ピエロな僕

夜野 桜

 ピエロな僕


「ただいまー!」


「おかえりなさい。」


 夕暮れ時の住宅街の中でいつもより随分と早くに仕事を切り上げて、自宅への帰路についているとその光景が目に入った。


 まだ小学生くらいの子供が、自宅であろう家の庭に元気よく入って行ったところを母親らしい女性が笑顔で出迎えている、なんとも暖かい光景が。



——ただいま——


——おかえり——



 脳裏に僅かに浮かぶいつかの光景は随分と昔のことようで、鮮明には思い出せない。


 自宅に着いた私は扉を開けると同時に言ってみる。


「ただいま」


 だけど、先程の光景のような心暖まる言葉はかえってこない。灯のついていない部屋の中で、自身の放った言葉だけが虚しく響き渡る。


 なんだかひどく虚しいような寂しいような気分になって私は着替えもせずに、ベットに潜り布団にくるまる。空気を含んだ掛け布団を抱きしめるように寝転ぶと少しだけ、心が暖まるような気がした。自身の体温がうつり少しずつ暖かくなってきた布団にだんだんと意識がおぼろげになってくる。


(そういえば、最後にお帰りって言われたのはいつだったけ)


 心地よい温もりに深い眠りへと誘われながら、ふとそう思った。



 僕の家族は言い表すなら別段普通だったと思う。両親がいて妹が2人いる5人家族。当時の母は専業主婦で父が働いて、僕等は無邪気な子供だった。両親のおかげで金銭的にすごく不自由なわけでもなかったし、会話もたくさんする家族だったと思う。


 少なくともはたから見ればそうだったはずだ。


「ただいま!」


 そういえば家の中からは必ず


「おかえり」


 そう返事が返ってきていた。


 強いて変わったところがあったとすれば、母がいわゆるヒステリー、情緒不安定だったことだろうか。母は少し小太りだが愛想がよくいつも笑顔な優しそうな人に見えたそうだ。


 だが、それはいわゆる外面というやつだ。

 決して内面が酷かったわけじゃない、実際優しくて、頭を撫でてくれる優しい一面を確かに持っていた。


 だけど一度彼女の心が乱れることが起こると、そんな優しい雰囲気は微塵も感じさせなくなる。


 親が子供を叱るのは当たり前でよくある光景だ。彼女はそれが少し行き過ぎていただけだと思う。


 友達と遊んで家に帰るのが遅れると家になかなか入れてくれない。小学生だった当時の自分は、合鍵なんて持ってなかったから鍵を開けてくれるまで家には入れない。長い時は父が帰ってくるまで家には入れなかった。


 自分の頭はあまり良くなかった。

 小さい頃、母が数の数え方を教えてくれたこと時の記憶を今でも覚えている。


「はい、ここにたくさんのリンゴがあります。1、2、3、4、5、全部で何個?」


 わざわざ実物を目の前で、指を刺しながら教えてくれていたのだが、当時の自分はその答えをいつまでたっても答えられなかった。最初は優しくゆっくりだった彼女の声が、徐々にその勢いを増して、語気を強めて行く様子を僕は良く覚えている。


 いつまで考えても分からないことで半ばパニックになり怖い口調になってずっと同じことを聞いてくる母が怖くて、僕は泣いていた。


 それが彼女を余計に怒らせたのだろう、僕の頭のすぐ隣でコップが割れた。



 ある時は宿題を忘れて、蹴られた。


 ——痛かった——


 ある時は駄々をこねてタオルで首を締められた。


 ——苦しかった——


 ある時は裸で外に締め出された。


 ——寒かった——



 思い出せばきりがない。母を怒らせるのがとても怖かった。そしてそれは妹も同じだったと思う。


 母によく叩かれていたし、蹴られていた。

 少し僕とは違うところがあったとすれば、父が身を挺して庇ってくれていたことだろうか。


 なんだか少し、羨ましかった。



 ある日、僕は学校の昼休みにクラスメイトと大好きなサッカーをやっていた。

 蹴ったボールが跳ね上がって僕は頭でボールを飛ばそうと思った。だけど、上から落ちてくるボールが自分に近づいてくるのがその時は何故だかすごく怖くて、僕は気がついたらボールを避けていた。友達にはすごく怒られたがその時の僕にはどうしようもなかったのだ。


