第31話 子守歌

 純粋ゆえ、迷いなく。

 純真ゆえ、間違いなく。


 ミカエラは狂ってしまった。


 どうしようもなく、甘美で透き通る突き詰められた想いは重力のように収束し、彼女を取り巻く環境を飲みこむブラックホールのように変貌する。

 近くに存在する星の屑をあたりかまわず呑み込み、影響を与え最後の輝きへと昇華させる黒い深い愛欲の肉孔のなか。


 ――――魔神ミカエラ


 一番遠かったはずの候補者は、その存在に最も近づいた。

 たった一つ。

 ひとりの人間に対する強い想いだけをもってして。



 ミカエラは微笑む。

 自らをクズと罵った、愛を理解せぬ愚かなゴミクズである白いローブの女の子に対し微笑んでみせる。


「あは。クズ? わたしのことですか? いやだな、剣聖ミケは望んでこうなったのですよ? 最初はベルくんを気に入ってたくせに、気色悪い色目をつかって私をイライラさせたくせに、ベルくんを追い出すときは皆に同調し、自分の意見などなんにもない。ただ家には帰りたくないから、剣聖をやっている。その程度の下半身でものごとを考えている女ですから。クロードのことを好きだと言っておきながら、結局は私の愛を性欲で受け入れるガバガバの女です」


「――ゥウウゥ」


「は…………っ!? 貴様っ!!」


 リリィは激怒した。

 これまで生きてきて、ここまでの激情を露にしたことはなかった。

 目の前の女はあまりに貶められていた。

 過去の自分を穢されるようであった。

 ベルヌに助けられた、なんの抵抗も出来なかったあの頃の自分を。


「クソが!! 望んでそうなったじゃと!? その娘には選択肢も与えなかったじゃろうに、逃げる機会もなかったじゃろうに!」


「ありましたよ。あなたの尺度で語らないでください。いいですか、ミケは自分で考えるより、気持ちいいほうがいいんです。それを選んだんです。多くの人間は、面倒な選択よりそっちを選ぶんじゃないですか?」


「――ウ……ウゥウ」


「お、お主……」


 涎を垂らしたエマは唸り声をあげるのみで、なにを考えているのかリリィには読み取れなかった。

 ハラリと目隠しと口枷が落ちる。

 その目は空洞。

 眼窩の中には、鋭い短剣の切っ先が見えている。

 口の中には舌の代わりに幅広の剣先が隠れている。

 身体中に剣が仕込まれている。

 どうしてその状態で生きているのか。

 何故そこまでしてミカエラに従うのか。

 わからない。

 リリィは悲嘆に飲み込まれる。

 心臓がつぶれそうだ。

 今、お前は何を考えているのじゃ?

 本当にそれでいいのか?

 それが本当に気持ちよくて、幸せだというのか?

 他人から強制的に与えられ続けられる快楽などは、奪われるのよりも辛いのじゃぞ?


