第34話 ミッション

 耳に届く波の音も、独特な潮の香りも心地よく感じられ、妙な安心感を覚えて目を閉じる。このままビーチパラソルの下で気持ち良く眠ってしまえば、さぞかし立派な燻製に仕上がることだろう。味付けも、素材を活かした天然の塩味ときたもんだ。

 まったく、日陰にいてもそんな状況なんだから、これで日向で寝ようものなら余裕で干物になれる暑さだろ。その暑さに悪態をついてサングラスを外した俺が、水着でたわむれる女性陣をガン見するという行為に及んだのも必然と言える。一種の清涼剤、そう、太陽に身も心も焼かれた俺を癒す清涼剤なのだから。

 その直後に清涼剤どころか、液体窒素並みの冷気を浴びせられたわけだが、星奈が機嫌を直してくれなかったらコールドスリープに陥るところだった。目が覚めたら千年後の世界でした――なんてラノベで溢れかえった展開が、自分に降りかかるとか色んな意味で寒すぎる。

 まったく、戦術級冷却魔法のニブルヘイムまで使いこなす星奈が相手では、俺の命はいくつあっても足りない気がする。ほんと、やれやれだ。


「そういえば、星奈って学校のプールにも入った事がないって、本当?」


「えぇ、ありませんよ。私、泳げませんから」


「えっ、星奈って、めちゃくちゃ運動神経良いんだよな?」


「はい。ですから泳げないというか、それ以前に水に入ることが出来ないんですよ」


「もしかして……水恐怖症ってやつ? そういう設定なのか?」


「そうですね。ただ、設定とは違うと思います。どこがどう違うとは言えませんが、おそらく記憶の問題であり、本能的に感じる怖さなのです」


「そう……なんだ」


 その口ぶりから察するに、星奈は水に対する恐怖感の正体に、薄々ながら辿り着いているようだ。俺が思っている通りだとしたら、それは――トラウマ。

 俺の胸中には星奈の話を聞いたあの時から、そんな事はありえないと否定しつつも、どこかでそれを肯定したいという想いがくすぶっていた。その想いは、星奈の台詞やしぐさに度々思い起こされるの姿によって次第に強くなり、今では確信に近いものをいだかされるまでになっていた。

 ただなんとなく、何かに誘導されているような――そんな気持ち悪さも感じている。むしろ、それが確信を強める一因にもなっていたが、それでも、は進むしかない。


「海、入ってみないか?」


「えっ? 光太?」


 ビーチチェアに預けていた上半身を起こし、星奈がちょっと困ったような表情を浮かべて俺を見つめる。その眼差しは、言葉の真意を求めるように問いかけてくる。


「言ってたよな? 星奈。この世界に来て、初めて楽しいって。周りの連中も今迄と違った反応を見せているみたいだし、星奈の中で変化が起きているんじゃないかと俺は思う」


「私に変化……ですか」


「ああ。そしてその星奈の変化が、この世界に影響を与えている。そう思ったんだ。だから、そのトラウマを克服すれば、もっと楽しい世界が開ける気がするんだよ」


 星奈は震えを押さえるように、胸の前で両手を重ねて押し黙っている。


「あと、あれだっ。俺がっ、星奈の水着姿を見たいってのもある」


 沈黙に何か言わなくっちゃと焦った結果、口から出たのがやっぱりこれ。清々しいまでの正直さに誇らしくさえある。


「ふふっ」


 呆れたのか、ポカンとしていた星奈が突然吹き出し、口元を隠すように手をあてがった。なかなか止まらないみたいで顔をそむけられ、それから一頻ひとしきり笑い声が漏れ聞こえてきた。その様子に俺はといえば、徐々に込み上げてきた恥ずかしさに唯々耐えるしかなかった。