 ある日、学校の授業で野球をやっていた。ただのキャッチボールだ。だけど、自分に向かって飛んでくるボールが怖くて気がつくと僕はボールを避けていた。僕だけ他の人より、転がるボールを取りに行く回数が多かった。


 ある日はドッチボールの授業でボールが飛んでくるのが怖かった。


 僕はいつのまにか飛んでくるもの全てが怖く感じ流ようになってしまっていた。


 だけど、それを誰かに言うのも怖かった。だってそれは変だから。みんなが普通に楽しくしていることが怖いのはきっとすごくおかしいことだ。みんなと違うことが当時の僕には何よりも怖かった。


 時間だけは変わらずに過ぎて行く毎日の中、僕はどんどん変になって行く。


 その最たる例は授業中、隣の席の子が勢いよく手を挙げた時に起きた。

 彼女は先生に当ててもらおうと、ただ手を挙げただけだ。

 視界の端に彼女の手が挙がるのがうつった瞬間に僕は椅子から転げ落ちるように彼女から距離をとっていた。心なしか息も荒くなって、まるで全力で走った後のように呼吸してしまう。


 みんなも先生も僕が寝ぼけて椅子から落ちたと思ったみたいだから、なんとか誤魔化せたけど、そう安堵した僕のなんと甘かったことか。


 子供は目敏い、変わったものを見つけるのが得意だ。どれだけ上手く隠しているつもりでも、自身の異常は徐々に周りで浮き彫りになってしまう。


 ある日から僕はいじめられるようになった。

 クラスのとある男子が気づいてしまったのだ。僕が授業中に近くの子が手をあげる時にビクビクしているのに。


 彼にはきっとそれは面白いことだったのだろう。


 手を降ったり、急に近くで手をあげると必要以上に反応する僕にみんな一緒になって嗤った。


 そして不思議なことにそのみんなの中には僕もいた。泣きたくなかったから。泣いてしまったらほんとに虐められているみたいで。1人になってしまうような気がして、僕はみんなと一緒に自分を嗤った。


——なんで——


 だけど無理をして嗤えば嗤うほど僕の心は少しづつ歪んでいった。だんだんと学校に行くのが嫌になった。


 学校に行きたくないと言えば母は怒る。だから朝は頑張って僕は学校に行く。だけど休みが来るたびに自分を嗤うのはひどく疲れる。昼休みには耐えられなくなって学校を抜け出す。結局、学校から電話があったようで母にはひどく怒られた。


 給食があまり食べられなくなった。

 だけど給食を残すのは悪いことだと先生には言われる。残すのに先生にみんなの前で説明しないといけない。そうなったら、また僕はみんなと僕を嗤わないといけない。


 それは嫌だった。


 だから僕はバレないようにこっそり窓から外に給食を捨てた。牛乳はナプキンに包んで家に持って帰った。パンは机に突っ込んだ。



 僕は変になっていた。



 それからしばらく経って、僕は遂に我慢できなくなった。僕を嗤うみんなの悪口を学校のいろんなところに落書きするようになった。直接言えなかったことを書くのはすごくスッキリした気分になれた。


 だけどそんな悪事はすぐにバレる。学校に落書きをするのはよくないことだし、それも悪口だ。先生も含めてみんなで犯人探しが始まった。僕は犯人だとバレるのがとても怖かったけどみんなが僕だと知らずに犯人が誰か探している様子はなんだかとても愉快でいつになく楽しかった。


 だから僕は落書きをやめられなかったんだ。


 でも、悪いことで楽しんだ代償はすぐにきた。仲の良い友達だったと思う。学校では珍しく僕に比較的優しくしてくれる子だ。そんな子に僕は落書きするところを見られていたらしい。空き教室に先生に呼び出されたことでなんとなくバレたことはわかった。楽しかった気分は一転して後悔と焦燥感、不安感で一杯になった。


