虚飾の式3
――とはいえ、昨日は何事もなかった、といったように彩夏の接し方が普段通りで、ハリボテを用意しなくても良いのではないかと思ってしまう。遅刻ギリギリに登校してきた私に笑顔も挨拶も向けられたし、教室移動の時もくっ付いて来られるものだから、戸惑ってしまう。
約束だからね、なんて言葉も、結局は他愛のない冗談だったのだろうか。
それなりにノートを書いて、教科書を見て、携帯電話を弄って、彩夏達とテレビの話で盛り上がって、ようやく四時間が過ぎる。普段通りというのがかえって息苦しかった。だからだろう、鞄を持って教室を出た瞬間、登校してから初めて呼吸をしたような心持ちになった。隠された敵意が向けられるかもしれないという不安で、息継ぎすら出来なかったのだ。
歩きながら、自身の呼吸音に耳を傾ける。肩がゆっくりと持ち上がって下がっていく感覚、胸が上下する感覚。息をしていると自覚出来るそれらが、どこか心地良い。重かった足取りも軽くなったみたいで、上履きが軽やかに靴音を鳴らす。
階段の踊り場まで来て、ピタリと足を止めた。昼休みの初めは、教室から移動せずに弁当を食べる生徒がほとんどの為、人通りは少ない。他クラスに移動して弁当を食べる生徒は「あの子、クラス内に友達いないのかな」なんて嘲笑を向けられるような空気がある。好きな場所で好きな人と食べることは、そんなにいけないことだろうか。
人がいないことを確認してから、階段前のロープを踏み越え、足音を極力殺して段差を上っていった。今日もまた一人で昼食をとるのか、と思ってから彼女のことを想起して、口端が緩む。友達になったわけでも、仲良くなったと言えるほど仲良くなったわけでもないのだが、早く会いたいという思いが私の足を急かす。
駆け込む勢いでトイレの入口を潜ったら、洗面台に鼻先を向けていた頭がゆらりと持ち上がって、絹糸じみた長髪が空気に流れた。美しい顔を振り向かせた志弦が、力無く微笑んだ。
「やあ、聖。お邪魔してるよ」
「ここが私の家みたいに言わないでよ」
「君の居場所でしょう?」
また吐いていたのか、血管が透けて見えそうなほど青びれた顔色のまま、彼女は弁当箱を手に取る。中身はあまり減っていないようだった。トイレの床に座り込むと、その私の隣に志弦が着座した。
「君が食べるかも、って思って、今日は肉団子を入れてみたんだ」
「私肉食系に見えるの?」
「なんでも食べそうだけどそうじゃなくて。僕が作るものは肉団子が一番美味しいみたいでね」
体育座りをして、傾けた頭を膝に預ける姿は写真に撮りたいほど綺麗だ。凛とした瞳が、トイレの窓から差し込む陽光を受けて細められる。差し出されている弁当箱を取る為に志弦を見たものの、体は動かなかった。見惚れる、というのは比喩だと思っていた。今なら分かる、見惚れるとはこういうことなのだと。
固まっている私から視線が外される。憂いを帯びた面差しは手元の弁当箱へ向けられた。丁寧な手付きで箱を開け、箸を取った彼女が肉団子を摘むと、私の唇に近付けてきた。
「ほら、口を開けて」
「……いや、何してるのよ。自分で食べるし。彼氏じゃないんだから」
「友達同士でもやると思って」
「やらなくはないけど」
初めから冗談のつもりだったらしく、志弦は肉団子をすぐに弁当箱へ戻し、箸と箱を渡してくる。今度こそ、呆けることなくそれをちゃんと受け取った。
確かに友達同士で食べさせ合うこともあるが、どうしてか志弦とそういうことは出来そうになかった。彼氏、という言葉に繋がってしまうくらい、男性のように感じてしまう。外見はどこからどう見ても綺麗な女の子の為、やはり口ぶりのせいだろう。彼氏、と唇の裏で反芻して、私は溜息を吐き出した。
「ねぇ、愚痴聞いてくれる?」
「すぐに吐き出さないでわざわざ許可を取るなんて、君良い子でしょ」
「そんなんじゃないわよ、あんたとはまだ会ったばっかだから遠慮してんの」
「ふうん? まぁ、良いよ。吐き出してごらん」
優しい声音が私の喉の塊を溶かしていく。一人で抱え込むしかないと思っていた苛立ちはすぐさま溢れ出した。
「彼氏と休日にデートするって嘘を吐いたら、仲良しグループの子に、彼氏と写真撮ってこいって言われたの。人のプライベートに踏み込みすぎじゃない? 彼は写真が苦手なのーって何回も言ってるのよ?」
「なるほど、そういう設定なんだね」
「私の嘘は置いておきなさいよ」
「家族の男の人とか、男友達は?」
頭の中に浮かんでくる顔は一つもなかった。数年前まで共に住んでいた父親の顔すら、はっきりと思い出せない。一緒に遊べる男友達がいたことも、ないかもしれない。
自分の居場所を固めることに必死で、今となっては仲良しグループの子達しか眼中になかった。男子生徒も、話しかければ普通に接してはくれるが、遊びに誘うほど仲の良い人は当然思い当たらない。
「……どっちもいないわよ」
「そっか。じゃあ、僕でどうかな?」
