第38話 ヨダという男
上空1200メトル。
共和国と帝国との境界線、ダンダリオスの近くの森から赤龍は飛び立った。
誰も侵入できない高度を飛び、まるで何かから急いで逃れるように北上し、何者も入ることのできない閉ざされた山脈へと向かう。
その途上、高度を下げた赤龍は深い森に一度着地した。
「ど、どうして僕をつれてきたんでせう? 僕はどちらかというとあっち側ではー?」
「……あまり話しかけないでほしいです。あなたを殺さない理由を考えているから」
「どうなるにせよ感謝してるんですー。あのままだったら、僕の命は多分、なかったと感じているのですー」
「うるさいな。……ここでいいかしら?」
アリスの手により荒っぽく龍の背より地面へと降ろされたのは、マイアー=ウィンテル=バルザック。
法国の枢機卿という立場ながら紫水晶の拡散に手を染めていた男である。
アリスはため息をつくと、その男を縛っていた縄をほどく。
「ぼ、僕を解放するので? いいんです? 自分で言うのもなんですが、けっこう僕、大物なんでせうがー?」
「嘘ですね。ベルヌ様の能力で調べたところ、あなたたち【七人会議】は結局、紫水晶を配るための小間使い。本質からは遠ざけられています。その証拠にあの勇者パーティの変貌に気付いていなかったじゃないですか。踊らされただけの人間ですよ」
アリスは淡々とマイアーの縄をほどき終え、その場を去ろうとする。
しかしマイアーは納得できなかった。
目の前の少女は、なぜなのか慈悲深い顔で自分を一瞥し龍の背に戻ろうとしている。
なんでそんな顔で僕を見る。僕は、君達の敵だぞ?
「命を助けてくれるのですか? 僕は、紫水晶の効果について知っていて他の人間に配ったのですがー?」
「また配るのですか?」
「…………いえ、僕は、もう」
「なら、もう貴方にこだわっても仕方ありませんね。では」
かなしい微笑み。
少女の顔に浮かべられた表情はとても複雑で、しかしその感情のおかげでどうやら自分は命拾いしたようだとマイアーは悟る。
美しい少女は、赤い龍の背に乗って行ってしまった。
なんて美しく、儚い少女なのだろうか。
「こんな山奥に枢機卿である僕を置いていくなんてー。歩いて法国までどのくらいかかるんでせうかー」
マイアーは歩き始めた。
何日かかるか、法国があるだろう方向へ。
赤い龍の姿は、もうとっくに見えなくなっていた。
死してなお立ち続けるシャティアの遺体を前にして、ミカエラはうずくまり頭を抑え叫ぶ。
「ベルくんベルくんベルくんベルくんベルくんベルくんベルくんベルくんベルくんベルくんベルくんベルくんベルくんベルくんベルくんベルくんあぁぁぁああぁあぁぁぁあぁぁあぁあぁーー!!」
ミカエラは狂っていた。
もうどうしようもない。
ベルくんに逃げられた。
このままじゃ嫌われる。
どこ行ったか行方不明。
だれも助けてくれない。
だれも解ってくれない。
しねしねしねしねしね。
「久しぶりだな、ミカエラちゃん。それに我が息子クロード。大変なことになったね?」
聞き覚えのある声。
クロードの父、ヨダのものだった。
ミカエラはゆらりと身を起こし、その声の主の元を見据える。
平均的身長、中年、中肉中背、小太り、クロードには似てもいない平均顔、こげ茶色の、普通の長さの髪。
村人ヨダ。
村の中ではある程度の権力者だが、町に出れば大したことのないいち村人。
へこへこと商人や騎士、貴族に頭をさげ、他の村人にも愛想はいい。
孤児だったベルに住処を提供してあげたのも、このヨダだ。
ミカエラだって狭い村だ。何度も話をしたことはある。
しかしミカエラは知っている。
リリィの書簡にあった情報で、ココ村でこの男が行おうとしていた実験のこと。
自分の今の力が、それに関係しているだろうこと。
……両親を処分したこと。
それにいち村人が、こんな辺鄙な場所にいることはあまりにも異常だ。
魔物の凶暴化が騒がれる昨今、それもダンダリオス周辺国境付近という戦闘力のない村人にとってはかなりの危険地帯で。
「【
ミカエラはヨダの首筋に、細い剃刀のような美しい手をつきつける。
村人の首など、紙を破くよりも簡単に切り裂いてしまえる。
「み、ミカエラちゃん。ずいぶんと強引な女の子になったね。でも、それはとても美しい。見ないうちに妖艶さが増したね。もしかして、夜はクロードとエッチなことでもしているのかな? ギシギシアンアンなのかな? うらやましいな。おじさん、ミカエラちゃんみたいな綺麗な子とできるなら全財産はたいても……」
「黙れ」
――ザグッ……。
ミカエラの指先がヨダの首筋へと刺さり、頚動脈だけを引き出した。
あとはそれを引きちぎれば血が噴出しておもしろいことになるぞ?
ミカエラの瞳は闇を映す。
私はクロードと夜にはなにもしていない。
殺すぞ村人?