「リリィちゃん、逃げねえとマズい」


 フランツは強引にリリィの身体を抱える。

 そのまま【加速】して森を駆け抜ける。

 フランツは考えた。

 俺らじゃ勝てねえ。

 だけどベルヌ様なら。

 他の皆と力を合わせれば、まだなんとかなるかもしれねえ。

 このまま走り続ければ、もうちょっとで合流地点まで行ける。


「だぁめ」


「な!? ……ごぁっ!?」


 背後から、ミカエラの声がした。

 【最大回復魔法リザレクション手刀スライス】。

 フランツの大きな身体はおもちゃを放り投げるように宙を舞った。

 背中を鋭利な剣による斬撃かのような衝撃を受け、残機が減る。

 パッカリと開いた傷は簡単に命へと届いていた。

 また、死んじまった。くそっ。

 するりとリリィの感覚が腕から抜けてしまう。

 フランツは歯を食いしばる。

 駄目だ。

 俺と違って、リリィちゃんは死んだらそれで終わりなんだから。

 絶対に守らないと。

 ベルヌ様がいねえなら、俺が絶対に守らねえと。

 湯水のように命が消えていく。

 ベルヌ様と約束した命が飛ばされていっちまう。


 くるりと受身をとったリリィは追ってきたミカエラに対峙し、宇宙の銀河を散らしたような瞳を突きつける。



「――【石化の瞳】じゃ!」


「【最大回復魔法リザレクション障壁バリア】。薄い膜を張ればそんな目怖くありません」


「……恐ろしい女じゃな。もう私様の眼が効かんか」


「愛は無敵です」


 ミカエラは体表からすこしだけ離した部分をリザレクションで覆い、リリィの石化効果を防いでいる。

 反則めいた能力に加え、異常な戦闘センス。

 ――違う。

 リリィはやんわりと理解する。

 あの女は戦っているんじゃない。

 自分の中ではひたむきに愛しているだけなんだ。

 だから普通ならば耐えられず、できないことを平気でこなしてみせる。

 リリィは木の葉を纏い、魔法を発動する。


「――【森林隠遁フォレストヴィジョン】……」


「森に隠れる魔法ですか。無駄です。匂いでわかりますから」


 ガシリとリリィはミカエラに腕をとられる。

 しかし、それは木の棒であった。


「油断したな。それは囮じゃ。お主を噛むのは嫌じゃが、食人鬼になるがいい」


「……っつ!?」


 いきなり現れたリリィはミカエラの首筋を思いっきり噛んだ。

 これで魔力を持つ人間は必ず食人鬼に変貌する。

 意思は残らず、さまようだけのモンスターへと変わり果ててしまうのだ。

 リリィは必死に牙をたてる。

 ベルヌ様がいないのなら、私様がなんとかせねば。

 フランツの命をこれ以上使わせるわけにはいかないのじゃ。


「くすぐったいですよ」


「な……か、噛んでいるのじゃぞ!? 何故変化せん? お主、どうして食人鬼に変化せんのじゃ!!」


 ミカエラは微笑みながら、トントンと自らの首筋を指してみせる。

 リリィが噛み付いていた場所は淡く光り輝いていた。


「【最大回復魔法リザレクション部分装甲プロテクト】です。細胞を活性化させ、あなたの牙を弾きました」


「馬鹿な……そんなのありえないのじゃ」


「あれあれ、この白いローブから、かすかにベルくんの匂いがしますね? うーん……ベルくぅん」


「くっ……が、ぎゃああぁぁぁっ」


 ――バキバキベキボキ。

 強引に抱き締められたリリィの四肢、骨が折れ砕け散った。

 ミカエラはローブの中身であるリリィのことなどお構いなしに白いローブをむさぼるように顔を押し付け、小さなリリィの身体はもみくちゃにされるように破壊される。

 子供が虫の四肢をもぐより残酷に、リリィが壊されていく。

 小さなエルフの身体は簡単にミカエラの虜へと変わり、ぬいぐるみのように乱暴に扱われた。


 背中の傷が修復され、意識を取り戻したフランツは必死に叫ぶ。


「てめえ離せこらああぁぁぁぁぁ!! リリィから離れろってんだこの野郎!!」


「――ウゥゥ!」


 剣聖ミケが間に入り、邪魔をしていた。

 身体中から剣を突き出した彼女は、これから主人が楽しむのを邪魔させまいとしているかのようであった。

 まるでハリネズミ。剣山のようになったエマの身体は、剣というよりは地獄の針山を連想させる代物であった。

 無駄の極みのようなシルエットからは、一寸の隙もない剣士の気迫が放たれる。フランツは先に進めない。

 

「どけよ!! リリィがやべえんだよ。てめえにかまってる暇はねえんだよ!!」


「ウウウウゥ」


 ――ガギン!


 フランツの短剣を、口から飛び出した剣でいとも簡単に防いでみせるエマ。

 そして流れるように身体から飛び出す複数の剣による斬撃をフランツに加える。


 ――ザザザン!


 一度に五つほどの剣より致命傷を受けたフランツは、それによりまた命を散らした。

 賭け事で減る金のように磨り減る命は、いつの間にか50を切っていた。

 剣を体内に仕込むだと?

