第6話 距離感…
間宮緋色との初めての登校の朝。
彼女との待ち合わせは八時すぎ。通常の登校時間にあわせた電車だ。
ふだん通学にはチャリを使っているおれだが、今日はいつもより早起きして(というより眠れなかった)始発の電車に飛び乗った。
「ふぅー、早朝のカフェラテはうまいぜ」
電車は一分の遅延もなく学校の最寄駅に到着した。まだ六時。駅構内を行き来するのは通勤途中のサラリーマンや朝練に参加する学生たち。
暇を持て余したおれは待合室で暖かいカフェラテの缶をすすっているって状況だ。人が出入りするたびに外の冷たい空気が入ってきて身震いしてしまう。
「あと二時間……か」
まるで遠足に行く小学生みたいに浮かれて早起きするなんて自分でもバカだと思う。
でも万が一電車がトラブルで遅れたらどうする?
記念すべき初待ち合わせに遅れて彼女にさみしい思いをさせたら一生後悔する。だから多少早くても遅れるよりはいいのだ。
「うし! スマホゲームでもやるか。二時間もあれば相当進められるぞ」
気合いを入れてスマホを取り出したときだった。
「びっくりしたぁ……」
控えめにかけられた声にハッと息をのむ。
顔を上げた先には――。
「おはよう。早起きだね。お互いさまか♪」
まっしろなマフラーにグレイのコートをまとった間宮が恥ずかしそうに佇んでいるのだった。
※
「ゆーくんは待たされるのが大嫌いなの。だから私も自然と早起きするようになって。始発電車ならよっぽどのことがない限り遅れることはないだろうし」
「あぁそうか。朝はいつも
「そうなの。ゆーくん朝練サボることも多くて朝からカラオケとかファミレスとか、寄り道ばっかり」
「自分は始発で来てるのに向こうのせいで遅刻するのってイヤじゃないか?」
「仕方ないよ。ゆーくんはそういう人だから」
ったく。ほんとクズだな。
「――ところで距離感おかしくない?」
おりしも始発電車で待ち合わせしたおれたちは互いに苦笑いしつつも肩を並べて歩き出した……はずが、
「そう? ふつうだよ?」
間宮はおれの二メートルほど後方を歩いている。”一緒に歩いている”というよりピタリと後ろを”ついてきている”という表現の方が正しい。こんなの全然カップルらしくない。
「隣にこいよ。おれは間宮の顔見ながら話したい」
足を止めて手招きすると間宮はびっくりしたように立ち止まった。
しばらく待っていると困ったように前髪を撫ではじめた。
「私はこのままでいいよ。ゆーくんからは『おまえは汗臭いから離れて歩け』って言われていたし」
汗臭い? どこが?
天国にいるような爽やかでフローラルな香りしかしないぞ?
あ、もしかしてアイツに言われたから気にして香水をつけているのか?
