういう事しか賃金はもらえなかった。」

そう言って、水穂さんは、また咳き込み始めてしまった。有希は、本当ならすぐに水穂さんの背中をたたいてやりたいが、抱えている赤ん坊の事があって、それはできなかった。

「僕たちが、過去に悪いことをしたとか、そういう事をしたわけでも無いのですけどね。でも、立ち入り禁止区域から出てきたせいで、碌な仕事にもつけなかったし、碌な人生を送ったこともありませんでした。だから、今終わっても結構ですよ。」

咳き込んだあと、水穂さんはそう言った。そういうことを聞いていると、彼女は、この人に危害を加えてはならないと思ったらしい。不意に表情が柔らかくなって、こういう事を言ったのである。

「ええ、わかりました。私も、自ら終わろうとする何て、そんなことをさせたくはありません。ごめんなさい。もう、今日は帰ります。」

意外なセリフだった。

「それでは、子どもを私に返してください。今日は、帰ります。」

「そうね、お母さんの下へ帰るのが一番良いわよ。」

有希はそう言って、彼女に、赤ちゃんを手渡した。赤ちゃんは、お母さんのところに戻ったのが、よほどうれしかったのだろう。ふんふんという声を上げている。

「今日はすみません。こんな、馬鹿なことをしてしまって。本当にすみませんでした。」

と、彼女は言って、赤ちゃんを受け取って、元来た道を戻っていった。その背中を水穂も有希も、目を離すことができなかった。こんな寒い中、跣で道路を歩くなんて、間違いなく雪女その人である、と、有希は確信した。彼女は、頭に雪をかぶって、段々遠くの方へ離れていくのだが、きっと棲家である、森にでも帰っていくのだろう。

そのうち、大雪は止んだ。やっぱりよくある短時間の異常気象だったらしい。段々に雲が流れて、晴れてきた。

「さあ、もう雪女は去ったわ。もう、帰りましょうよ、水穂さん。」

有希がそういうと、水穂さんは、寒さと疲れのためか、咳き込んで倒れてしまった。

雪女の持っている子供を抱き続けると、怪力になるという。有希は急いで彼をよいしょ、と背中に背負って、製鉄所に帰っていった。もう、晴れてしまったから、雪が降る心配はない。幸いバラ公園から製鉄所は、たいした距離があるわけでもなく、ほんの数分でたどり着いてしまった。

それから暫くの間は晴天が続いた。ものすごく寒い日はあったけど、雪が降るという事はなかった。もともと静岡県は、温暖な気候であるし、北海道とか東北みたいに、大吹雪に見舞われるという事は、なくて当たり前なのである。

暫くの間、水穂さんは高熱が続いて、布団から出られることはなかった。有希は、毎日製鉄所にやってきて、食事をさせたり、着替えをさせたりと、日常的なせわをしていた。


数日後、影浦が往診のため製鉄所にやってきた。水穂さんに、気分はどうですか、など聞いて言ったが、水穂さんは熱のため、しっかり答えをいう事ができなかった。

「水穂さん、ほら、影浦先生の質問に、答えを出さなきゃダメじゃない。」

有希が、水穂さんの氷嚢を取り換えながら、そんなことを言った。

「あ、ああ、すみません。」

水穂が、やっとぼんやりした頭で、やっとそういうことを言うと、

「よろしいわ。良かった。」

有希が、まるで水穂を管理しているように言った。

「何ですか。水穂さんは、今有希さんに世話を受けているみたいじゃないですか。」

と、影浦がにこやかに言うと、

「だって、心配なんですもの。いくら障害者だからって、他人の世話をしちゃいけないとでも言うんですか、影浦先生。」

と、いう答えが帰ってきたので、影浦は、

「そうですか。では、水穂さんも、有希さんに一生懸命看病してもらって、早く良くなるように、努力してくださいませ。」

と、言っておいた。

「まあ、先生ったら。そういうことを言って。それではまるであたしが、頼りにならないようだとでも、言うのかしら。」

有希がむきになってそういうと、

「いえいえ、誰かの世話をしたいという気持ちは、精神疾患から解放されるいい足掛かりになりますよ。一般的にはそうですね。でも、たまにそうじゃない人もいるかな。中には、ものすごく世話をしたくて、精神が崩壊してしまう人もいますけどね。」

と、影浦はそういうことを言った。

「まあ、影浦先生ったら。そんなこと言って、それじゃあ、女の人を馬鹿にしているように見えますわよ。女ってのはね、多かれ少なかれ、他人の世話をしたくなるもんですよ。それが、愛情ってことにもつながるんじゃないかしら。そういう、期間を経て母親になっていくって、あたしは学校で習いましたわよ。」

有希は、またそういう事を言う。今の時代では、そういう女性は逆に少ないのではないかと、影浦は思ったが、有希はそう思い込んでいるようなので、それは言わないで置いた。

「そうですか。それじゃあ、有希さんに世話をしてもらう相手は、幸せですね。」

そう言うと、布団で寝ていた水穂さんが軽く咳き込んだ。有希は、ああ、もう、と言いながらも、水穂さんにタオルを渡して、口元をきれいに拭いてやる。

「そんな風にかゆいところに手が届くような世話を、他の人もうまくできればいいのですがね。」

「もう、そんなこと言わないでください。あたし達は、お互い世話をする人と、される人とちゃんと合意して成立しているんですから、それをからかうような真似はやめてくださいよ。さっきの精神が崩壊したとかいう女の人だって、周りが変な風に手を出したから、崩壊してしまったんじゃありませんの?」