苦しみだけを与えて今すぐ殺すぞ?
「おおう、ごめんごめん。おじさんちょっとそういう年だからさ、中年ギャグだよ。ミカエラちゃんが綺麗すぎだから嫉妬しちゃったわけ。クロードにはもったいないだろ?」
「ワン!」
「ありゃま。こりゃ尻にしかれちゃったか。情けないな我が息子よ。とまあ、前置きはこれくらいにしておこうか」
「…………」
白い歯を見せるヨダ。
ヨダはまるでココ村の中で談笑でもするかのように、首に刃を突きつけられてなおヘラヘラと笑ってみせた。
犬になりさがってしまった自分の息子クロードにもさほど驚かず、むしろ想定の範囲内のような態度をとる。
ヨダは村で大勢の村人を前にするような調子の弁舌口調を駆使しはじめる。
「つまるところ、ミカエラちゃんはもう一人の我が息子……ベルを追っているわけだね?」
「そうだ。逃げられてしまった。どうしよう……どうしよう……」
「ミカエラちゃん。何も問題ないよ。今回の戦いで剣聖エマ様と盾騎士ヨランダ様がお亡くなりになられた。とっても残念だ。だけど、大きな戦果もあるだろう?」
「戦果? でもベルくんは私の前からさらわれちゃった……」
ミカエラはポロポロと泣き出してしまう。
ベルの記憶を書き換える直前で、周りのゴミに邪魔されてしまったのだ。
だからベルの記憶には綺麗な私のままじゃない可能性がある。
それは嫌。
ミカエラは顔を抑えて嗚咽を漏らす。
そんなミカエラの肩を、ヨダは優しく抱き締めた。
ミカエラの服が破れ、チラリと胸のあたりの真っ白な肌が見えている。
ヨダはやや鼻の下を伸ばしながら、
「頭を使うんだよ、ミカエラちゃん。何もベルを変える必要はない。周りから変えていけばいいんだ。現にここには魔王の四天王を討伐した証拠三体分があるだろう? それに剣聖様と盾騎士様の戦死の証拠も……まあ、そんなものは捏造でも偽造でもなんでもいい。とにかく敵の死体はある」
「どう……するの?」
ミカエラは不安げな瞳をヨダに向ける。
ヨダはゆっくりとした口調で続けた。
「ミカエラちゃん。これをクロードと一緒に帝国に持ち込めば、莫大な戦果を挙げた勇者様として担がれるのさ。そして人は悲劇が大好きだ。魔王に残酷に、苦しめられ、辱められながらも勇敢に戦った剣聖様と盾騎士様のお話に涙する。絶対に許さない。魔王なんて許さないとね」
「ダメっ!! ベルくんが……それじゃベルくんが、悪者になっちゃう」
「本当に馬鹿だね君。ミカエラちゃん、考えてもみたまえ。世界を敵にまわすのが魔王の役目さ。それを彼はやりたがってる。君はその望みを叶え、さらに君だけが彼が本当は悪くないと知っている。これは【愛】だと思わないかい? 全世界から恨まれ、嫉まれ、嫌われ、疎まれるベルを愛せるのは君だけなんだよ?」
「私だけが……ベルくんを愛せる?」
潤んだ瞳は、愛の熱情を孕んで涙をこぼす。
ヨダはゆっくりとした口調で続けた。
「そう。全世界から追跡を受ける身になり、ボロボロになったベルを君だけが愛す。こうすれば、ベルが君をどう思おうが関係ないのさ。だって世界で彼を愛すのは君だけなんだから」
「あ、あああ……わかった。すごい。それはすごいいい考え。いい。幸せ! 早く行こっ」
「分かってくれてうれしいよ。私はそれだけを伝えにきた。……ちょっと髪、触ってもいいかいミカエラちゃん?」
「早くいこっ。立ってポチ! しょうこ。証拠どこ置いたっけ? もう……早く探さなきゃ!」
「ああ、いっちゃったな」
ヨダは笑顔で見送る。
涙を拭い、てとてと森の中に駆け出していったミカエラを目で追いながら、ヨダはゆっくりとした口調で続けた。
置いてきぼりにされたクロードに話しかけているのかどうか。
口調が平坦なため、独り言のようにも思えた。
「ミカエラちゃん、本当にエッチな子だな。一回でいいからやりたいな。はぁ。我が息子クロード。お前には絶望したよ。あんないい子を傷物にしておいて、その程度の出来上がりかい? やっぱりお前は相応しくなかったね」
「お、とうさま……」
「ワンと言えと言われてるんだろう? 全く羨ましいな。あんなに可愛いミカエラちゃんの犬になれるなんて、どんなご褒美だい? ……お前は息子に相応しくないよ。本当はベルに絶望してもらうべきだったね」
「とう……さま」
「もう話しかけるな。お前には興味がない。私はお前の父ではないし、お前のような失敗作に愛情は欠片もない。ベルやミカエラを見習いたまえ」
ヨダはミカエラを追いかけるようにして森の中へと消えていった。
四つんばいになったクロードは、ただじっとその場で待っていた。
ただひたすら待っていた。
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