第41話 人間

 アリスが生まれたばかりのころ。


 裸で、森の中を漂うようにしていたアリス。

 彼女に感情というものは無かった。

 ただ、死んだ娘の姿を借りそこに存在しているかに思えた。

 いつの間にか、誰かに連れられ龍の心臓の中へと連れ込まれた。


 ――ドクン。


 龍の心臓の中は、暗闇。


 ――ドクン。


 見えないし聞こえない、感じない。


 ――ドクン。


 でも、どうしてだろう。

 もう殺したくない。

 魂の悲鳴を聞きたくない。

 龍が火を吐くたび千の光が瞬き、万を超える命が消え去る。

 力を引き出されるたび、人間と呼ばれる生命が燃え尽きる。

 そのたびにアリスの近くを彼らの終焉の証、魔素の欠片たちが悲鳴をあげ、空へと昇ったのを感じた。

 

「やっと見つけた純粋素体」

「もっとも価値のあるモノ」

「龍の心臓にいちばんふさわしい、モノ」

「感情がなくて、扱いやすい」

「いい拾い物だった」

「存在理由は知らないが、利用できればいい。見つけられて幸運だ」

「拒否反応すら出ない。完璧なモノだ」

「モノ、物、モノ」


 人はアリスをモノを言う。

 何も感じなかった。

 その通りだと思っていた。

 でも、どうして。

 どうして涙が溢れてくるのだろう。

 人間は悲しいときに泣くと言った。

 アリスは悲しくないのに、どうして自分が泣いているのかわからなかった。


「もう泣くな。君は人間だ」


 男は言った。

 おかしな言葉を使う男だと、アリスは思ったものだ。

 泣いているのは、貴方だ。

 龍の胸が開かれ、自分を人間だと言ってくれた貴方。

 あなたが一番、泣いている。


 アリスにはわかっていた。

 どうすれば彼の力が元に戻るのか。

 どうすれば、塞ぎこみ閉じこもってしまった彼を再び立ち上がらせることができるのか。

 アリスにはわかっていた。



「今日は私がつくりました」


「ありがとう、アリス」


 ホワイトプラムと、マイアーはとうに帰った。

 夕暮れになり、小屋の暖炉に火をともす。


 食事の時間だ。

 彼のために、アリスは食卓に立ち料理というものをする。

 本当は、味覚がわからない。

 本当は、匂いがわからない。

 だけど、魔素のはたらきでなんとなく食材の変化は理解できる。

 シャティアから教わり、ティアラにも厳しくみてもらった。

 温度はわからないけど、魔素の震えで知ることはできる。

 具材の大きさは見えないけれど、レーダーのように働かせた魔素で知ることができる。

 アリスは、味付けの単純な料理を選ぶ。

 もちろん、ポトフは先程から煮込んである。


 できあがったいくつかの料理をテーブルに運ぶ。

 蝋燭のたよりない光の中、彼の表情がかすかにほころんだのを感じる。


「おいしそうだね」


「がんばりました」


 うれしそうな声。

 空気の振動でそれはわかる。

 聞こえないけれど、かすかな違いは温度と同じで魔素の振動が教えてくれる。

 ――喜びを感じる。

 彼が私を人間だと認めてくれる。

 そう焼き付けられた不自然な回路の設定だったとしても、アリスは嬉しいと自分の中の魔素回路が動いていると感じている。

(人間じゃないのに、おかしいよ)


