(6)
「ひどい!」
結論から言うとヴァルデマーは起きた。
「ひどくない」
「ひどいよ! ちょっとは期待したのに……」
「なにを?」
そう言ったものの、メルリリーはヴァルデマーがなにを期待していたのかはわかっていた。
……というか、窓がちょうどよく開いていたり、意味ありげにベッドルームの扉が開いていた時点でメルリリーは薄々察していた。
ヴァルデマーは手で顔を覆ってさめざめと泣くマネをしている。演技派俳優にしてはお粗末なものだったので、メルリリーの心は動かせなかったが。
「で、どういうこと?」
「どういうことって?」
「とぼけないでよ。知ってたんでしょう。それで、わかってたんでしょう」
じとっと不信の目で見るメルリリーに、ヴァルデマーは顔から手のひらを離して、ひらひらと揺らした。
「……だってさ」
「言い訳じゃないよね?」
「言い訳くらいさせてよ。……だってさ、正直マンネリ化してたでしょ? 僕らって」
「……そうかもね」
「倦怠期? ってやつ? とにかく僕らには刺激が足りなかった」
「だから?」
「だから――うん、まあ、わかっているよね?」
メルリリーは大きなため息をついた。ヴァルデマーは口調とは裏腹に、反省している様子は微塵もない。
要は彼はマレレーンの尻馬に乗っかったのだ。メルリリーとの生活がマンネリ化しているからという、理由で。恐らく例の「委任状」とやらは偽造だろうが……。
「わたしたちって恋人同士?」
「聞くまでもないと思うけど」
「だって、勘違いかもしれないから」
「メルリリーが弱気になるなんて珍しい。そんなこと、いちいち確認するなんて面倒くさいタイプだと思ってた」
「……あなたがそうさせるのよ」
「うれしいことを言ってくれるね」
それからヴァルデマーはベッドから身を乗り出してメルリリーを優しく抱擁した。
メルリリーは乱暴にヴァルデマーの腕を引き剥がすと、また改めて彼の前に向き直る。
いつのまにか外は静かになっている。チョコレート・ブラウンの空は今やミルクチョコレートくらいの色になって、飴は空から地上への突撃をやめていた。
「謝ることがあるとすれば最近イライラしていたことかな」
「……ああ、やっぱりそうだったのね」
「ごめんね。マレ? アレ? ナントカいうひとがあまりにもしつこくて」
「じゃあ、あれは妄言なのね?」
「そりゃそうだよ。それに僕、童貞だし。純潔主義だから」
「……ええ? 今、そういうこと言うの?」
呆れた様子でヴァルデマーを見るが、彼はけろりとしている。キス・シーンくらいは平然と演じられても、
「そう。相互理解が必要だと思って」
「そう。……そうね」
「僕は意外と身持ちが固いんだよ。知らなかった?」
「それくらい、知ってる。……でも性欲ってそういうものじゃないから」
「まあそうだけどね。心外だな~」
「そこは、まあ、……ごめんなさい」
こういうときに限って都合よく暴風は止まっていたので、ふたりのあいだに落ちた沈黙を埋めるものはなにもなかった。
「メルリリーはさ、まだ僕に言うことがあるよね」
「言うこと?」
「『天満ちて』の映画版のヒロインに選ばれたって、僕知らなかったよ」
「そりゃあ……まだ表に出ていないし」
『天満ちて』は一昨年のミステリ新人賞を受賞し、空前のベストセラーを記録した本格恋愛推理小説である。その映画化は受賞当初からうわさされており、事実版権を取得した大物監督の手で密かにオーディションやスクリーン・テストが重ねられていた。
映画化の発表は『天満ちて』の文庫版の発売と同時に電撃的に行う予定であり、それまでは緘口令が敷かれていたのであった。
「それがどうしたの?」
「オーディション受かったの?」
「ううん。オファーがあって。ヴァルデマーは忘れてるかもしれないけど『殺人者の心臓』っていう低予算映画を観て監督がオファーをくれたの。スクリーン・テストも何度か受けてて、結構感触も良くて――」
そこまでしゃべったところでメルリリーは関係ないことをしゃべりすぎたと我に返った。
「……それが、どうしたの?」
「……あのさ。これを聞いたら君は失望するかもしれない」
「なに、大げさな」
「だって僕はいつも君の前では格好良くしていたから」
「――えっ? あの出会いで?」
真剣そのものの眼差しに飲み込まれそうになったメルリリーだったが、すぐに現実的な考えが頭をよぎって、シリアスな空気は続かなかった。
