(5)
そもそもヴァルデマーから直接聞いたわけではない。赤の他人であるマレレーンの言を頭から信じたわけではないが、勢いに飲まれて出て行ってしまった自覚はある。
ならば、帰宅してヴァルデマーからじかに問い質すのがまっとうなやりようというものであろう。
しかし――
「どうなってるの?」
呆然としたメルリリーのつぶやきは、荒々しい風にかき消された。
それはまさしく要塞だった。
飴の嵐を駆け抜けて――それらは奇跡的にメルリリーに当たりはしなかった――へいこらよいこらと自宅――今はそう仮称する――に舞い戻ったメルリリーを待ち受けていたのは、巨大な黒いシルエットと、それらを地上で取り囲む無数の報道陣だった。報道陣、といってもそれらのほとんどは有象無象のパパラッチではあったが、邪道にせよ正道にせよ、今のメルリリーにはハエのようにうっとうしい存在であることに違いはない。
「プレインフィールドさん!」
声をかけられて振り向けば、無数のフラッシュがまたたいてメルリリーは思わず顔をしかめそうになった。
撮影現場ではそれなりに度胸を買われているメルリリーも、まだこういったパパラッチへの対応には慣れていない。業界ファンでもない一般世間からすればメルリリーはみそっかすの女優だからだ。
それでも嫌な顔はせずに、むしろ挑戦的ににっこりと微笑んでやる。心のうちに思い描いたのはヴァルデマーの姿だった。彼は、どんなときでもカメラの前では嫌な顔はしない。演技をするときは別として。
「マクウェザーさんと破局したとの発表は本当ですか?!」
フラッシュがまたたく。感じるはずのない熱さを覚えて、メルリリーの笑顔が崩れそうになった。差し出されるICレコーダーの群れが、なんだかそういうお菓子のように思えてきて、メルリリーは今度は逆に奇妙な笑いをこぼしそうになった。
「ウソです」「本当よ」
声が重なって、メルリリーは振り向いた。
びょーうびょーう。遥か頭上では風を切る音が鳴り響き、降り注ぐ飴の一群がパパラッチのカメラをひとつ、粉砕した。
「マレレーンさん」
メルリリーはマレレーンを見た。美しいくびれを持つ絶世のモデルがそこにいた。
「あたしたちの愛の巣へようこそ」
睥睨するようにこちらを見やったマレレーンは、あからさまにモデルであることを誇示するような、気取った足取りでポーチの階段を下りてきた。さながら地上に光臨する、気高き女神のようであった。
フラッシュがまた連続する。
「愛の巣……」
「そうよ」
「……それ、正気で言っているんですか?」
どよっと報道陣が揺れる。「バトルだ!」。みんなの脳裏でありもしないゴングが鳴った。
マレレーンの見事な柳眉がぴくりとわななく。メルリリーは長い髪を風で乱しながらも、彼女への視線を外さなかった。女は度胸。レンズの前に立つメルリリーに怖いものはない。
「ヴァルデマーはどこにいるんですか?」
「ここにいるわよ」
「会わせてください」
「どうして?」
「聞きたいことがあるんです」
「ストーカーとして訴えられたいのかしら?」
報道陣は不自然なほどに沈黙して、固唾を呑んでふたりのやり取りを見守っている。先ほどまでのフラッシュの波はなくなり、しかしICレコーダーの群れはふたりに向かってまっすぐに向けられていた。
「この天気を見てもなにも思わないんですか?」
「天気?」
「ヴァルデマーは冗談抜きで世界が惚れている男なんですよ。だから、彼の機嫌で天気が左右される。……ねえ、あなたヴァルデマーになにしたの?」
マレレーンは目をまたたかせてメルリリーを見た。なにもわかっていない顔だ。すっとぼけているつもりもないらしい。メルリリーはため息をつきたくなった。
「ヴァルデマーに会わせてください。貴女の言っていることが本当なのか、彼の口から聞きたいから」
「そんな必要はないわよ」
「あります」
「無粋だと思わないの? あたしたちの愛の巣に足を踏み込もうだなんて」