 自分を痛めつけて、殺してまでてめえは何に縋るつもりなんだよっ?

 たったひとつの命を弄ばれて、それでお前はいいのかよ?

 ――つええ。

 だけどよ、負けらんねえんだわ。

 ここで止まってるわけにはいかねえんだわ。

 リリィちゃんが捕まってんだよ、危ねえ女によ!!

 どけよ、邪魔すんな。

 

「来るなっ!!」


 リリィは叫んだ。

 決死の叫びだった。

 四肢を折られ、身体はあちこちが軋んで使い物にならない。

 吸血鬼とエルフのハーフである強靭な肉体を、砂糖菓子のように破壊するこの聖女ミカエラ

 私様はこのまま捕まっておればいい。そうすればこいつの注意はこちらに向いておる。

 伝えるべきは、この女の危険性。

 そして黒幕の存在。

 フランツだけなら、命の加速能力で逃げられるかもしれない。

 リリィは必死に牙を剥き、爪をミカエラの顔に立てようとする。


「うふ」


 涼しい顔で避けるミカエラの金色の髪を掠ったのみであった。

 ぐりぐりと万力のように締め上げるミカエラの力により肋骨を折られ、血を吐いた。

 肺に突き刺さる肋骨により、リリィの意識に激しい痛みが突き抜けていく。

 こんなものでは済まさない。

 目の前の聖母の微笑みがそう語っていた。

 リリィは【魔蝶】をありったけ召還、発動する。

 苦肉の策だ。

 手に入れた書簡をベルヌの元へと飛ばすためだ。

 二つの書簡を隠し持った大量の蝶が、リリィの身体から放たれた。


「……フランツ。逃げるのじゃ!!」


「うわぁ汚いちょうちょ。ベルくんに何か飛ばすつもりですか? 駄目です。盾騎士タマ! ふたつほど書簡を持つ蝶がいるみたいなので、それを捕まえてきなさい」


「……リョウカイシマシタッス」

   

 獣のような四つんばいのうごきで、かつてヨランダだったモノは蝶を追跡していった。

 満足そうにその様子を眺めていたミカエラは、リリィの胸倉を掴んで顔に引き寄せる。

 か弱い呼吸。このまま放置すれば長くないことがわかる。

 リリィが着るアリスの白いローブは、吐いた血で赤く染まっていた。


「さて、どんなのがいいです? 快感、激痛、かゆみ、熱さ、息苦しさ……色々選べるのが素敵なところなんですけれど、たくさんあると迷っちゃいますよね。お買い物のときとかも、わたしいっつもそうなんですよ。ベルくんを困らせちゃうんですね、時間をかけちゃって」


「どれも嫌じゃな。お主は地獄に墜ちろ」


「あ、いい解決法が見つかりました。全部買っちゃえばいいんだ。今度からそうしましょうかね……【最大回復魔法リザレクション手術オペ】」


「が……っ、ぎゃああぁぁぁっ、ああぁぁぁぁぁぁっ。ぐぅうぅぅぅぅぅぅ……」


 白のローブの腹が引き裂かれ、ミカエラの右手がゆっくりと挿入される。

 すると、ボコリとリリィの下腹が蠢いた。内臓を弄っているのか!?

 リリィの身体がぶるぶると震え、ミカエラは満足げに頬を染め微笑んだ。

 か細いが、おぞましいような悲鳴がきこえる。

 フランツはいまだエマと剣をかさねつつ、地獄のような時間を過ごす。

 そっちに行きてえ。邪魔だ剣の女!

 リリィは泣き叫んでいる。

 それでも、唇を噛んでギリギリで我慢しているようにも思える。

 必死に耐えているのだろうか?