メルリリーの言葉にヴァルデマーは眉根を寄せる。まるで、出会ったころのような顔にメルリリーはなつかしさを覚えた。
「ごめんなさい。でも、たしかにそうね。あなたはいつだって紳士的だった」
「いや、最初の出会いが情けなかったことくらい自覚してるさ。でも、思うにあれが僕の本当の姿なのかもね」
皮肉げな様子のヴァルデマーにメルリリーはちょっとあわてる。せっかく、天気が回復しつつあるというのに、ここで彼の機嫌を損ねてはまた世界の危機が訪れかねない。
「……それで、失望するかもしれない話って?」
「メルリリーはこれまでの人生で自分が変わってしまった瞬間に出会ったことはある? あるいは、他人が変わってしまった瞬間とか」
「それは、まあ、あるわね。自分はわからないけれども、他人なら」
「そのとき、君はどう思った?」
今もそうだが、メルリリーはプロダクションに所属しているマネージャーを、他のタレントと共有している。今はメルリリーと似たような名声の女優と共有しているが、プロダクションと契約した当初は違った。
彼女も女優だったが、メルリリーよりも一足早く三流女優の名を脱したのだ。テレビドラマのミニシリーズのヒロイン役が大当たりして、レッド・カーペットを歩くことになった彼女。まだ女優としての自覚に薄かったメルリリーは彼女を素直に祝福できた。
けれども彼女との交流は途絶えて、以後そのまま復活することもなく今に至っている。
おせっかいな同輩が、彼女が陰でメルリリーのことを「B級のビデオスルー作品がせいぜい」と言っていたことを教えてくれたが、メルリリーは怒ったりはしなかった。
ただ、いっしょにランチをしながら夢を語り合った日々が過去のものとなってしまったことだけを、少しだけ悲しく思うのだった。
「……悲しかったわ」
「僕もそうだよ。それで、二度は味わいたくないと思った。だって僕は心臓が引き裂かれそうな思いをしたからね」
それが彼の両親とかつてのマネージャーを指しているということはメルリリーにもわかった。
「あのね、ヴァルデマー」
「うん」
「……わたしは変われないなんて約束できないからね」
「……うん。わかってる。わかってる」
ヴァルデマーは怖いのだ。
今の時点では映画版『天満ちて』が成功する保障はない。しかし、メルリリーがヒロイン役にほぼ決まっているような状況で、彼は想像してしまったのだ。成功によってメルリリーが変わってしまうかもしれないということを。あるいは、メルリリーの周囲が変わってしまうかもしれないという可能性を含めて、彼は恐れたのだろう。
メルリリーが家庭に入ってしまえば、ヴァルデマーは安心するのかもしれない。なにも博打のような業界の荒波を掻き分けなくたって生きていく方法はいくらでもある。
けれども。
「わたし、演じるのが好きなの」
「うん、知ってる」
「『なんでこんな映画に?』とか言われることもあるけど、それは役を演じることが楽しいからなの」
「うん」
「……あと、下心もある。あなたと同じくらい有名になって、釣り合いが取れるようになりたいって言うのもある」
「別に、気にしなくていいのに」
「わたしが気にするの。いつか、あなたの隣に立ちたいから」
「……そっか」
ヴァルデマーはうつむいたままだ。メルリリーは、残念ながら彼が望むような言葉を与えられる女ではなかった。
「――でも、わたしがこれから仮に有名になったとしても、もう女優なんてやめてやるって思っても、ヴァルデマーの気持ちは変わらないと思う」
「そこはそう言っちゃうんだ」
「うん。――むしろ、あなたが惚れさせてよ。変わらないあなたが。……わたしが変わっても、ずっと惚れさせ続けて」
ヴァルデマーは困ったように
「すごいワガママだよ、それ」
「失望した?」
「ううん。むしろメルリリーらしいなあって。僕をこんなに振り回しておいて、それでいてこんなにキュートなのはメルリリーだけだよ」
ふたりは笑いあって、それから自然と頬を寄せあって、子供のような、たわむれのような、キスをした。
窓の外では花嵐が舞って、世界すべてにヴァルデマーの心を伝えていた。
プレインフィールド&マクウェザーのハッピーハッピーライフ やなぎ怜 @8nagi_0
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