「本当に、光太は面白いですね」


 一つ大きく息を吐き出してから、星奈が目尻の涙を拭いながらこっちを向いた。

 ビーチチェアをギシッときしませ、立ち上がった星奈は正面の海を見据えている。その澄ました横顔から、彼女の感情の起伏は読み取れない。ただ、ゆったりとしたパーカーの上からでも、その見事な体形の起伏は十二分に見てとれた。

 猫が唸るような音を立て、首元までしっかりと締めてあったファスナーが一気に下ろされる。薄水色のパーカーが、躊躇ためらう事なく肩から外され、背中から腰、肩から二の腕の辺りまでが露になる。そこで動きが止まっていたのだが、透けるような白い肌と滑らかな曲線に魅入られた俺は気付かなかった。

 

「脱ぐところをジッと見られていると、流石に恥ずかしいのですが」


 顔だけをこちらに向けた星奈が少し口を尖らせて、頬を赤く染めていた。


「ごめんっ!」


 完全に見入ってしまっていた事実に、申し訳ないという気持ちよりも恥ずかしさで顔をそむける。さらっと生理なんて言葉を口にするかと思えば、水着姿になるところを見られるのを恥ずかしがる。女心というか、星奈の基準がよくわからん。


「光太、もう良いですよ」


 星奈の声で振り向くと、背を向けた星奈が髪をまとめてお団子にしているところだった。

 ビキニタイプの水着で色は可愛らしいスカイブルー……いかん、つい視線がお尻に全集中してしまった。気を紛らわせるために、浴衣もそうだったけど水色が好きなんだな――なんて考えていたら、シートの上に星奈がうつ伏せに寝そべった。


「ん? 星奈、どうかした……のっぉおおおおお!?」


 星奈が、いきなり首後ろの紐をほどいたかと思うと、立て続けにブラのホックまで外しおった。いやっ、待って、なんか尊いものが潰れちゃってるのが見える! 思春期の男の子には刺激が強過ぎるんですけどっ!?


「光太、日焼け止めを塗って下さい。今日はここから動くつもりがなかったので、体まで塗ってきていないんですよ。ちなみに水着は、光太に見せたかったので着てきました」


「えぇ?! 俺? いやっ、でも……ほんとに、俺が塗るの?」


「はい」


 見せたかったとか嬉しいことを言ってくれるが、こいつはミッションインポッシブルだぜ。俺なんて心臓がバクバクいってるのに、なんで星奈は平然と……いや、耳とか赤くなってるから、案外、星奈も恥ずかしいのかも。

 ――俺も男だ、頼まれたからには断るわけにはいかない。変な漢気が顔を覗かせ、星奈が用意していた日焼け止めを手に取った。


「背中が終わったら、前もお願い出来ますか?」


「へっ?」


 日焼け止めが手から零れ落ちた。


「冗談です」


「……ですよね」


 ほんと、勘弁してくれ。そろそろ心臓が過労死しそうだわ。ちょっとだけ残念な気持ちを抑え込み、寝そべる星奈の横に両膝をついた。取りあえず、星奈の背中に日焼け止めを数滴垂らしてみる。


「んんっ」


 ピクッと反応した星奈の口から艶めかしい声が漏れた。

 止めて。こっちもマジで反応しちゃうから止めてっ。ワザとなのっ?! もうご褒美じゃなくって、これ拷問に近いから。ほんと、気を逸らさないとヤバい。頭の中で頼れる円周率さんを暗唱しながら、星奈の背中へとゆっくり手を近付けていく。


 3.14141414194194194……。


「にぃに、さっきから見てたけど手つきがキモい。あと顔も。美亜が代わるから、どいて」


「美亜?! いつの間に……って顔も、は酷いだろ。普通の男の子なら傷つくぞ?」


「良いから交代! 星奈姉さま、美亜が塗りますね」


「ありがとう、美亜」


「にぃには、ジロジロと見ていないのっ!」


「はいっ!」


 ガッカリしたというか、ホッとしたというか。とにかく、ミッションを美亜に強奪されてしまったので、それが終わるまで砂の城でも作ることにした。

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