第10話 おれだけを見てほしい
二時間ほど滑ったところで(と言ってもほとんど転んでばかりだったけど)リンクからあがって昼飯を食べることにした。
スケートリンクの周りには屋台や店が連なっている。和洋中からファストフードまで選びたい放題。
緋色の希望でいくつかの店が集まるイートインに入ることにした。屋内なのでスケート靴から土足に履き替え、空いているロッカーに入れておく。
「お疲れ。正直びっくりしたよ」
「あんまりに転ぶから?」
「ちがうちがう。緋色がここまで頑張るとは思わなかった」
リンクで転ぶと体が痛いだけじゃなく周りから結構注目されて恥ずかしいもんだ。常日頃から人目を気にしている様子もある緋色ならすぐに音を上げると思っていたのに、何度転んでもめげずに立ち上がって前へ進もうとしていた。
なにがそんなに緋色を突き動かしているのかは分からないが、気がつくと真剣な眼差しに釘付けになっていた。
「だってひと君みたいにうまく滑りたいから」
「やめろよ褒め殺しは」
緋色は時々、本気でおれを殺そうとしているんじゃないかと思うくらい嬉しい言葉をぽろっとこぼす。無意識だとしたら怖い。その度に恥ずかしくなるおれもおれなんだけど。
「うわー混んでるな」
広いイートインコーナーは昼時とあってかなり混雑していた。
手分けして探しまわるがなかなか見つからない。どうしたものかと困っていると肘を引っ張られた。見れば薄着の緋色が満面の笑顔で佇んでいる。
「奥の窓際にたまたま空いている席あったよ。上着置いてキープしておいた」
「おぉ! やるじゃん!」
「えっへん♪」
上着のせいで分からなかったけど、緋色は白っぽいブラウスをまとっている。胸の大きさと腰の細さが強調される洗練されたお嬢様風のデザインで、チェックのスカートとのコーディネートもばっちり。あぁ可愛い。
昼飯休憩にこんな楽しみがあったとは知らなかったぞ。
席に着いてから交代で料理を注文しにいった。おれは700円のカレー、緋色は800円のオムライスを受け取って席に戻る。椅子に座った途端足裏がじんわりと痛くなった。
「いやぁ、スケート靴脱ぐと『地面っていいな』って実感するよなぁ」
「ほんとだね。それにお尻と太ももがぶるぶるしてるよ。筋肉痛で歩けないかも」
セルフの水を持ってきてくれた緋色も生乾きのお尻をさする。
「そうしたら背負って帰ってやるから安心しろ」
「やだよ♪ 恥ずかしいもん」
なんかいいな、この会話。デートって感じがする。
ただ甘いだけの安っぽいカレーも福神漬けと緋色と一緒に食べるならご馳走だ。
緋色は学校にいるときより生き生きしているし、何度もおれの胸に飛び込んできてくれた(単に滑っただけなんだけど。だから抱きしめたのも不可抗力だぞ)。
あーカレーがうまい。
オムライスをほおばる緋色の笑顔は最高のスパイスだ。
「ひと君滑るの上手だったね。昔やってたの?」
あらかた食べ終えたところで緋色が口を開いた。
「ぜーんぜん。ガキのころ年に何回か家族と滑りに来ていた程度。そんときはまだスピードスケート用だったから今日みたいなフィギュア靴は初めてで前につんのめりそうになってマジ怖かった」
「ごめんなさい、私さんざん迷惑かけちゃったね」
「いや全然。緋色なら何万回でもOKだって」
どん、と胸を叩いたら
飲み込んだはずの固い米が逆流してきたのだ。
「ふふ、はいお水」
「サンキュ」
急いで水を飲み干す。ふー、助かった。
「そういえばどうしてデートをスケート場にしたのか聞いてなかったよな」
「つまらない理由だよ?」
「いいよ、聞きたい」
ぐっと身を乗り出すと、両手で頬杖をついた緋色は窓から見えるスケートリンクに視線を傾けた。
「――下手くそなのにって笑わないでほしいんだけど、単純にスケートが好きなんだ」
眩しそうに目を細め、どこか遠くに微笑みかける。
「小学生のころ地区の児童会があって、親と一緒にスケートに来るのが毎年恒例になっていたの。いまと同じで全然滑れないのに負けん気だけは強くてリンクにあがるんだけど、手すりにしがみついたまま動けなくなることもしょっちゅうだった。そんな時はいつもゆーくんが助けてくれたの。だから行きたい場所って言われたときに真っ先に思い浮かんだんだ」
「そう……なんだ」
目に見えない刃物で、心の中をまっすぐに切り裂かれた気がした。
