第10話 ミジンコ
数週間が経ち、明日からGWに突入する。教室も随分と賑やかになり、当初のぎこちなさが懐かしくすらある今日この頃、新司も学校にすっかり慣れた様子でクラスメイトと仲良くやっていた。
GW明けには、課外授業といった大きなイベントも控えている。あとは学力試験もイベントといえるか。そういったイベントの前後には、新司のヒロイン攻略にも動きがあるだろう。
ゲームとは別に、俺は俺でこの竹原光太としての生活を楽しんでいた。
ゲーム上ではプレイヤーにボタン一つで飛ばされる時間、その裏側で起きている、語られる事のない脇役たちの物語。そう考えると、ちょっと得をした気分になってくる。今もこうして廊下を歩いていると、その一端を垣間見る事が出来るからだ。
こちらに向かって歩いて来る女生徒が一人。前が見えない程の資料を抱えているのはお約束というか、ほんとベタな展開だ。そのままだと俺にぶつかるので、横に避けてあげるのが紳士として当然の行為だろう。しかし、ここは敢えて立ち止まって動かない選択をする。
「そんなに抱えて大丈夫?」
俺に声を掛けられたことで気付いた女生徒が立ち止まった。その拍子に、俺は彼女が運んでいた資料をあらかた自分の腕に納めてしまう。
「これ、どこまで運べばいいの……かな? 柏木さん」
そう、資料の向こうから現れた顔、それは柏木星奈のものだった。
「……」
何か言いたげに開いた口が無言で閉じられる。その小振りな口が不満気に、ほんの少しだけすぼめられているように見えるのは気のせいだろうか。
ここでまさかの柏木登場に顔を引き攣らせなかった俺を褒めてやりたい所なんだが、それ以上に、いかにもな釣り針にわざわざ引っかかりにいく数秒前の俺に、全力のドロップキックをお見舞いしてやりたい。
「えーっと、柏木……さん?」
「結構です。どなたか存じませんが親切の押し売り、というものです」
彼女は凍てつく視線を突き刺し、そう告げると短く息を吐き出した。俺は背筋にひんやりとしたものが走り、体がぶるっと震えるのを感じていた。
「はははっ……、えっと、俺は、二年三組の竹原光太。押し売りには違いないが、お試しセール中で安いから買っておきなって」
俺の一言に柏木は目を細める。なんだか虫けらでも見るような目をしている。
「本当に図々しい、ミジンコみたいな人ですね」
うん、思っていた以上に微小な生き物だった。食物連鎖の底辺、理科の時間に顕微鏡で見たやつや……。
「今、ちょっとだけ傷ついたぞ。ちょっとだけな」
「どうしてでしょうか? 褒めてさしあげたのですが」
本当にわかりません、そんな風に首を傾げて俺を見上げてくる。こいつ……。
「すまん、どうしたら褒めてる事になるのかサッパリなんだが? そもそもミジンコって基本メスしかいないよな?」
柏木が、さも意表を突かれたとばかりに目を見開き、何も言わずに歩きだした。その表情をどう受け止めれば良いのやら、煮え切らない思いをしつつ彼女に付いていく。
「意外にも教養があるので驚きました」
「そりゃどうも」
単細胞、つまり能無しと思っていたわけですか。あいにくミジンコは多細胞生物だ。まぁ、こいつなら知っていそうだが。
「つまり、あなたは希少動物だと褒めたんですよ」
ほぉ、なるほど。俺はミジンコの中でも特定条件下――生存危機が迫った時にだけ交配目的で産まれる希少なオス――として認識されたようだ。これは、男として認識されている事を素直に喜ぶべきなのか?
【微小動物であり希少動物】確かにその響きは、どことなく珍しくてありがたい物に思える気がしないでもない――が。
「珍しいって誉め言葉なのか?」
立ち止まった柏木が振り返る。存在を確認するかのように俺を見つめるその瞳は無機質、やはりそう例えられる類のものだった。
「この学校で、私に積極的に関わってくる人は希少ですから」
溜め息を吐くように呟いた柏木が、前を向いて歩き出した。すぐに柏木を追いかけて横に並んで歩きつつ、目の端でちらりとその横顔を
「そうなのか? お前ほどの美人なら、お近づきになりたい男どもがわんさかといるだろ」
柏木がまたもや立ち止まった。先に進んでしまった俺が今度は逆に振り返る。
「……おまえ? おまえ……。おまえ……」
どこかぼーっとした表情で、彼女は何やら呟いていた。
「なんだって? どうかしたのか?」
俺の問いかけに気付いた柏木が、はっとした面持ちを見せて俯いた。
「別に、何でもありません」
そう言うや否や、柏木は俺を追い抜くと、そのまま置き去りにして歩いていく。通り過ぎる際にちらっと見えた彼女の顔色は、ほんのりと赤らんでいるように見えた。
俺は空気を読める男だ。間違いない、あれはかなり怒ってる。この前も露骨な人間だって怒らせたんだった。
だけどなぁ、お世辞なんかでなく、柏木が美人であることに異論を唱えるやつはいないだろうに。
こんな時、美亜ならぷにっと肉まんでも買ってやれば一発で機嫌を直してくれるんだけど、さすがに柏木にはなぁ。ぷにっと肉まんじゃ、ダメだよな。
とりあえず俺は早歩きで柏木に追いつくと、今度は横に並ばず斜め後ろを付いていく。謝ろうと並びかけたら、柏木が歩く速度を上げたからだ。
それを俺は拒絶、怒りの表れと受け取った。古き時代の、夫を立てる良妻のように黙って三歩後ろを歩く俺。
沈黙に耐える為にそんな事を考えていたら、前を歩く柏木が髪を耳にかけた。白磁のような華奢な手が髪をすくい、姿を覗かせた愛らしい耳は、先の方まで赤く染まっている。暑いのだろうか。
それにしても柏木、恐るべし。そんなちょっとした仕草が、なんとも優雅で目を奪われる。
「立てば
ふと頭に浮かんだ言葉が、自然と口をついて出ていた。ただ、柏木は大和撫子というよりは西洋人形といった感じの見た目だから、この例えが当てはまるのかは微妙なところだ。
俺の言葉が聞こえたのか、柏木が
「そうですよね。誰もかれもが目で見えるものだけで私を判断する。あぁ、あと地位やお金もですね」
冷たい、深海を思わせる青い瞳が閉じられた。
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