「自分だって部活やれば汗かくはずなのにひどい言い分じゃないか?」
一瞬間宮の顔色が変わった。
けれど必死に笑顔を作ろうとしている。
「そ――、そんなことないよ。私も、くしゃみとかしてイヤな思いさせるくらいならこれくらいの距離がある方がいいかなって思っているし、それに、きちんと距離をとればゆーくんについていっていいってことだもん」
モヤる。
まるでペットみたいじゃんか。
アイツは間宮のことなんだと思ってるんだ。
「不快にさせたならごめんね」
おれが不機嫌な顔をしていたせいか間宮は焦ったように早口になる。
「私、付き合うとかよく分からないんだ。昔からずっとゆーくんのことばっかり追いかけていたから。近づきすぎて嫌われるのは怖いのに、置いていかれるのはもっと怖くて。これくらの距離にいるのが一番安全だと思ってた。だから他の男の人との正しい距離感が分からないの。……ごめんなさい」
間宮は必死だったんだな。
えらいな。
なんだか鼻の奥がツンとしてくる。
「でも桶川君は仮にも彼氏なんだから好きに命令していいよ。隣に来いって、そう言ってくれれば私――」
「好きな人に命令なんてしないよ」
おぅ勢いあまって”好きな人”なんて言っちゃったぞ。恥ずかしい。
でもいいや本当のことだから。開き直ろう。
「間宮は間宮のままでいい。おれだってカップルらしく手をつないで歩きたい気持ちはあるけど間宮が無理するならこのままでいい」
本心ではめちゃくちゃ手握りたいし、肩と肩で触れ合いたいし、さらさらの髪を撫でてみたい。でもそういうのはお互いに気持ちを深めあってからだ。いまじゃない。
「ま、時間はたっぷりあるしゆっくり行こうか」
気持ちを切り替えて前を向いたときだった。
トタタ、と軽い足音がしてジャケットの袖が軽く引っ張られる。白い息を吐き出しながら間宮がうるんだ目でこっちを見た。
「私の手、冷たいから握るのはダメだけど――こうやってぎゅってするならいいよね。彼女なんだし」
「も、もちろん!!」
おれのジャケットの袖をちょこんと掴む間宮は、そりゃもう、可愛かった。
駅から学校までは徒歩十分。どんなに時間をかけても二十分で到着してしまう。
間宮が話してくれたのは家で飼っている猫のことだった。雑種のオスで小さいころ拾ってきた野良猫だという。
「もうおじいちゃんだから普段は寝てばかりで動きも遅いんだけど、ごはんはよく食べるの。食べながら寝ちゃうこともあって、それが可愛くて――」
間宮の楽しそうな笑顔がこんなに近くにある。
あぁまずい、幸せすぎる。
「……でね、名前なんだけど――聞いてる?」
「あ、ごめん。名前がどうしたって?」
幸せすぎて意識飛びかけてた。いかんいかん。
「お互いの呼び方なんだけど、”ひと君”って呼んでもいい?」
「ひと君?」
「うん。”ゆうと”だとゆーくんのことイメージしちゃうし、”桶川君”だと他人行儀でしょう。だからふたりの名前で唯一違う部分、”と”をひらがな読みしたらいいかなって思ったの。私のことは好きに呼んでいいよ」
きた。下の名前呼びイベント。
苗字呼びから名前呼びになるってことは、それだけ親しい間柄になるってことだ。
「ひと君」だなんて。
言われてみればこの世でいちばん可愛い響きじゃないか。
「じゃ、じゃあおれは――」
緋色って呼び捨てにしたい。
でも急すぎるかな。
”緋色ちゃん”とか”ひーちゃん”とかも可愛いよな。
どれにしよう、悩ましい。
「ひ……ひ、ひい……」
”緋色ちゃん””ひーちゃん””ひろちゃん”
いろんな呼び名が頭の中を駆け巡った。決められない。
――そのときだ。後方から走ってくるチャリが視界に入った。
「緋色! こっち!」
肩を抱いてぐっと引き寄せる。
その横を猛スピードでチャリが駆け抜けていった。
「ったく危ないな。大丈夫だ……った」
そこで気づく。
彼女の細い肩に寄り添うおれ自身の右手に。
「ごめん!」
あわてて手を放した。
急に引っ張ったせいで彼女のマフラーが片方垂れている。当の本人もびっくりして言葉が出ないようで、走り去ったチャリを呆然と見送っている。
「あのチャリが猛スピードで来たから、つい。驚かせてごめん」
垂れ下がったマフラーの先が地面に着きそうだったので直してやった。一瞬だけ髪の毛に触れる。どきっとするくらい細くてやわらかい感触に心臓が早鐘を打ち始める。見れば彼女の頬も赤い。
「……助けてくれてありがとう。ひと君」
赤く染まった頬に寒さで青白い唇。うるんだ瞳。春の日差しのような笑顔。
あぁもう! 心の中のシャッターを百万連写したい気分だった。
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