第32話 緋色 vs 碧
夜九時二十分。
合宿所の廊下で緋色と合流した。ジャージ姿に運動靴を手にした緋色の目は真剣そのもの。
「本当についてくるのか?」
体育館に向かって歩きながら確認した。何度も何度も。
「本当に本当に本当についていきます」
緋色の決心は固い。
これはもうなにを言っても無駄だろう。
そもそも、なぜだ。
なんでこうなった。
碧さんがおれに「デーティング(仮交際)しよう」とアプローチしてきた。で、タイミングよく電話をかけてきた緋色を軽く挑発(?)した。その結果、緋色が「自分もついていく」とやってきたわけだが。
一体これからなにが始まるんだ?
私闘? いや、ケンカはいかんだろう。
第一体育館はすでに明かりがついていた。おれよりも先に緋色が扉に手をかける。
「お邪魔します!」
と腹から声を出して横へスライドさせた。ぺこり、とお辞儀して入るのも忘れない。おれも後からついて行って後ろ手に扉を閉めた。
「……なんだ、佑人ひとりではないのか」
昨日と同じようにシュート練習していた碧さんは面食らったように手を止めると、無言のまましばし緋色と睨みあっていた。
え、なにテレパシーでなにかやりとりしてんの?
おれ何も聞こえないんだけど。おーい。
「なるほど」
先に動いたのは碧さんだ。ボールを弾ませながらこちらに近づいてくる。
「わたしが佑人とデーティングするのが不満で文句を言いに来たのか? ふたりがまだ交際していないなら構わないと思ったのだがな」
「か、構います。大いに構います!」
おい日本語。
「ひと君と私は確かにまだ付き合っていません。でも……、でもモヤモヤして仕方ないんです。姫氏原さんは美人で背が高くて格好良くてバスケもうまい――それに比べると私は運動音痴でいつもオドオドしていてひと君に助けてもらってばかりだけど、でも、ひと君にはいずれ私のかっ――彼氏さんになって欲しいんですっ」
キュン。
キュンってしたぞ、いま。心臓が止まりそうになった。
しかし碧さんは冷静だ。
「彼氏になって欲しい? いずれ? いまじゃなく?」
「それは……」
険しい表情で緋色に迫る。
身長差は十センチ以上。想像以上の
「思わせぶりな態度が逆に佑人を傷つけていることに気づかないのか? デーティング期間とわたしは言ったが、本当ならそんなものは必要ないはずだ。他に好きな男がいるのなら佑人の申し出をきっちり断るべきだった。それが出来ずに生ぬるい関係を続けていたから佑人は期待し、我慢しているのだろう? 責任はあなたにある」
鎖骨のあたりを指さされた緋色がびくっと体をすくませた。
たしかに緋色が取り付く島もないくらいキッパリとおれをふってくれたら――いや違う。
緋色のせいじゃない。
おれが粘った。駄々をこねたんだ。アイツしか眼中にないことを知っていたくせに緋色の優しさにつけこんだ。悪いのはおれだ。
「碧さん待ってくれ、おれが」
「ひと君のことが好きです!」
おれの声を遮る大声で緋色が叫ぶ。
全身をぶるぶると震わせながら、涙目で碧さんの目を見つけながら、必死に声を振り絞る。
「はじめはゆーくんと同じ名前ってこと以外なんとも思っていなかったけど、ひと君はずっと私の傍にいてくれた。弱いところもダメなところも受け入れて笑ってくれた。今はもうひと君がいない毎日なんて想像できない。ずっと傍にいてほしい。虫のいいことばかり言う私は身勝手で、どうしようもなくワガママだと思うけど、それでもひと君を渡したくない」
体育館に響き渡る言葉のひとつひとつがおれの胸を震わせる。
自分のしてきたことは無駄じゃなかった。
頑張って頑張って頑張って、やっと、緋色が振り向いてくれた。
こんなに幸せなことがあるもんか。
涙があふれてくる。
「――どうあっても独り占めしたい、ということか」
ダムッとボールを叩きつけた碧さんはそのままスリーを放った。
ネットを揺らして華麗にゴールする。
「わたしたちの気持ちは平行線。このまま話しても埒が明かないだろうから勝負をしよう。バスケでな」
「バスケで?」
緋色が不安そうな声をあげた。
それもそのはず。緋色はお世辞にもバスケがうまいとは言えない。
碧さんも承知しているのかこんな条件を出してきた。
「10本、交互にシュートして合計点数を競うんだ。わたしはスリーを打って成功したら1点、あなたはフリースローの位置から投げて成功したら3点とする。佑人に助けてもらっても構わない」
選手ではない緋色がフリースローに成功する確率は……50%くらいか。まったくのド素人でもやけっぱちで投げればたまに入ることがある。
碧さんのスリー成功率はどれくらいだろう。
昨日見た限りだと50%くらいだと思う。そのうえ二日間の練習で疲労もたまっているはずだ。
「どうだろう、あなたが4本成功すれば勝ちは確定する。もし異論があれば先に言って欲しい。あいにくと今ここで他に競えるものを思いつかないのでな」
たしかに足の速さやジャンプ力を競っても緋色に勝ち目はないだろう。
