第27話 聖母降臨

 裸のクロードは、四つんばいになりながらミカエラをママと呼んだ。

 その場が凍りつく。

 あまりの異常さに、ヨランダとエマは様子を伺うことしかできないでいる。

 クロードの言葉にすこしだけ眉をひそめたミカエラは、神々しい微笑みを浮かべながら、細く美しい足を振り上げた。


「こらこら、駄目じゃない。犬のように鳴きなさいと言ったばかりだよ?」


 ゲシッ!!

 ミカエラの足がクロードの臀部にめり込んだ。

 苦しそうにうめき声をあげたクロードは四つんばいのまま涎を垂らす。


「うぅぐ……ワン!」


「わん? それじゃ名前がわからないでしょう? まったく、これだからクロード勇者ポチは物覚えがわるくてこまるわ。ちゃんと自己紹介しなさい?」


「……はい、僕はポチです」


「こらこら。違うでしょう? 人間の言葉を使うなと言ったばかりなのに、どうしてお話ししてしまうのかしら? 愛のムチが必要なの?」


 ゲシ!! ゲシ!! ゲシ!! ゲシ!!

 一体なにが起きているんだ。

 ヨランダとエマが現実を理解するまで、かなりの時間を要した。

 いや、理解はできなかったが、クロードがミカエラに足蹴にされている。

 それは二人には我慢ならないことであった。


「ミカエラ、一体なにをしてるっすか?」


「……クロード様から離れろ」


 ヨランダは巨大な二つの盾を構え、エマに至っては帝国の国宝と呼ばれる剣聖専用ブリュンヒルドの剣を抜いた。

 事態の異常性を察知したからだ。

 これまでクロードがあんな態度をとったことがない。

 ミカエラが何かしたに違いなかった。


「ヨランダとエマも、私が【愛】してあげるからね。だって愛は無限大だから、いくらあげても問題ないの。【絶望】なんて簡単に解消されちゃうでしょう? 死んじゃえば終わり。でも、愛は死んでも続くもの……」


「いったい何を言ってるっすか? 全くわけがわからないっすよ?」


「不気味だ。距離をとれヨランダ」


 家畜のようにミカエラの足元に傅くクロードの姿を気にしながら、ヨランダとエマはじりと後ずさる。

 ミカエラはジャラジャラと鎖のようなものを取り出し、クロードの首に巻きつけた。

 まるで首輪のようであった。

 クロードを引き摺るミカエラは、天使のような微笑を浮かべる。


「どうして離れるの? 近くに来て一緒になろうよ。私、みんなともっと仲良くなりたい」


「クロード様!! 聖剣はどうしたっすか!?」


 ヨランダは焦った顔で地を這うクロードに尋ねる。

 こんな無礼を許すなんて考えられない。

 聖剣の力があれば、相手の感覚を絶望に染め上げることができる。

 時空さえ歪ませるほどの力を持つはずのあの剣は一体どうしたんだ。


「ああ、これのこと?」


 ミカエラが持ち出したのは、クロードの聖剣。

 黄金の装飾がされた、ベルを打ちのめした最強の剣だ。


「ほら、クロード。返そうか?」


 ――カラン。

 クロードの目の前に聖剣が投げ捨てられた。

 しかしクロードはその剣に見向きもしない。

 餌を待つ家畜のように、ミカエラの顔色をうかがうばかりだ。

 ミカエラは上気し、ねっとりとした嗤いを浮かべる。


「あはははは。かわいそう。使い物にならなくなっちゃったの? ベル君の記憶を私の快楽で焼ききったから、クロードの絶望が上書きされちゃったの? それじゃ無能だねクロードは。男としてもうダメになっちゃったね。あ、よかったかぁ。だって、女の子になりたかったんでしょ?」


「……ワン!」


「よしよし。今度は【愛】で働こうね。そのほうが幸せだもんね。この使い物にならない剣はちゃんと取っておくんだよ? ポチになった記念にずーっとぶらさげておくんだよ?」


 ――ダッ!