「ポトフ、上手になったね。今まで食べた中で一番おいしいや。シャティアがいたらビックリしただろうな」


「……はい。ありがとうございます」


「リリィとフランツにも食べてもらいたいな」


「はい」


 次々とアリスの料理を口に運んだ彼は、来訪者が持ってきた酒をグラスに注いだ。

 アリスのグラスにも注がれたその液体は、アリスにとって水と大差ない存在だ。

 僅かに魔素の配分が違うだけの、変わった水分。

 だけどその液体は輝いてみえた。

 うれしそうな彼の顔を感じる。

 それだけでこの液体は幸せだ。

 この空間は幸せだ。

 シャティア、リリィ、フランツ。

 アリスは彼らの顔を思い浮かべる。


「とってもおいしかった。ありがとうアリス」


「ベルヌ様、これ」


「なんだい。首飾り?」


「今まで身体の【調節】のときに出てた魔素の欠片を加工したものです。なんの魔力効果もないですが、ベルヌ様にさしあげたくて」


「……ありがとう。本当にうれしいよ。アリスの分身だと思って、いつもつけておく。綺麗な宝石だね。こんなに嬉しいことはない」


 小さな、小石ほどの大きさしかない首飾り。

 今までの欠片を圧縮しただけの、価値なんてないモノ。

 だけど彼はとても満足そうに微笑んだ。

 アリスは思わず頬を真っ赤に染めてしまいそうになり、下を向く。

 彼は不安そうにこちらを見つめている。

 具合が悪いと思われてしまったらしい。

 もう、彼が笑うだけでアリスは幸せだった。

 彼が人として見てくれるだけで。




 彼は入浴を終え就寝するため、ベッドへと入った。

 アリスは自身には不必要である、お風呂に入るため浴室へ。

 たよりない蝋燭を一本だけ残し、部屋の中は光と影で揺れていた。

 背を向けて眠る彼の背中は大きい。

 とても、おおきい。


 アリスの身体を、水が流れ落ちる情報が這う。

 髪の部分を濡らす情報が通り過ぎ、ぬるい温度の湯に身体をつける情報が入力される。

 そして入浴の時間を計り終え、アリスは浴槽から身体を起こす。


 やがて細く美しい肢体を軽く拭き、アリスはベルヌが眠っているベッドの傍らまでやってきた。




 ◇


「私がベルヌ様を調節します」


「アリス?」


 寝転んだまま薄目を開けると、そこにはアリスが立っていた。

 アリスは、淡く揺れる光の中に全てをさらけ出していた。

 炎に揺れる瞳は決意をはらんでいて、ある種の覚悟を感じることができた。

 とてつもない覚悟。

 濡れた髪はしっとりと背中から腰に張り付き、光の粒のように残る水滴がすぅと重力に引かれアリスの内腿を落ちる。

 胸の前で祈るようにぎゅっと組んだ両手は、柔らかな胸を行き場なく押しつぶし、せつなそうに呼吸のたび上下をくりかえす。

 可愛らしい小さな猫の耳は緊張で震え、尻尾は光に浮き出され壁に影をつくっている。

 身体を起こし、アリスを見つめる。

 アリスは、そのまま近づいてくる。

 壊れそうなまで美しい顔が目の前に迫り。


「んっ…………」


 強引な口づけに驚く。

 しかし拙く、要領を得ないもの。

 両肩を抑え、一度離す。


「どうしたんだいきなり? 驚くじゃないか」


「好きです」


「アリス、お前」


「愛しています。愛してしまったんです」


 肩を震わせながら、アリスはそう告白した。

 悲痛なまでの想いを秘めた表情で、純粋極まりないその瞳で。

 ただ真っ直ぐに覚悟を決め、想いの丈を打ち明けたのだ。

 しかしアリスはすぐに目を伏せてしまう。


「……すみません。あまり見つめないでください。もう、壊れてきてしまっています。もう……美しくないです」


 右手のヒビは広がり、アリスの身体を蝕んでいる。

 今では右頬まで痛ましく広がっているのだ。

 人間でない証明であるかのように、彼女の姿を不完全たらしめようとする。

 できるかぎりその証を隠そうと、アリスはその部分だけタオルで覆っていた。

 人間だって不完全だよ。

 完全だって未完成だよ。

 生きているかぎり、完璧な答えなんてあるわけない。

 アリスは生きている。

 タオルを全て取り払うと、アリスは驚いたような顔をした。

 その、頬の欠けた部分を俺の手で覆ってやる。

 こんなにも綺麗じゃないか。


「あ…………」


「俺も、お前が好きだ。愛している」


「あ、ああ……。はい。はいっ」


 再び、口付けを交わした。

 むさぼるように舌を絡ませ、想いを交換しあう。

 障害はなにもなかった。