 もうやめてやってくれ。これまで耐えてきたんだよ。

 耐えて耐えて、やっと助けてもらったんだよ。

 リリィの身体が壊されていく。

 血が飛び散り、体液が流れ出て、意識が解放される。

 あんなにさけんでいる。

 悲鳴をあげている。

 気丈なリリィが、あんなにも。

 仲間が苦しめられている。

 試験管から生まれたような、こんな俺を仲間だといってくれた女の子。

 人間扱いされなかった、番号で呼ばれていた俺のことを。

 つらいことばかりを経験してきた、小さないのちがまた弄ばれる。

 どうして。

 

 ――ドウシテウマレテキタノ。


 壊されて、治されて、また壊されてしまう。

 大事な仲間が死んでしまう。

 フランツはそれをすこし離れたところから見ている。

 見ているしかできない。

 届かない。

 剣を体現したような、かわいそうな女が俺を邪魔してくる。

 頼むからどいてくれよ、頼むから。

 どうしても目の前のこいつを倒さないと、あそこまでたどり着けない。

 


 ――人がいた気がした。助けに来た。



「ベルヌ様……ありがとうございました。全部、使います」



 【最大加速フルスロットル】――――――。






 リリィの意識は明滅していた。

 激しい痛みと快楽の繰り返し。

 ねっとりと繰り返される精神をえぐり壊す攻撃がミカエラの腕から流れてきている。

 リリィは思う。

 それでもなんとか耐えているのは、経験の差かのう。


 そろそろフランツは逃げたころじゃろうか。

 貸しじゃよアリス。

 ローブのことはなにをされても、絶対に口を割らんからの。こいつは異常じゃ。


 苦しみの中だと時間が経つのが遅く感じるのが本当に嫌じゃ。

 ミカエラから向けられているのは、純粋かつ増幅された愛の裏返し。

 どこまで突き詰めれば、ここまで人を辞められるのじゃろうか。


 ――俺を殺してくれないか?


 嫌じゃよ。

 殺さんし。

 私様が殺したい人間は皆、お前さんがやっつけてくれたんだからのう。

 

「うらぁあああああああああ!!! 邪魔だどけぇええ!!」


 お、おい。

 なにやってるんじゃ、フランツ。

 逃げろと言ったのに、私様のために命を使ってしまったのか?

 嬉しいのう。

 うれしいのう。

 もうちょっと、優しくしてやるべきじゃったかのう。

 はっきり言って、けっこう好きじゃったよ。

 力は殆ど残っておらんのじゃが、あとすこし。

 あとすこしだけ……。


 超高速で剣撃を交わしていたフランツとエマであったが、突如としてエマの身体にふらつきが生じる。

 身体の一部、足の一本が石化していた。

 ミカエラに拷問されているリリィが力を振り絞って【石化の瞳】を使ったのだ。

 エマはそれでも恐ろしい勢いで身体から剣を生み出す。そして全ての剣は剣聖のスキル【剣閃】により鉄を両断する威力と音を超えるまでの速度をもつ。


「――うるせぇぇぇぇぇええええええ!!!」


 【最高加速】により、フランツの身体は分解を始める。

 命が魔素へと変化し天へと昇り、身体の節々から煙があがり、痛みを凌駕し血液は沸騰した。

 短剣を振る速度は音速を超え、次第にエマの武器を破壊しはじめる。


「ゥウゥウ!?」


 ――10


 ――8


 ――5


 ――3


 ――1


 ――ザシュ!


 ギリギリで届いたフランツの刃は、エマの胸を真っ直ぐに突き刺した。


「――あ……オネ、ガイ」


 エマが言葉を発したかはフランツには分からなかった。

 残った命で、エマの身体を塵になるまで粉々に切り裂いたからだ。

 剣になった女は、雨と風に紛れて消えていった。

 フランツはそのままミカエラに対して肉薄する。


「お……らぁ!!」


「あらまあ、ミケを倒してしまわれたのですね。まあいいでしょう。【最大回復魔法リザレクション手刀スライス】。これで残機0です」


 ――ザシュ。


 やっとリリィの元にたどりついたってのに。

 フランツはミカエラに胸を貫かれて息絶えた。

 速度を上げすぎた身体は燃えつき、炭化を始めている。

 リリィの眼前まで伸びた手は、パラパラと崩れ落ち消え去った。


 リリィはそっと声にならない声で、フランツに呼びかけた。





(ありがとうフランツよ。ゆっくりねむるといい)

 

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