 ヨランダが走り出していた。

 クロードをこれ以上馬鹿にされるのは許せない。

 乱暴にされたり、罰を与えられていたにも関わらず、ヨランダはクロードが好きだった。

 だからこれまで、不安定な勇者パーティについてきたのだ。

 それはエマもきっと同じだ。

 ミカエラに攻撃手段はない。ヨランダも厳密に言えば同じだが、体躯が違う。

 それに孤児院仕込の体術があり、あんな華奢な女など数秒で壊せる。

 盾ごとぶちかますつもりで、ヨランダは豪腕を振るった。


「――【最大回復魔法リザレクション手刀スライス】」


「…………かはっ!?」


 気がついたら。

 ――盾が真っ二つになっていた。

 そして、腹に細い腕がめり込んでいる。

 ミカエラの右手が、ヨランダの横腹あたりに不自然な形で入り込んでいた。


「あ…………あっ、あ……れ?」


 いつまでもやってこない痛み。

 くちゅくちゅと腹の中で指が蠢いているが、痛みは感じない。

 むしろ、心地よさすら感じてくる。

 だんだん、くすぐったさが勝ってくる。

 腰を捩って逃げようとするも、内臓を掴まれているのか全く動けない。

 しびれるような甘い疼痛がじわりと響き渡る。


「ヨランダって、おなかの中……まっくろだよね」


「あっいっぐ……っ。い、いったい何を言ってるっすか……これは、どういうっ。状態なんすかっ。や、やめて欲しいっす」


「孤児院のため頑張るって言ってたけど、本当は強い男と結婚したかっただけ……そう魔力の嘘発見器は言ってくれてるけど?」


「そ、そんなの嘘っす。どうしてそんな事わかるっすか」


「愛の前に隠し事は不可能だよヨランダぁ。しかも、子供さえつくればこっちのもの……って考えてた?」


「い、いや……うそっす。やめてっ」


 ――シッ!!

 ミカエラの背後から斬撃が迫る。

 エマが接近していた。


「……危ないとは思っていた。もう殺す」


 エマが背後からミカエラの細い首筋を狙う。

 【剣閃】。殺す気で放つブリュンヒルドの剣は、もう止められない。

 人間の反応速度を超えたスピードで、ミカエラの首の皮膚すれすれまで迫り。


 ――ピッ。


 ミカエラの左腕が、あらぬ方向に曲がっていた。

 いったい、骨と関節はどうなって――?

 そして大剣――ブリュンヒルドを細っこい親指と人差し指につままれ、全く動かすことができない。


「う動かんだと!?」


 押す事も引くこともできず、エマは驚きを顔に貼り付けるしかなかった。

 ミカエラはエマの方を振り向きすらしない。


「【最大回復魔法リザレクション自動防御インターセプト】。エマはさ、もっと単純だよね。はっきり言って、戦いたくないんでしょ? ホントは剣なんか握りたくない。だからごはんの時は髪を下ろしたりして、女アピールに余念がない。そうやって、悲劇のヒロインの私をいつか誰かがわかってくれるって思ってるんでしょ? 王子様が救い出してくれるって」


「くっ……離せミカエラ。化け物め。可哀想だと思って放置していたのがいけなかった。さっさとなんらかの手を下しておけば、こんなことには」


「頭の中がお花畑だから、そうやって真面目そうな言葉を喋るんだよね? 今だって、どうしてこんなことに、自分は悪くないのに。って顔してるもんね? 実家に帰ると豚みたいな貴族の婚約相手がいるから、それから逃げさせてくれるクロード様は王子様だもんね?」

 

「私……は、剣聖に選ばれたから、だからここにいるっ!! 誇りのためだっ」


「ふーん」 

 

 クン。と指に力を入れるミカエラ。

 ブリュンヒルドの剣は、何の抵抗もなく。


「ごめーん。誇り、折っちゃった!」


 ――バリン!!