 少年と少女を邪魔立てするものはなにもなく、確かにそこには確立された人間の姿があった。

 柔らかく、激しく。

 奥まで、もっと奥まで。

 二人だけが奏でる音楽。

 二人だけが知る旋律。

 あなただけのメロディ。

 君だけが感じる調べ。


「俺に全部みせてくれ。アリスの姿、全部だ。上も下も、すべて見ておきたい」


 のぼせあがる感情に身をまかせ、少女の身体を求める。

 調節で何度も触れてきたにも関わらず、心臓が飛び出しそうなほど暴れまわっている。


 すべてが美しい。


 ピクリと緊張に震える小さな耳、一本一本が芸術のように艶やかな黒髪、しなやかで生き物のように動く尻尾。

 暗闇に浮き出る希望のような小ぶりで白く美しい顔、吸い込まれる宝石のような黒い瞳、確かに紅が差す頬。

 とても細い足首、非の打ち所のないふくらはぎ、男を狂わすようなふともも、そして神秘的なまでの部分もすべて鑑賞する。

 頬を染め、爆発しそうな感情に身を任すアリス。

 こんなに柔らかで女性的な腰つきだったとは、こんなに扇情的な乳房をもっていたとは。

 奪うように両手で包み込む。

 アリスは短く声をあげた。痛かったのだろうか?


「ふうっ……もっと、もっと」


 アリスは切なそうにそう言った。

 その声でさらにタガが外れたように俺の手は乱暴に暴れまわった。

 全てを触りたい。どこも残さず、どこも余さず。

 アリスは強引な求めにも関わらす、悦びの声で受け入れてくれる。

 もっと、もっとしてください。

 やがて夕日が沈む海のように情熱的な瞳でアリスはこう言った。


「私にもみせてください。全部、前も後ろも、裏側も。恥ずかしい部分も、ぜんぶ」


 アリスはその男の姿を目に焼き付けた。

 もちろん、身体の隅々の構造は魔素のレーダーで知っている。

 どんな形をしているのかすら情報で理解できている。

 だけど今、目の前に彼の美しい裸がある。

 アリスの呼吸が荒くなる。

 腕や胸の筋肉がしっかりしていて、骨格はやや丸い。

 私だけの彼が、目の前にある。

 幸せ。

 本当に、幸せ。

 愛している。あいしています。

 アリスは身体の隅々までその小さな手を這わせ、愛撫した。

 全ての想いが行き届くように、時間をかけじっくりと。

 彼が感じてくれる。

 私を感じてくれている。

 アリスは、確かに彼の感触をその身体に感じることができた。

 ――できていた。

 


 やがて二人はひとつに重なった。

 時にはげしく、時にゆっくりと確かめあうその行為は、まさに獣のようであった。

 しかし二人は人間だ。


「ああっ……はぁっ、大好きです」


「俺も大好きだっ……」

 

 紅蓮。

 燃え盛るような色へと変化するアリスの髪と瞳は、確かに感情を表現していた。

 これが人間の悦び。

 決して感じることはないだろうと考えていた悦びを与えられ、アリスは赤く燃えていた。

 果てても果てても、再び行われるその行為はまるで自動人形。


 ――アリスは、とても幸せだった。


 世界で一番幸せだった。






「戻った。戻ったよアリス! 能力ワールドマジックが使えるようになった!」


「よかったですベルヌ様! 私もとても嬉しいです!」


 私も嬉しい。本当に嬉しい。

 ベッドの上ではしゃぐようにしている彼を見るを、アリスは笑顔にならざるおえない。

 誰よりも大切な存在が、再び立ち上がるための力。

 その重要な役目を自分が果たせたのなら。


「はやく【調節】しよう。今まですまなかったね。これでアリスの身体も元通りさ」


「ありがとうございます。良かったです」


「さっそく始めよう」


 【調節】により、身体が元に戻る。

 ヒビはなくなり、美しいすがたに戻ることができた。

 彼はなんだかそわそわしている。

 彼は、調節で出来た魔素の欠片を【能力ワールドマジック】で加工したようだ。

 アリスの左手をとり、彼は何かを渡そうとしているみたいだ。


「指輪をつくってみた。今は素材がなくて……君の欠片でつくらせてもらったもので申し訳ないけど、貰ってくれるかい?」


「…………はいっ! 喜んで」


 折角我慢していたのに、アリスはその指輪を嵌めてもらう瞬間に泣いてしまった。

 もう泣かないと約束したのにな。

 嬉しくても、涙は出るんだ。

 アリスは涙をこぼし微笑んでいた。


 はかなく美しい人間の微笑みをその顔に浮かべていた。

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