 普段は優しい先生の顔は怖かった。その隣にいる仲の良い子は少し気まずそうに僕の顔を、目を見ていた。


 何故こんなことをしたのか、先生は僕にそう聞く。僕は楽しかったからだとは言えなかった。始めたきっかけは確かにいじめが我慢できなかったからだ。でも途中から変わってしまった。それを先生やその子には言えなかった。


 先生はそのまま僕をみんなのいる教室に連れて行って、落書き事件の説明をし始めた。みんなは黙って静かに先生の話を聞いて僕を見る。僕は泣きながらみんなに謝った。


——ごめんなさい——


 嘘の理由で謝る僕を彼らは許した。それどころかみんながごめんと僕に謝る。

笑ってごめん、叩いてごめん、悪口言ってごめんと、口々に謝ってくるその姿に僕はすごく悪いことしている気になった。酷いことした僕を、いっぱい嗤って書いた僕のことを彼らは許してくれる。


 心に溢れるのは罪悪感でいっぱいだった。


 放課後、先生が家庭訪問で今回の件を家に伝えにやってくることになった。先に家に帰って事情を説明するようにと先生に言われ、僕は1人で家に帰った。落書き事件は子供たちを通じて保護者にも随分と話が広まっていた。


 その犯人が息子でこの後先生がやってくる。


 そんな説明をあの母がまともに受け入れれるわけがなかった。甲高い声で「なんてことを、なんてことを」何度もそう連呼して母は暴れる。包丁を向けられて、脅しつけられた時は正直本当に怖かった。


 一通り暴れると母は押し入れに引き籠って出てこなくなった。恥ずかしくて先生に合わせる顔がないと押し入れの中で泣いている。


 僕は凄く、悲しかったけど母を泣かせているのは僕だ。僕が悪いことをやったから母がいま悲しんでいる。この時の後悔の思いは本当によく記憶に残っている。


 この日は母のヒステリーな連絡を受けて、父が帰ってきてくれたので家庭訪問は父と先生と僕の3人で、家の中は見せられる状況じゃなかった、だから玄関先で三者面談は行われた。


 先生は簡潔に僕の状況や心境からやってしまったことを語る。


 その説明を聞きながら父はただ優しく、僕の頭を撫でながら、チラチラと僕の顔色を伺ってくる。説明を終えた先生が帰って行くと父は僕にしゃがんで目線を合わせると、これはやっちゃダメなことだ。


 反省したか?そう問いかけながら僕の頭を撫でる。


 僕は父に大泣きしながら謝った。


——ごめんなさい——


 勿論母にも謝ったが母は押し入れから夜まで出てこなかった。押し入れから出てきた母はひどく不安定で父に怒鳴り散らして怒っていた。


 その日から母はさらに不安定になった。


 ある日のお休みの日、妹が母を怒らせてしまった。その日の母は一層過激で、妹の腕を後ろ手にタオルで縛り上げ蹴り続ける。泣いて謝る妹に母はうるさいとガムテープで口を塞いだ。そしてまた妹を蹴る。妹は口を切り鼻血を出していた。そこに父が仕事から帰ってきてくれた。蹴られて血を出す妹を見て、血相を変えた父は妹を抱きしめるように母から守った。


 その父の背中を母は蹴り続けた。母の気分が落ち着くまでそれは続けられた。


 僕はその光景をただ黙って見ていた。


 その日の夜遅くまで父と母は怒鳴り合って喧嘩をしていた。多分この辺りからだったと思う。父がなかなか家に帰ってこなくなったのは。


 なんとなく分かっていた、父が何故あまり家に帰ってこなくなったのか。

ある休みの日、父が珍しく家にいる時たまたま父の携帯に届いたメールを見たことがあった。内容は酷く単純で、子供の僕にもわかるものだ。


 父には母や僕達子供以外にも家族ができた。それだけだ。そこはきっとこんな怖い家より父が安心して過ごせる場所なのだろう。


(僕のせいだ……)