だからといって五教科のテストの点数やクイズを出しあうというのも時間がかかるし、あっちむいてホイとかじゃんけんは「なんだかなぁ」という感じで緊張感に欠ける。
「だいじょうぶです、やります」
おれと碧さんの顔を交互に見やり、緋色は強く頷く。
「前にひと君に教えてもらったし、みんながやっているのを見ていたから」
自信満々だけど本当に大丈夫かな。
いや、おれが信じてやらなくてどうする。がんばれ緋色。
「はじめる前に勝ったときのことを確認したいです。もし私が勝ったら、ひと君のことは諦めてもらえますか?――あ、でも」
短く言葉を切り、
「バスケ友だちならいいです。でも、デーティングはダメです」
と付け加える。
碧さんが不敵にほほ笑んだ。
「わたしの希望は佑人とのデーティングを認めてもらうことだ。バスケに関してはこちらが有利である手前、これ以上厳しい条件を出すつもりはないから安心してほしい。ただし、デーティング期間に入ったら遠慮する気はない。覚悟しておけ」
とおれの方を見ながら宣戦布告してきた。
碧さんのグイグイ感はイヤというほど知っている。
もしここでおれが「こんな勝負認めないぞ!」と言ったらどうなるんだろう。
――言えない。ジャージ姿で屈伸しているやる気満々緋色と目を閉じて精神統一している碧さんを前にそんなこと言えない。
信じて見守るしかない。緋色に勝ってほしいと。
「ではわたしから先に始めよう。佑人は点数をカウントしてほしい」
スリーポイントラインの前に立った碧さんは真剣な眼差しでボールを掲げる。
緊張の一投目。
「あっ」
緋色が小さく叫ぶ。
おれも投げた瞬間から成功するのが分かった。
ネットをほとんど揺らすことのないスウィッシュ。さすがだ。
「さ、次はそちらだ」
ワンバウンドでボールを渡された緋色はこわごわフリースローラインに立つ。緊張で肩に力が入り、足の開きもおかしい。ヒキガエルみたいになってるぞ。
「いいのか」とばかりに碧さんがおれを見たので我に返って近づいた。
「まて緋色、ちょっと待て」
「い、いま打とうと思ったのにぃ」
「いいから力抜いて深呼吸。そんなんじゃ失敗するぞ」
一本失敗するくらいならいい。問題はモチベーションの維持だ。
失敗を取り返そうとムキになり、力んでさらに失敗を重ねる。悪循環だ。体にも心にも疲れが溜まっていく。
ならば。
「――緋色ごめん!」
予告もせず背中に腕を回してぎゅっと抱きしめた。
「えっ、なにっひと君」
驚いてボールを取り落とす緋色。ガチガチになっていた体から力が抜けていくのを確認して腕をほどいた
「よし、これで力抜けただろう。投げてみろ」
「え、あ、うん……」
やわらかなフォームでボールを放つ。
ボードに当たって見事ゴールした。
「やった! やったよひと君!」
大喜びする緋色とハイタッチ。良かった、これで勝算がみえてきた。
しかし喜びもつかの間。
「次はわたしだ。早くボールをもらおうか」
苛立ちを隠さない碧さんがこちらを睨んでいる。燃えるような闘志が顔を見るだけで伝わってきた。
もしかしておれ、火に油を注いだかもしれない。
その後の成績はというと――。
碧:〇〇〇〇〇〇〇〇〇 9点
緋:〇×××××〇×× 6点
一投目以降ほとんどボールが入らない。惜しいときもあるんだけどな。
女子用の六号バスケットボールの重さは510~567g。体力が万全ならともかくとして一日のおわりに持ち上げ続ければ疲労がたまってくる。八投目くらいからは腕がほとんど上がらなくなってきた。
一方で碧さんの成功率の高さが恐ろしい。
ラスト十投目。碧さんがシュートした。
「くっ」
舌打ちしたのも当然。ボールはリング手前に弾かれて落ちた。
大きく息を吐く碧さん。細い腕はぷるぷると痙攣している。
「碧さん……」
なにか言葉を、と思ったけど強いまなざしで拒絶された。
「慰めはいらない。結果がすべてだからな」
そう突っぱねてボールをよこした。
いよいよ緋色の番だ。ここで成功すればドロー。時間的にもラストだろう。
「緋色、いけるか?」
「うん。いく。いけるよ」
緋色の顔にも疲れがにじんでいるが目の輝きは一層強くなるばかり。
所定の場所に立ち、深く、大きく深呼吸した。
「ねぇ、ひと君」
名前を呼ばれた。
「この合宿が終わった次の日は私の誕生日だよ。前にプレゼントなにが欲しいか聞かれたけど、まだ伝えてなかったね」
振り返った緋色は満面の笑顔。
嫌な予感がする。なんでそんな顔をするんだ。
「三月三十日は私と一緒にお祝いしてね。そだけでいい。約束だよ」
震える手で投げられた最後のシュート。
足腰はもう限界だったらしく、投げるなりどたんと尻餅をついた。
「お願い入って!」
悲痛なまでの叫び。
だめだ、軌道が微妙にずれている。遠い。このままじゃボードに弾かれる。
緋色の負けだ――。
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