虚飾の式4

     (四)


 黒板にチョークが擦り付けられる音。子守唄のような教師の声。窓の向こうからはグラウンドではしゃぐ生徒の声が聞こえてくる。教室内は比較的静かで、しかし不快な笑い声がしばしば響いていた。

 午前中は普通に接してくれていた彩夏達が、昼休み後から私を無視している。いないものとして扱うのなら、徹底的に存在を消してくれたら良いのに、彼女達は私の一挙一動をコントとして見物していた。黒板を見て、教師の話を聞いて、板書を写しているだけのどこに面白みがあるのか分からない。馬鹿馬鹿しいと思えど、不快感と苛立ちが私の唇を歪めていく。下唇を内側に丸め込んで歯を突き立てたら、昼食後に塗ったばかりのリップが苦く感じた。

 彩夏達に笑われていることも気に食わないし、周囲のクラスメートが私達の関係の罅に気付いて、何かを囁きあっているのも気に食わない。これではまるで、私がいじめられているみたいだ。自分はそんなに弱くないと思ったら、余裕の笑みが浮かんでくる。これが強がりかどうかなんてどうでも良い、嘲笑を浮かべられているのならそれで良かった。

 帰りのホームルームが終わり、隣席の彩夏のもとに美智と琴音が寄ってきたのを後ろ目で見ながら離席する。鞄を肩に提げ、私の足が向かった先は廊下ではない。高らかに響いたのは、上履きが机の足に叩き付けられた音だ。私は彩夏の机に憤りをぶつけていた。


「あんたら、なんのつもりなわけ?」


 三人の不満げな顔に怯むことなく棘を投げかけたら、堪えていた怒りが胃の奥から込み上げてくる。怒鳴り声を上げそうになり、喉を締め付けた。低く静かな怒りは、どれほど彼女達を刺せるだろう。不思議なことに私は、ここで自分が言い負けるなんて思わなかった。ハッキリと嫌なことを示せば謝罪が返ってくると信じて疑わなかった。


「文句があるなら口で言いなさいよ。私が何をしたって――」

「お金持ちって嘘なんじゃん」


 投げ付けられたのは、写真だ。私の胸元にぶつかって、床にバラバラと落ちていく用紙には、一軒の建物が写っていた。古びたアパートの外観。錆びた階段。汚れた玄関。『式野』と書かれたネームプレート。

 見間違うはずがない。どの写真を見ても、それは確かに、今の私の家だった。

 動揺を見せることなく違うと言えたなら、状況は変わっていただろうか。雪解け水を頭から被ったように体温が下がって、蒼褪めていく。凍り付いて床を見下ろす私の視界で、写真が数枚拾い上げられた。桜をモチーフにしたネイルがきらりと光る。それは彩夏の爪だ。彼女は拾い上げた写真を、教室内に投げ始めた。


「皆も見てよ、笑っちゃうでしょ。あのお嬢様の家がこんななんだから!」

「っやめてよ!」


 私の家の写真が散らばっていく。彩夏に掴みかかった時、もう彼女の手に写真はなかった。投げ捨てられたそれが教室のどこまで行き渡ってしまったのか分からない。辺りを見回すことは出来なかった。クラスメートがどんな顔で私を見ているのか、直視する勇気はなかった。

 無理矢理に仮面を剥がされた顔の皮膚が、痛いくらい引き攣っている。浴びる視線が容赦なく肌を炙っていく。顔がひどく熱かった。情けない顔が隠されることなく晒されているのに彩夏を真っ直ぐ睨み上げて、すぐに後悔した。彼女の嘲りが、剥き出しの顔に深々と刺さってきたから。


「聖さぁ、苗字変わったのって、お金持ちのお父さんに捨てられたからなんだね」


 震えながら開いた唇は声を吐き出せない。言いたいことは山ほどあるのに、気持ちを言葉にする術が記憶から消えたような感覚に陥る。そんなことを、廊下にまで聞こえそうなほどの声で、言わないで欲しかった。