 家族が壊れてしまう。妹を母の暴力から助けてくれた父は帰ってこない。母に暴力を振るわせないためにどうすればいいのか僕は必死に考えた。


 機嫌よく笑っている時の母はとても優しいのだ。そこで気づいたんだ。なんだ、簡単なことじゃないかと。


——嗤わせればいい——


 だって僕は学校でみんなを嗤わせているんだから。



 この日から僕は家でもピエロを演じることになった。


 日に日悪くなっていた家の空気が、僕のバカな言動で徐々に笑顔になって行く。馬鹿だねーと母は僕のピエロっぷりを嗤ってくれるし、妹も笑顔で聞いてくれる。


——嬉しい——


 母の機嫌を損ねないように、泣いてた妹が笑ってくれるように、父が安心して昔みたいに帰って来てくれるように。


 そうやって、学校でも家でも僕の演じるピエロは観客を嗤わせ続けた。

 僕は満足していたんだ。



 あの日までは。



 「ねぇ、貴方の笑顔、すっごく気持ち悪いよ」


 高校に入ってすぐクラスのとある女子に言われた一言。黒い長い髪をポニーテールで纏めたその子はとても綺麗な顔立ちで、愛嬌のある笑顔はクラスでもとても人気の子だった。


 そんなクラスの人気者に言われた一言は、一瞬僕のピエロの仮面を剥がしかけた。


 あまりのショックにほんの少し笑顔が崩れる。馬鹿にされることは多々あれどこまであからさまに拒絶されたのは生まれて始めての経験だった。大抵は自分のピエロっぷりに引き気味になりながらも段々と僕を嗤うようになるのだが、彼女は違ったようだ。


 数年以上、家族にも友達にもバレなかった僕のピエロの仮面にたったの一言でヒビが入ったようだった。全てを見透かそうとするかのような彼女の瞳に僕は思わず彼女から眼を逸らしてしまった。


 その一言で僕はその子と距離を置くようにした。


 なのに、なぜかその子の方から積極的に近づいてくる。ほとんど初対面のような相手に笑顔が気持ち悪いとまで言っておきながら、まるでとても仲が良い友達のようにずっと話しかけてくる。


 やめて欲しかったがクラスの人気者から学校の人気者まで昇格した彼女をピエロがむげに追い払ったりはできない。しかし人気者が学校でも間抜けなピエロの側で笑っていたら皆に違和感を与えてしまう。そして違和感はそのうち反発に変わる。


 まずいとは思っていた。予兆はずっと続いていたから。だけど彼女の動きに対処しきれなかった、その結果がこれだ。人気者と喋るピエロが気に食わない連中が動き出した。


 彼女の前で始まった行き過ぎたいじり。最初は引いていたみんなも嗤い続ける僕を見て、嗤ってくる。必死になんとか泣かないように、僕は嗤い続ける。


 嗤っているみんなを見て僕も安心する。


 よかった。ちゃんとやれてる、僕はまだ嗤える。


 そうやって笑顔で周囲を見渡して安堵していた僕の視界に1人の女子が映る。彼女だ、学校の人気者でこんな状況にしてくれた張本人。


 (なんで、なんで嗤ってないんだよ)


 —なんでそんな悲しそうな顔するんだよ。


 結局、彼女は最後まで僕を嗤わなかった。


 あの日から彼女は僕にあまり話しかけなくなった。時々いつものように皆を嗤わせる僕を遠くから見ているだけ、そのおかげで、いじりの頻度は少し治まったけど。どうにも僕は変になっていた。ほっと安堵するたびあの子の悲しそうな顔が脳裏を過ぎる。嗤ってくれない彼女の顔が頭にこびりついて離れない。


(変だ)


 そんな違和感をずっと考えていた、ある日。クラスにいる別のいじられ役が少し過激にいじられていた。


 僕のいるクラスには僕の他にもいじられる男子がいる。その男子は暗くて、いじられると顔を下に向けて、引きつった下手な笑顔でやめてよといつも言う。


 馬鹿だなぁと僕は心の中でそう思った。そんな下手な笑顔じゃもっと酷くなるのは目に見えている。ピエロをやるならもっと上手に嗤わなければ、嗤わせなければいけない。僕は下手なピエロなど見たくないし、あまり嫌そうにやられて僕のピエロっぷりにまで影響してもらっても困る。


(仕方ないなぁ。お手本でも見せてあげるか)