影浦がそういうと、有希はそういうことを言った。そして黙っている水穂をしり目に、有希はこんなことを言いだした。

「ねえ、影浦先生、その女の人って、どういう人なんですか。その、、、世話をしたい気持ちが強すぎて、精神が崩壊してしまったという人。」

「ああ、彼女の事ですか。まあ、僕が担当している、患者さんですよ。まあ、江戸時代の文献みたいな人生を送ってきた女性ですけどね。それゆえに、子どもさんを持つとなると、ちょっとトラブルも多くなるんでしょうね。」

有希の話に、影浦はそう答えをだした。よく女の人だと直感的にわかったものだなと思った。

「へえ、どんな人生なのよ。あたし、誰にも言わないから、一寸おしえてくださいな。江戸時代の文献って言うと、曽根崎心中とか、そういう本ですかね。」

有希はさらに聞きたがった。水穂は、もうそれ以上聞くのはやめたらと言いたかったが、高熱のためそれは言えなかった。それを読み取ることは、有希にはできなかったらしい。

「まあ、そういう感じですね。言ってみれば、飛田新地で、女郎をしていた方ですよ。飛田は、表向きは、料亭ですが、今でもほぼ昔ながらの遊郭ですからね。そこでお客さんの一人に身請けしてもらって、結婚したんですよ。翌年に男の子が一人生まれたそうですが、ご主人のお母様が、遊女に子供は育てられないって、その子を親戚に養子に出すという話をまとめたらしいんですね。幸い、ご主人が説得してくれて、それは取りやめにしたそうですけれども、彼女は、それで疲弊してしまったんでしょう。時々、パニックになって、子供さんを抱いて、徘徊してしまう症状があるんです。」

影浦は、そういう事を言った。

「そうなんですか。先生。それくらい、彼女は、子供さんを愛していらしたんですね。あたしも、子どもが生まれたら、そのくらい、愛情を注いでやりたいわ。」

有希は、にこやかにそういうことを言っている。妖艶な彼女は、男性に余分なことを言わせる能力がある。そういう顔で、真剣に聞かれると、ついつい余計なことをしゃべってしまいたくなるものだ。

「まあ、彼女は、飛田で働いていたころは、色白で美人だったそうです。それなのに、女郎さんらしくない、繊細なところがあったようなので、ほかの女郎さんたちは、彼女を雪女と呼んでいたそうですよ。」

影浦はそういうことを言った。

「そうなんですね。でも、雪は繊細なイメージだけではありませんわよ。時には、人間を死に至らしめたりしますもの。それを考えれば、彼女だって立ち直れるんじゃありませんか。」

「いいことを言いますね。有希さん。それは、彼女を治療するのに、役に立つキーワードになるかも知れない。」

有希がそういうと、影浦もなるほどと言った。水穂だけが熱のせいで、その話に参加できなかった。

「彼女、雪女とからかわれていたことを、さんざん気にしていましたからね。どうしても強くなれないって言って、ひどく悩んでおられました。強くなろうと思っても、その雪女と言われる容姿のせいで、何も言えなくなってしまうって、よく、病院の中で泣いてましたよ。」

ああそうか、、、そういう事だったのか。

熱に邪魔されて、考える事もできなかったが、水穂はそんな風に思った。

きっと、あの時見た、雪女と呼ばれた女性は、その女性なのだろう。子供を連れて、雪の中を徘徊していたのだと。

でも、雪女を見た事は、誰にも言わないで置こう、と水穂は思った。だって彼女は、雪女として、徘徊していた時だけ、母親となっていられることができるんだから。

そういえば、雪女の伝承でも、雪女は自分を見たことを、くれぐれも他人に漏らしてはいけないと言っていたっけ。結局、伝承では、人間に化けて、主人公の家にやってきた雪女本人に、主人公が雪女を見たとしゃべってしまうのだが、水穂は、そういうことはしないようにしようと決めた。

不意に、影浦のスマートフォンが鳴る。先生、なっていますよ、と有希に言われて、影浦は、わかりましたと言って、スマートフォンを取った。

「はいはいもしもし。ああ、看護師長さん。ああそうですか。それは大変だ。とりあえず、彼女が行きそうなところを探してみてください。」

という事は、またその女性が、徘徊に出てしまったという事か。

「ええ、わかりました。影浦先生。紀平さんが、良くいきそうな場所というのは、どこになるんでしょうか。早くしないと、息子さんまで危害を加えるんじゃないかなと、あたしは、心配になってしまうんですよ。」

そうか、精神を病んでしまうと、そういう風に、息子さんに危害を加える人物になってしまうらしい。それは、どんな人間でもそうなってしまうようなのだ。

「ええ。とりあえず、僕も直ぐに帰りますから、とりあえず、紀平さんがこれまでに出没したのはバラ公園。」

「わかりました。とりあえずそちらを重点的に探しますから。」

「はい。僕もすぐに行きます。」

影浦は、そういってスマートフォンの電話を切って、

「すみませんが、患者さんがまた試験外泊中に行方不明になったという連絡が入りましたので。」

と、影浦は立ち上がって、軽く一礼し、それでは、と言って、身の回りのものを鞄に入れて、製鉄所を出て行った。

「そうかあ。雪女が、こっちへ遊びに来てくれたのか。」

有希は、そういうことを言っている。水穂も、雪女がこちらに来たことは、誰にも言わないでそのままにしておいてあげようと思った。そういう訳で、バラ公園に雪女が出たという噂は、どこにも起こらなかった。





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雪女郎 増田朋美 @masubuchi4996

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