(4)

 ヴァルデマーには愛想のかけらもなかった。パパラッチにすら見せる笑顔を、メルリリーに対しては惜しんでいるように見えた。


「デリくらい利用しないの?」

「自分で料理ができるに越したことはないだろう? それに、あんまり外に出たくないんだ」


 なるほど、とメルリリーは思った。


 食事のあいだ、ふたりは取り留めのない会話をした。


 その過程でヴァルデマーには生活能力というものが欠如していることにメルリリーは気づいた。いや、薄々感づいてはいた。だって扉から顔を出したヴァルデマーの肩越しに見えた彼の部屋は、清潔な彼のイメージとは程遠かったからだ。ああいうのを汚部屋というのだろうとメルリリーはひとり納得していた。


「プレインフィールド?」

「そう、メルリリー・プレインフィールド」

「プレインフィールド。恥を忍んで頼みがある。……僕に家事を教えてくれ」

「……教えて“ください”」

「……教えてください」


 メルリリーは言うのであれば、ヴァルデマーの母か姉になった気分であった。残念なことにひとりっ子である彼にはもはや頼れる肉親はいないのだが。


 そうして、ふたりのささやかな付き合いが始まった。


 はじめ、ヴァルデマーがメルリリーを利用していることは明らかだった。メルリリーもそれはよく理解していた。けれども、乗りかかった船だ。また彼が電子レンジをぶっ壊すような真似をしないように教育してやろう、くらいの気持ちでメルリリーはヴァルデマーとの交流に取りかかった。


 もちろんそこには下心なんてものはなかった。相手はスター俳優、こちらは三流以下の売れない女優。となればヴァルデマーに取り入って自分を売り込む道もあっただろうし、夢を叶えるためならばそれくらいのことはやってしかるべきだとも、メルリリーにはわかっていた。


 けれどもメルリリーはそうはしなかった。ひとつは実力で名を馳せたかったというちっぽけなプライドもあったし、なによりそういうことをヴァルデマーは嫌うだろうと思ったからだった。


 ヴァルデマーもメルリリーがそうするであろうリスクを飲んだ上であの頼みを持ちかけたのだろう。当初はやはりメルリリーに心を開く様子はなかった。ひどく事務的で、感謝の念はあっても心から素直にそれを表することはできないようだった。


 それがどうしたことだろう。ふたりは周囲の人間曰く、「あれだけイチャイチャイチャ(以下略)」するようになって、それでつい数時間前までは同じ屋根の下で暮らすようになっていたのである。


 シェアを持ちかけたのはヴァルデマーのほうからであったが、そのときにはもう彼のメルリリーに対する愛想のなさは消えていた。いつごろから自然な笑顔を見せて、甘えてくるようになったのかはどうしても思い出せない。


 とにかくふたりはいつの間にやら仲良くなって、ひとつ屋根の下で暮らしても不快に思わないような関係になっていたのだ。


 ごんごごんごん。


 びゅーおびゅーおお。


 飴が安ホテルの窓ガラスに当たり、暴風が空を駆け抜けていく音が響き渡る。チョコレート・ブラウンの空は今やカカオ八〇パーセントくらいの色をしている。


 ひと恋しさにつけているテレビからは緊急速報が流れて止まらない。「世紀の暴風雨」「観測史上最大の荒れ模様」「外出した場合の命の保障はできない」――。物騒な言葉が渦のように回っている。


 そしてその騒々しさと呼応するように、メルリリーのスマートフォンはバイブレーションを続けていた。ちゃくちゃくと積み重なっていく着信履歴のほとんどはヴァルデマーからだったのだが、今や恐ろしいほどに沈黙して、続くバイブレーションの第二波は友人たちからのものにバトンタッチしている。


「このままじゃ世界が滅びるわ」


 友人のひとりの言葉にメルリリーは「そんなまさか」と笑って返した。けれども友人はひどく真剣な様子で言う。


「わかってるでしょう? この世界にとってヴァルデマーがどういう存在なのか」

「世界が惚れている男だっていうのはわかってる」

「そしてその男が惚れているのはだれ? 『わからない』なんてカワイくもないぶりっ子のマネしたら、アタシ怒るわよ」


 ヴァルデマーは世界が惚れている男。この世界の天候は彼の機嫌ひとつにかかっている。


 そんなヴァルデマーが自分を好いていることくらい、メルリリーは知っている。知らないわけがない。だって、あんなにもずっとそばにいたのだから。


 けれども近頃のヴァルデマーはどこかイライラとしていて、メルリリーへの態度は雑だったように思う。倦怠期? 愛情が冷めた? ……だからマレレーンという新しい恋人を作った?


 メルリリーはヴァルデマーの愛情を疑ったことはなかったが、しかし近頃の彼の態度を鑑みると、やはり愛情が冷めてきているのではという疑念をぬぐえなかった。


 しかしそんなことを口にはできない。口にしてしまえばそれが事実となって返ってきそうな気がした。逆に、口にしなければメルリリーはずっとヴァルデマーの愛情を疑うことはない。


 ……そう考えていた自分に気づいて、その臆病さに彼女はため息をついた。


 らしくない。メルリリー・プレインフィールドは恐れ知らずの無名……いや、微名女優のはずだった。どんな役だろうと演じきってやるという気概にあふれた女優であった。


 それがことヴァルデマーが関わると、臆病な女に成り下がる。惚れた弱み、惚れたほうの負けとはよく言ったものである。


「大変です。要塞になってます」

「要塞?」


 らしくない。気合を入れて着信のひとつに出る。相手はヴァルデマーのマネージャーであった。ドル箱俳優のマネージャーにしては妙に腰の低い男は、泣きそうな声でメルリリーの名を呼んだ。


「とにかく、大変なんです。このままじゃあ世界が滅んでしまいます」

「その言葉、さっきも聞いたわ」

「とにかく、きてください」

「……外に出たら死なないかしら?」

「這ってでもきてください。世界が滅ぶよりはマシでしょう」


 びゅーおびゅーお。マネージャーのうしろでは暴風が吹き荒れている。


 ごん! 窓に飴が当たった。そのうち窓ガラスを突き破って、メルリリーの頭に落ちてきそうな勢いである。


「家の周りにはパパラッチがいるので気をつけてくださいね」

「こんな天気でもいるの……」

「おはようからおやすみまで芸能人を追いかけるのが彼らの仕事ですから」


 メルリリーは苦そうな色をしたチョコレート・ブラウンの空を窓越しに見上げる。


 どうも、行くしかないようだ。世界を救いに。


 メルリリーは気合を入れるために自分の頬を張った。

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