躊躇いなく紡がれた提案は相槌じみていて、私も自然と頷きそうになってしまった。微かに俯かせた顔を勢い良く持ち上げ、志弦の方を見てみたら、彼女は遠足前の小学生みたいに笑っていた。
「……なんであなたなのよ」
「男らしい格好で出歩いてみたくて」
「志弦って実は男子だったりするの?」
「そうだよ、って言ったらどうする?」
長い睫毛が上下して、涼し気な瞳を一瞬だけ隠してしまう。やや切れ長の双眸も、すっと筋の通った鼻も、柳の葉みたいな眉も綺麗で、男装をしたら美少年になるだろう。けれど志弦が男子だなんて信じられなかった。白くて華奢で、指も女性的な美しさだ。視線を落としてみれば、ワイシャツとベストの下にはちゃんと胸の膨らみがあるように見える。
食いつくほど観察していたら、志弦が「冗談」と可笑しそうに笑い声を上げた。
「同級生と遊びに行くなんて面白そうだから、聖さえよければぜひ行ってみたくてね。けどそれだと、僕にしかメリットがない。だから君にも得があるように、彼氏のフリをしようかなって」
「……まぁ、私もあなたの私服とか気になるし、行ってみたい、けど」
「そう? じゃあ行こうよ。明日で大丈夫?」
「大丈夫」
遊びの約束をするなんて、よくあることだ。彩夏達とだって、カフェの新商品を飲みに行ったり、映画を見に行ったり、服を見に行ったりしている。けれどどうしてか、この遊びの約束は、特別なものに思えた。
互いに携帯電話を取り出して連絡先を交換し、明日の待ち合わせ場所と時間を決め終えると、志弦が目尻を柔らかく下げた。どこに行くかすら決めていないのに、私と遊ぶ予定だけで浮かべられている表情を、真っ直ぐに眺められない。お嬢様を演じていない私なんかとの約束に、笑顔を咲かせる人がいるなんて、思いもしなかった。
「楽しみだな……聖の私服姿は可愛いんだろうね」
「べ、別に普通よ」
「そういえば昨日から思ってたんだけど、聖って化粧とかしなくても可愛いと思うよ」
座ったまま私に身を寄せて、こちらの仏頂面を覗き込む美貌に、唇が歪んだ。照れ隠しで浮かべていた仏頂面だったものの、それが不満げに顰められていくのは自分でも分かった。
「……ごめん、気に障ったかな? もちろん今も可愛いけど、そのままでも」
「私は顔を褒められたことなんてないし、人形みたいな顔面してるあんたに言われるのはなんか腹立つの。私はあんたみたいな顔が欲しかった」
「人形って……ふふっ、他人なんて自分より綺麗に見えるものだからね」
「そういう問題じゃないわよ」
「今日の休み時間。多分二時間目の後かな……友達と歩いてる君とすれ違ったんだよ」
固まったのは、私の表情だろうか。それとも心臓の方だろうか。見られたくなかったわけではなかったが、予想外の言葉に声を飲んだということは、見て欲しくなかったみたいだ。彩夏達に、ここでの姿を見せたくないように。
目を見張ったままの私に、志弦が微かに笑う。気遣っているのが感じられて、気まずさを覚えた。
「僕に見せてる顔と全然違った。無邪気にはしゃいでる、そう見えるように『作ってる』みたいだった」
「……作ってるわよ」
「作り笑いを浮かべている君より、今の君の方が僕は自然で良いなって思ってね。顔だって、背伸びして作らないで君のままでいても良いんじゃないかなって、そう言いたかっただけだよ」
膝に顔を埋めたら、後頭部に熱が伝う。志弦の手は暖かくて、優しい。頭を撫でられたのはいつぶりだろう。考えてしまってから瞳が熱くなる。志弦の言葉に喜んで、ありのままの私で居たくなる。だけど沢山の過去が押し寄せてきて、私を無価値だと嘲笑う。
じゃあ、と絞り出した声は鼻にかかっていて情けなかった。
「明日は、少し、化粧控えめにするから。笑わないでよね」
「笑わないよ。楽しみにしてる」
膝に額を擦り付けながら頷いて、顔を上げる。志弦の方には顔を向けず、床に置いていた弁当箱を手に取り、おかずを食べ始めた。舌の上に転がった肉団子は甘辛で、ほんのりと広がった梅の風味が口内に溶け込んだ。
「……ほんとだ、美味しい」
「口に合ったなら良かった」
「昨日の卵焼きは殻が入っててイマイチだったのに」
「えっ、それはごめん」
「冗談よ。美味しかった」
他愛のない会話で笑い合えるのが心地良い。今頃彩夏達は私の悪口で盛り上がっていたりするのだろうか、と教室に思いを馳せてから苦笑が口端に滲む。今なら思う、どうして私が仮面を付けてまで彼女達にしがみついているのか理解できない、と。だけど、今だけだ。教室に戻れば彼女達のもとにしか居場所がないのだから。
窓から差し込んだ陽の光が、私の頬を直に照らす。それがいつになく眩しく思えたのは錯覚だ。
志弦に微笑みながら、私は何気なく自身の頬を押さえてみた。仮面など付けられていない、引き攣った様子が欠片もない顔。私はいつになったら、これをずっと晒せるようになるのだろうか。
チャイムが鳴る。息苦しくなる時間が、カチ、と私に近付いたような気がした。
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