あーあ、

 朝起きて、隣を見る。そこに居るはずの男は居ない。あの人の体温はもう残っていない。こういう時、なんだかちょっと泣きそうになって、だけど何故だか、好きだなあ、と思う。悔しい。あーあ、なんで恋なんてしてるんだろう。

 体を重ねた翌朝、あの人は大抵ベランダに居る。目的は十中八九喫煙。俺は重い体を起こし、ベッドから出る。床に放り捨てていたシャツを掴む。寒い。あの人がまだベッドの中に居てくれたなら、俺もそのまま暖かい毛布にくるまっていられただろうに。

 寝室を後にして、裸足でぺたぺたと床を踏む。冷たい。これだから冬は嫌いだ。

 あいつが死んだ季節の足音が聞こえてくるような気がするから、嫌いだ。

 リビングに入って、まず真っ先に暖房をつける。きっと寒いだろうに、夏目さんは面倒臭がってリモコンの操作すらしようとしない。


「……夏目さん」


 ベランダに続く扉を開ける。冷たい風が一気に吹き込んでくる。外に出て、これ以上冷え付いた空気が部屋に入らないようすぐに扉を閉める。

 夏目さんは予想通り、柵に体重を預けて煙草を吸っていた。風に乗って煙が届き、目に沁みる。ああ、くそ。振り返りすらしない夏目さんに腹が立って、後ろからぎゅっと抱き締める。煙を吐き出すついでみたいに「おはよ」と夏目さんが言うから、返事の代わりに、抱き締める腕に力を込めた。


「ご近所さんに見られるぞ」

「夏目さんはずっと家の中に居るんだから、近所の人とほとんど会わないでしょう。別に良いじゃないですか」

「ばーか、俺じゃなくてお前が困るだろうが」

「困らない。むしろ夏目さんは俺のものだって知らしめたい」


 お前のじゃねぇよ、となんの感情もこもっていない声で吐き捨てて、夏目さんはまた煙草に口を付けた。知ってる。貴方はいつまで経ってもあいつのものだ。

 夏目さんの肩に顔を埋める。誰に見られたって良い。そんなの構わないから、出来るだけ彼に触れていたい。一ミリでも彼の近くに居たい。


「お前、良くそれやるよな」


 マーキングみたいなものだ。自分のだと主張したいから臭いを付けようとする動物と同じ。意味がないことなんて分かっていてもそうしてしまう。俺のものだ、誰も触れるな。

 だけど未だに、夏目さんからは幸春の匂いがするような気がする。

 灰皿代わりの水を溜めた空き缶に吸い殻を放り入れ、夏目さんは新しい煙草に火をつける。何本目? と訊いたら、四本目、と言われたから、おそらくこの人は早死にすると思う。こんなに寒い場所に何分居るつもりなんだろう。さっさと暖かい場所に戻れば良いのに。……きっと、この人にとって暖かい場所はあの春の隣だけなのだろう。


「時々、怖くなるんです」


 顔を上げ、柵の向こう側を見る。空を、町を、それから地面を。そこそこ高い。ここから落ちたらただでは済まないだろう。


「貴方がいつか、ここから飛び降りてしまうんじゃないかって気分になる」


 深く煙を吐いてから、へぇ、とどこか小馬鹿にするように夏目さんは笑った。この人の話をしているはずなのに、他人事のようだった。

 この人より先に死ぬのはやめよう。だって俺が死んだら、こうして抱き締める人間が居なくなったら、夏目さんは多分、いや間違いなく、自分も死を選んでしまう。幸春が居なくなった世界に居座ってくれているのだって、奇跡みたいなことなのだ。 

 そして、この人が死んだら俺も死のう。この人の居なくなった世界に居座る意味などないから。


「あーあ、死にてぇなあ」


 夏目さんの呟きは、白くなって溶けていった。

 俺は夏目さんが四本目の吸殻を空き缶に入れたのを見計らって、彼の手を引いた。五本目を取り出そうとしていた夏目さんは煙草の箱をポケットに戻し、「何泣いてんだよ」と俺の背中で笑った。泣いてはいなかった。泣きそうなだけだった。

 早く一緒に、暖かい部屋の中に戻りたかった。

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亡霊には勝てない 凜逢 @ReiZerohakutyumu

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