 口を噤んだ私の肩を突き飛ばし、彩夏が教室から出て行く。そそくさと後を追う美智と琴音に胸中で悪態を吐く気力すらなかった。


「貧乏人とかダっサ」

「彼氏の写真ももういいよ、どうせ嘘でしょ」


 残されたのはそんな言葉と、惨めな写真と、馬鹿な私。屈んで、足元に落ちている数枚を拾い上げた。周囲の声を聞かないようにして、クラスメートの顔を見ないようにして、私は教室内をぐるぐると回り始めた。何回、教卓側と後ろの席の方を行き来しただろう。何度行き来しても、何度確かめても、まだ残っているのではないかと気になってしまい、ひたすら床を見続けていた。

 顔を上げた頃には、もう誰も教室にいなかった。カーテンが開けられたままの窓から赤みがかった陽光が差し込んでいる。手元を見下ろせば、握りしめられて折れてしまった写真の用紙が、茜色を帯びて艶めいて見えた。その光が広がって、私の目の前を満たしていく。手にしている写真も、教室の床も、机の足も、全部光って輪郭を滲ませていた。唇から零れた「眩しい」という独り言がやけに掠れていて、吐く息さえ傷だらけに感じた。

 もう帰って寝てしまいたいのに、足が動かない。力が抜けて、膝が折れる。誰の席だったかも覚えていない机と机の間で、うずくまった。

 どうして私がこんな目に遭わなければいけないの。どうしてお嬢様じゃないというだけで嘲笑われなければいけないの。どうして誰も、私を見てくれないの。

 嗚咽だけが、いつまでも迸る。流れ続ける痛みを止めたいのに、傷口がどこなのか分からない。写真を握り締めたまま、膝に顔を埋めて、息だけで泣いていた。

 何かが軽い力で頭にぶつかって、歪み切った顔をなんとか持ち上げてみた。目の前で揺れたのは、少しオシャレなデザインのペットボトルだ。夕焼けでキラキラ輝く紅茶が、視界を覆う涙のせいもあって、宝石のように見えた。

 音を立てて鼻を啜ると、その紅茶を床に置いた少女がにこりと笑ってポケットティッシュを差し出してくる。

 吸い込まれそうなほど透き通っている、黒曜石じみた双眼も、赤らびいた斜陽を宿していた。暖かくて、柔らかくて、優しくて。思わず「眩しい」と溢れた呟きを唇の中に留め、塩辛い涙とともに飲み下してしまった。

 引ったくる勢いで彼女――志弦からティッシュを受け取って、目元を拭う。崩れた化粧でティッシュは黒くなっていた。これ以上酷い顔を晒したくないのに、拭っても拭っても涙が途切れない。私の前で、志弦はいつもの調子でペットボトルを揺らしていた。


「期間限定だって。紅茶にチョコって合うのかな。聖、飲む?」

「……なんであんたここにいるのよ」

「昇降口で、君の噂をしている子達がいてね。心配になって教室に来てみたら一人で蹲ってるし、泣いてたみたいだからつい」


 噂をしていたのは、誰だろう。私はもう、この教室内で哀れな嘘吐きとしか見られないのだろうか。小刻みに震える唇を噛み締めたら、情けないほど弱々しい息がせり上がる。窓の外のグラウンドから聞こえる楽しげな声が、私を笑う彩夏達の声に聞こえてしまう。

 耳を塞ぎたくなって手を持ち上げた。耳に押し当てた両手でそのまま髪を掻き乱してしまいたかった。どうしようもなく叫びたい。駆け出したい。落ち着かない。けれども立ち上がる気力はまだないようで、わけも分からず頭を左右に振っていたら、頭に志弦の手の平が乗せられた。


「その、さ。あんまり気にしなくて良いと思うよ。あの子達と聖は相性が良くなかっただけで――」

「嘘を吐くのは悪いこと?」


 志弦の手を振り払ってしまって、胸の奥が小さく痛んだ。自身の涙声はまるで不安定な心をそのまま音にしているみたいだった。不規則に高くなる声色が黒板に爪を立てた時くらい不愉快で、耳を塞いでいる手に力を込めてしまう。耳の付け根から血が滲みそうな程、強く、爪を皮膚に沈める。

 今聞きたくないのは自身の声で、それは耳を塞いでも頭蓋骨に響いてくるのに、そんな誰でも知っていることすら今の私には考えられなかった。

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