「思わないわ。――通してちょうだい」
黒い要塞のシルエットを背負ったマレレーンへ、メルリリーは強い視線を飛ばした。けれどもマレレーンには痛くも痒くもない。みそっかす女優がいくらいきがったって、スーパーモデル様にはどうでもいいことなのだ。
ごんごんごごん。違法建築一〇〇パーセントといった風体の要塞に飴が当たって嫌な音を立てる。今の自宅はさながらラプンツェルが閉じ込められている塔のようなものであった。
「嫌よ」
マレレーンはにべもなく断ると、不意に右腕を上げてメルリリーに張り手をかまそうとした。
どよよっ。本格的な修羅場の勃発に、要塞を取り囲む報道陣のボルテージも上がる。
けれどもマレレーンの手はメルリリーの頬にかすりもしなかった。メルリリーはステップを踏むまでもなく、すっと体を前傾させ、難なくマレレーンの攻撃を避ける。
マレレーンの張り手がからぶると同時に、メルリリーの拳が彼女の薄い腹にめり込んだ。そこには手加減の欠片もない。
勝負は決まった。メルリリーの勝利だ。
おおーっ。報道陣のボルテージは最高潮。フラッシュがまたたいてメルリリーの背を照らす。
世界を救うにはやむをえなし。石畳に沈んだマレレーンを見やることもなく、メルリリーは要塞の中に入ろうとした。
「ん゛っ?!」
入れない。入れないのだ。
たしかにマレレーンは玄関ドアを通って出てきたはずだが……どうやらオートロック方式に変えてしまったらしい。この短時間で恐ろしいことである。
メルリリーは仕方がないので要塞の壁を登ることにした。幸いにもボルダリングのように掴む出っ張りには困らないのがこの要塞である。
ラプンツェルに出会うよりもずっと過酷な試練を課されたとは思うが、一度コレと決めたメルリリーに怖いものなどない。今までだってどんな演技も体当たりでこなしてきた。アクション映画のスタントのようなものだと思えば、なんだってできる気がした。
びょーうびょーう。暴風は吹き荒れて、油断すれば地上へまっさかさま。それでも降り注ぐ飴は奇跡的にメルリリーには当たらず、要塞の壁へ激突してそこをへこませるくらいだった。
ご丁寧に窓のひとつが開いている。メルリリーは窓枠に手をかけると、腕の筋肉で体を持ち上げて素早く部屋の中にすべり込んだ。
違法建築の城といった風に要塞化してしまっていて気がつかなかったが、どうやらこの部屋はヴァルデマーの私室のようだ。
「ヴァルデマー……?」
飴が入ってこないよう窓を閉めながら、暗く無駄に広い部屋の中に声を反響させる。
ヴァルデマーの私室はリビングとベッドルームにわかれている。リビングを隅から隅まで捜して見たものの、ヴァルデマーの痕跡は見つからなかった。
代わりといってはなんだが、ベッドルームの扉が不自然に開いている。
メルリリーは警戒を続けながら、ベッドルームのドアノブに手をかけた。
「ヴァルデマー? ねえ、どこにいるの?」
リビングルームよりもベッドルームはさらに暗かった。窓にかかっている遮光カーテンが閉まっているせいだ。
キングサイズのベッドを、目を凝らして見やれば、こんもりとしたふくらみが見て取れる。
メルリリーは忍び足でベッドサイドまで近づいて、ベッドを覗き込んだ。
ヴァルデマーがいた。
ベッドに横たわって、腹の辺りで手を組んで、まぶたを閉じている。まぶたを縁取るまつげは嫉妬するくらいに長くて、美しい影を目元に落としていた。
「ヴァルデマー?」
声をかけて、次に肩を揺さぶってみたが、彼が目覚める気配はない。
まさか御伽噺じゃあるまいし、キスでもしなければ目覚めないということもないだろう。どちらかと言えばマレレーンがなにかしたと言われたほうが納得が行く。
だからメルリリーは試しにヴァルデマーの筋の通った美しい鼻先をつまんだ。
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