 決して折れない絶対硬度と呼ばれるブリュンヒルドの剣が、薄く張った氷を砕くかのように砕け散った。

 口をあけて放心してしまったエマは、女の子座りをして呆けた顔をしている。

 ちょろちょろと粗相をしていることから、エマの精神への衝撃は計り知れない。

 国宝を失ったこと、剣士としての恥、自己の否定、存在意義の消滅。

 つきつけられたのは、くだらぬ子爵令嬢という立場の女だったという事実。

 決して誰の特別でもなかったという現実。

 ミカエラに釘付けにされながらも、ヨランダは叫ぶ。


「しっかりするっすエマっち!! くそっ……離せこの化け物! ミカエラ、あんたどうかしてるぞ? クロっちとエマっちにこんなことをするなんて、あんたは一体何を考えてるんすか!」


「どうかしてる? それはあなたたちだよ。でも、おかげで目が覚めました。せっかくベル君が頑張ってるのに、あなたたち愚かな人間は勇者パーティの中ですら仲良くできないでいる。だから、私は考えたの。ベル君が最高に輝けるように、もっと世界を【愛】で満たすべきだと。だから行くんですよ。愛の逃避行に」


「頭がイカレてるっす。離せっ!! クロっちを返してもらうっす。そしたらあんたはもう勇者パーティやめてもらうっす」


「……わかってないなぁ」


 ミカエラは、ヨランダの腹の中で手を動かした。

 ずぶりミカエラの腕を飲み込んでいくヨランダの腹が、ボコボコと蠢き始める。

 思わず仰け反るヨランダ。恐ろしい感覚が襲う。感じたことの無いような快感。

 今までの全てを塗り替えられるような、ぞっとするような旋律。


「【最大回復魔法リザレクション手術オペ】。ヨランダはそうだな、愛の獣にしてあげますね。孤児院生まれなので、ご飯にがめつい女の子という設定ではどうでしょうか? 可愛いですね。きっと孤児院の子たちも喜びますよ。綺麗に生まれ変わったヨランダの姿にね」


「いや……嘘でしょミカエラ。ああっ、これ、なに? ちょっと、やばっ。やばいっす。たえられっ。ないっす……お願い、子供たち、が、待ってる、から、たすけ。命だけは……ああぁぁ。んっ……はぁっ。うあああぁぁあ……」


「落ちるのはやーい。まあ、ヨランダだから仕方ないか」


「いままでのことあやまるっす。あやまりますからぁ!! あはぁっ……あぉぉ? んぎぁおおおぉぉぉぉぉぉぉ!?」


 ミカエラがくちゅくちゅと手を動かすと、骨が折れる音、皮膚が裂ける音、体液が弾ける音が部屋中に響き渡った。

 にもかかわらず、ヨランダの口からは獣のような嬌声が叫ばれ続け、それは音がやむまで続いた。


「…………はっ、はっ、はっ……」


 その様子を真近で見ていたエマは、涙を鼻水を垂れ流し、呼吸が荒くなり息が出来なくなる。

 立ち上がることもできず、ヨランダの嬌声の様を見とどけ、聞き届けていた。

 ミカエラがヨランダから手を引き抜くと、淡く光るその指先をペロリと舐める。


「やっぱりエマはそういう女だね。今、逃げようと思えば逃げれたでしょ?」


「はっ、はっ、はっ……んっ……は」


「ヨランダのアレで興奮してるんだぁ? まるで洪水みたいにして変態さんだね。大丈夫、エマも同じにしてあげるから」


「ふうぅっ…………ん」


 エマは自分が笑っていると、やっとその時に気がついた。

 ミカエラが近づくにつれ、それだけで喜びを感じ達しようとしている自分がいることにも。

 そうか、自分はそういう女だったのか。

 エマはそのときはじめて全てを受け入れられる気がした。

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