 そう思って僕はみんなが一歩引いてやめて、やれよーと嗤っている中に入っていく。


 いじれていると言う状況下で、急にターゲットを変更させることはできない。こちらに意識が向いていない時は会話で徐々にこちらをいじるように誘導していかなければ場の空気を壊して最悪な形でのいじめにつながりかねない。


 そうして徐々に話題の矛先をそらしていけば、ほら。皆が僕を標的に話始めた。主体になっていじっていた奴も一歩引いていた奴も僕を徐々に嗤い始める。休憩が終わる頃にはやめてよと言っていた筈の弄られていた男子も僕を嗤っていた。


 これが本当のピエロだよと、僕はまた、周りを見渡して満足する。だけど、視界にまた彼女が悲しそうにして此方を見る姿が映って僕は笑顔になることを一瞬忘れた。


 チャイムが鳴って皆が席に戻りだす中、先生が来るまで僕と彼女はただ見つめ合っていた。


 なんで、どうして彼女は嗤ってくれないのか。なんで彼女の悲しそうな顔を見るたびに、どうしてこんなにも心がざわめく。


 その日の放課後、こっそりと僕と彼女は学校の屋上で会っていた。

 僕の方から皆にバレないように呼び出したんだ。


 秋の夕焼けが照らす、屋上で男女で2人、ともすれば告白シーンだと思われるだろうがそんな下らないことのために呼び出したわけではない。


「それで、話ってなに?」


 校舎から屋上へと続く扉が閉まった途端、彼女は呼び出した用件を聴いてくる。


「そんなに焦らないでよ、ちょっと気になったことがあってさ。告白とかじゃないから安心してよ」


「……それは残念。放課後に屋上に女子を呼び出すなんて大胆なこと

するからてっきりそう言うのかと思っちゃったんだけど」


 少しも残念そうな顔もせずに彼女は綺麗な笑顔で嫌味を言ってくる。


「学校でも人気の君に、そんなことをする度胸は僕にはないよ」


 そうやっていつものように笑顔で彼女に話し掛ければ彼女はまた、あの時見せた悲しそうな顔で僕を見てくる。


——やめろ——


 そんな顔で僕を見るな。そんな顔をしないでくれ。


 彼女の表情に僕の心はざわめいていつものように落ち着いて笑えなくなる。


「……君、いつも僕をそんな顔で見てるよね。どうして、そんな顔をするの?」


 きっと彼女のせいだ、いつもならこんなにも素直に気になったことを聞いたりしない。


「……どうしてだと思う?私も気になってるんだ、どうして貴方はいつもそんな顔をするのかな?」


 僕が質問していることに彼女は素直に答えるつもりはないようだ。それどころか僕のピエロに気づいているかのように僕に僕と同じような質問をしてくる。


「そんな顔ってなんのこと?僕は普通に嗤ってるだけだよ」


 彼女の質問に僕は少し苛立ちを感じて、それを隠すことができずに言葉に僅かにのせてしまう。


 言ってしまった後にしまったと僕が後悔する一方で、彼女は僕にとって予想外の反応を返す。


「あ、やっと見えた!…よかったぁ」


 急に今まで見たことがないくらい嬉しそうな笑顔で彼女は僕に笑った。夕焼けを背にした彼女の初めて見た満面の笑顔を場違いにも僕はとても綺麗だと思った。


 予想とは違う彼女の反応に動揺したのか、僕の中に咄嗟には理解することの出来ない感情が生まれる。


(なんだよ、こんなの知らない、分からない)


「……最初に貴方を見た時から、ずっと思ってたんだよ。なんでそんなに気持ちを隠すんだろうって、なんでそんなにわざと嗤うんだろうって」


 自分の中に生まれた知らない感情に戸惑う僕に彼女は追い討ちをかけるようにとんでも無いことを言ってくれる。


 ばれていた、嘘であることが、仮面であることが、家族も親友も誰も気付かなかった僕のピエロに彼女には気付いていた。


「な、なんで、どうやって、僕の演技は完璧だったはずなのに!」


「……完璧、ねぇ。貴方が初めて私に話しかけて来た時に私がなんて言ったか覚えてる?」


「…笑顔が気持ち悪い、君は僕にそう言った」


「そう、正解!貴方が被った笑顔が、素顔が見えない貴方の顔があまりにも不気味で思わず言っちゃたんだよねぇ」


(笑顔が不気味?素顔が見えない?)