例えるなら紙で指先を切ったような。細長い裂け目を見て今更ながらに痛みを感じるような。
なんだ――また”ゆーくん”かよ。
分かってる。
分かってるよ。
分かってるんだ。
おれが家族のことを話すのと同じくらい、緋色にとって
でも分かりたくない。
痛い、と傷口が叫ぶんだ。
せめてデートの間くらいおれを見ててくれ。
他の男との思い出を楽しそうに語らないでくれ。
じゃないと
「……ひと君? 私またなにか変なこと言っちゃった?」
緋色が心配そうにこちらを伺っている。
なんでもない、そう答えて唇を引き上げた。
いまはまだ無理でも、いつか緋色が”ゆーくん”ではなく”おれ”の名前をごく自然に口にするくらいの男になってやる。
※
「いい? いくからね!」
「いつでも来い」
スケートリンクに来てから早四時間。
だいぶ慣れてきた緋色はひとりで滑ってみると言い出した。その距離二十メートルほど。
おれはゴール地点で待機する。
ここまで自力で来られれば合格だ(なんの、とは聞かないでくれ)。
「いくよ。せーのぉ!」
手すりから離れ、そろりそろり、とスケート靴を進める。
「緋色。視線はこっち。足元ばっか見ると重心崩れる」
「う、ぅん分かってる……けどっ」
よた、よた。体がふらつく。
それでも確実に進んでいる。一歩一歩おれの元へ。
あと十メートル。
「よしいいぞ、その調子だ。がんばれ」
腕を広げて緋色の到着を待った。
徐々にスピードに乗ってきた緋色は前を見る余裕もでてきたのか、おれの目を見てはにかむ。
「――ぁっ!」
他の客が緋色の隣を猛スピードで追い抜いていった。あおられた緋色はあと少しというところで転んで膝をつく。
「ひいろ……っ」
「来ないで!」
強く拒絶されて駆け寄ろうとした体がこわばった。
「だいじょぶ、ひとりで立てるから」
緋色の目はまだ諦めていない。
両手をついてお尻をあげ、ぷるぷると震えながら、誰の手も使わずにゆっくりと立ち上がる。
「わ、ととと」
後ろによろめく。あぁもう危なっかしくて見ていられない。
でも目を逸らせない。
いつだってそう。
教室でも、体育館でも、玄関でも――あの日、合格発表の場で一瞬にして恋に落ちたときのようにおれの心を鷲掴みにして放さない。
間宮緋色はそんな女の子だ。
「やったぁ、ひと君ゴール♪」
二十メートル。時間にして八分三十秒ほどかかってゴールを果たした。
小柄な体のどこにそんな強さが宿っているのか不思議なくらいだったけど、ぎゅっと抱きしめると嬉しそうに声を上げた。
「待っててくれてありがとね、ひと君」
「ばーか。緋色が頑張ってるんだ、一時間でも二時間でも待つに決まってんだろ」
「そんなに待ってたら凍っちゃうよ?」
「だからこうしてあったまってんだろ、ばーか」
「二回も”ばか”って言ったぁ」
おかしくて互いに笑ってしまった。
あぁ、恋だな。恋してんな、おれ。最高だ。
※
「もう四時か、なんだか肌寒くなってきたね」
ひと気がまばらになってきた。夜はリンクがライトアップされてキレイらしいけど、正直もう限界。眠気の方がまさっている。緋色も同じで何度も生あくびをかみ殺していた。
どちらともなく「帰ろう」と言い出して、売店の前でスケート靴から下足に履き替えた。
「靴返してくる。ついでに温かいもの買ってくるから座っててくれ」
「分かった。ありがとう」
緋色をベンチに残してスケート靴を返却し、売店でカフェラテとコンポタを買って戻った。
「緋色お待たせ。――緋色?」
外を見ていた。おれが戻ったことにも気づかず、どことなく落ち着かない様子でなにかを見ている。
「あっ……」
視線の先にいたのは桶川とドクモの早乙女だった。
あいつらもここに来たのだ。
スケートには慣れているといった様子で、ペアのフィギュア選手みたいに手をつないで優雅に滑っている。
どくん、と胸が震えた。
またアイツなのか。
どうあっても勝てないのか。
こんなに緋色のことが好きなのに。
一体どうしたら……。
「――――ひと、くん?」
なにかに突き動かされるように後ろから抱きしめた。イヤリングが揺れ、ほっそりした背中が小さく震える。
これは『前に進みたい』という強い覚悟に他ならない。
「緋色のことが好きだ、大好きだ。だからどうか、おれのことだけ見ていてほしい」
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