 そんな筈はない。だって僕はずっとこの笑顔でみんなを嗤わせてきたんだ。



「…どうして、誰にもバレなかったのに、君には分かったんだ、なんで気付いたんだよ!」


 動揺からか、それとも嘘がバレた焦燥感からなのか、僕の頭は混乱して、感情が安定しない。半ばパニックになりながら浮かんだ言葉を彼女にぶつける。


「…素顔が見えない貴方が気になって、それからよく貴方を見てた。

最初は初対面だからかと思ったけど、違った。貴方は誰にも素顔を見せない。

誰に対しても、何をされても貴方は笑顔で嗤われてた。貴方はいつも誰かに、貴方を嗤わせてた」


「違う、今は僕の質問に答えろよ、教えてくれよ!」


「誰も知らない貴方の素顔が気になって、貴方によく話しかけてみたけど、

貴方はいつも嗤わせようとするばかりで、貴方の気持ちを見せてくれなかった。

だけど、おかげで、貴方が無理して嗤ってることが分かった。

本当は笑いたくないんじゃないかって気づけた。」


(無理?無理なんてしてない。僕はいつも皆を笑わせたくて…)


 そこで僕は気づいた。いつのまにか僕の両眼から雫が溢れていることに。


「きっとそれは間違いじゃなかった。

貴方は相変わらず素顔を見せてくれなかったけど、…だけど、今日やっとほんの少し貴方の気持ちが見れた。貴方の心は別に死んでたわけじゃなかった。

今そうやって見せてくれる貴方の涙が、私はすごく嬉しい。…ずっと我慢してたんでしょ。ずっと頑張ってたんだよね」


 やめろ、やめてくれ、優しくしないでくれ

 そんな優しい言葉をかけないでくれ

 そんな優しい顔をしないでくれ


 痛い、心が苦しい、今まで気付かないようにしてた自分の想いが溢れて止まらない。


 嗤っているうちにいつのまにか分からなくなっていた僕の本当の心を何かが優しく包む。気がついたら僕は膝をついていて、彼女に抱き締めらていた。


「よく頑張ったね。貴方はすごいよ。

でも、もう無理して嗤わなくていい、嗤わせなくていい。

貴方は本当の貴方を知って。そうすればきっと貴方は笑えるから」


 彼女の暖かい体が、優しい言葉が僕を抱きしめて離してくれない。

 彼女の温もりが少しづつ僕に移ってくる。


——あぁ、僕の気持ちは、心は、ずっとこの暖かい場所を探していたんだ——




 微睡の中、布団の温もりを感じながらゆっくりと重いまぶたを開けていく。

 コトコトと鍋が煮えるような音といい匂いが部屋の中に広がっている。


「あ、起きたんだ、ちょっと待ってくださいね、晩ご飯、今作りますから」


 重い体を起こして音と匂いの元を辿って台所に向かうと、見慣れた姿の女性が料理をしている。その後ろ姿に先程の懐かしい夢を思い出して、気がつくと僕は彼女の後ろから抱き締めていた。


「わっ、ちょっと危ないでしょう、なんで貴方は急に抱きついてくるんですか。

……泣いてるんですか?何かありました?」


「……少し、懐かしい夢を見たんだ。ちょっと寂しくなって、つい。

もう少し、こうしてていい?」


 彼女は苦笑しながら僕のお願いに答えてくれる。


「しょうがないですねー。相変わらず貴方は寂しがり屋なんですから。

いいですよ。ただし、あんまり動かないでくださいね、危ないですから」


「ありがとう」


 あの日、君が気づいてくれたから、抱きしめてくれたから、僕は今ここにいる。今度は僕が抱きしめるから、だからここにいて。



「あぁ、そういえばお帰りなさい」


(……本当に君は凄いなぁ)


 ——ただいま——



 もう彼女の前で僕の素顔は隠せそうもない。

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