(3)

 おかしい。なにかがおかしい。メルリリーはひとまずの仮宿と定めた安ホテルの一室で頭を抱えていた。


 そのおかしさにメルリリーが気づき始めたのは、友人たちとの電話のやり取りをしてからであった。


 ある友人は言う。


「あんなにイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャしてたのに付き合ってなかった?! 毎度毎度全身彼氏コーデで?! 買ってもらった服に身を包んで? しかもちゃんと着ていかないと不機嫌になるって言ってなかった?!」


 またある友人は言う。


「あんなにイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャしてたのになにもない?! なにからなにまでペアグッズもりだくさんで?! おそろいにしないとヘソ曲げるって言ってなかった?! っていうかアンタらこれで恋人じゃなかったら世界中の恋人は恋人未満のナニカよ!」


 またある友人は言う。


「あんなにイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャしてたのに恋人じゃなかった?! ちょっとそれってどういうことよ?! 異性だろうが同性だろうが牽制がひどくってこっちが恥ずかしくなる……を通り越してウンザリするくらいなのに?! 番犬もかくやというばかりの警戒ぶりで恋人じゃないはないでしょ?!」


 またある友人は言う。


「あんなにイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャしてたのに勘違いだった?! 恋人じゃない?! ウソでしょ?! ウソだったら地球がひっくり返るわよ! ここ数年の天気ったら穏やかかつ、のどかかつ、晴れ晴れとしていて、それでいて浮かれたような陽気じゃないっ! これってアンタと付き合ってからの話よ?! それにときどき喜びの花嵐。こんな天気なのにアイツにその気がなかったなんてウソでしょ?!」


 おかしい。おかしいのである。友人たちに言われたことはすべてまごうことなき事実であった。そしてそれらの事実から導き出される答えは、メルリリーとヴァルデマーはやはり恋人だったのではないか? という疑念である。


 しかしマレレーンという第三者いわくメルリリーのそれは「勘違い」であるらしいのだ。


 たしかに、である。ヴァルデマーは今をときめくスター。子役時代から第一線で活躍しているベテラン俳優。そのかんばせは月が恥じ入るほどであることに異論を差し挟む者はいないだろう。


 顔だけではない。顔だけであれば彼はとっくに忘れ去られた過去の子役スターだっただろう。まさに七変化とも呼べる演技の幅の広さにも定評があり、脇役として出演しても見るものに鮮烈な印象を残す、稀有な俳優なのだ。


 ふたりが出会ったのはプロダクションが運営している寮で偶然にも隣室となったことがきっかけだった。


 その当時のヴァルデマーは人間不信がひどかった。当時はまだ子役ながら莫大な財産を築いていたヴァルデマーが手にした、これまた莫大なギャランティーをマネージャーが使い込んでいたことが発覚。さらには母親とマネージャーの不倫がすっぱ抜かれ、ヴァルデマーの父親との泥沼の法廷闘争にもつれ込んだ。


 ふたりの目当てはヴァルデマーの親権であったが、そこに彼が生み出した金に目がくらまなかったのかと問われれば、それは否とは言えないだろう。ヴァルデマー自身はすでに十代も半ば。それがわからないような年齢ではなかった。


 そこからは泥沼の修羅場である。父親と母親の裁判にヴァルデマーが加わり三つ巴の法廷闘争が繰り広げられ、最終的にヴァルデマーの財産は彼のものとなり、特例的に成人としての権利が認められることとなった。


 この裁判がヴァルデマーの心に残した爪あとは大きく、結果として彼は人間不信となった。だから当初は隣人付き合いなどなきに等しかったのである。


 ではなぜそんなヴァルデマーと仲良くなったかと言えば、それはひとえに彼の生活能力が惨憺たるものだったからだ。


 メルリリーは会うたびにヴァルデマーがやつれていっているような気がしてはいた。ヴァルデマーの周囲も彼を助けようとしたらしいが、当時信じていたものに裏切られ、満身創痍の彼は頑なだった。


 ひとりでもやっていける。それを証明しなければならない。


 そんな固定観念に支配されていたのである。


 壁が爆発した。メルリリーははじめ、そう思った。けれどもすぐに壁は爆発などしていなかったことに気づいた。


 爆音が響いたのは右隣、今をときめく――良い意味でも悪い意味でも――超有名俳優のヴァルデマー・マクウェザーの部屋からだ。


 メルリリーは悩んだ。彼が人嫌いのケがあることはなんとはなしにわかっていたし、メルリリーのマネージャーからもチラチラと彼のうわさを聞いていた。だからこそ彼女はヴァルデマーと深く係わり合いになることなく、あえてそっとしておいていた。


 ――そもそも、顔見知りというだけの関係だし。


 けれども先ほどの爆発音が気になる。はっきり言って心配だ。まさか、隣の部屋で死んでいるわけではなかろうが――。


 メルリリーは迷った末にインターフォンを押した。ブーッと古臭い音が扉の向こうで響き渡っているのが聞こえた。


 待ったのはどれくらいだろうか? 一分、いや、三分? とにかく彼女は待った。その待ち時間は永遠のように思えて、やっぱり息絶えているのではなかろうかとの疑念が頭をよぎったころ、とうとうその古く薄汚れた扉が開いた。


「あの、プレインフィールドです。隣の」


 言い訳のような響きを伴った声が出て、そう言いながらメルリリーは困惑した。


 まるで彼はゾンビだ。いや、メルリリーは本物のゾンビなんてみたことはないけれども、生ける屍というものがあれば、それはきっとこんな感じだろうと思うくらいに、扉から顔を出したヴァルデマーには生気がなかった。それに、やはりやつれている。スリムというよりも、みすぼらしくやせているといったほうが正しい。


「あの……だいじょうぶですか? さっき、すごい音がしましたから、気になって」


 ヴァルデマーの稀有な美しいスミレ色の瞳からは、一切の輝きが失われているように見えた。まるで死人だ。立っている死体だ。


 ヴァルデマーは声変わりの終わった低い声で「ああ……」とつぶやいた。首が動いて、艶のないブルネットの前髪が揺れる。


 これがかつてはもてはやされた一流の子役スターの現在かと思うと、メルリリーは少し落ち着かない気分になった。


「だいじょうぶですか?」

「……そう見えるかい?」

「……いえ。……さっきの音は?」

「ああ……。うん。爆発してね」

「爆発」


 やはり、メルリリーが抱いた最初の感想は間違いではなかったらしい。しかし、爆発とは物騒極まりない。いったい、なにが起こったのだろう?


 メルリリーはヴァルデマーが死んでいなかったことにホッとしつつ、彼を案ずる心が湧き上がってくるのを感じた。けれどもこれ以上彼のプライベートな空間に踏み込んでよいのかわからず、足踏みをしてしまう。


「……怪我は、ないんですね?」

「ああ。幸いなことに」

「それはよかったです。それで、なにが爆発したんですか?」


 ヴァルデマーの目がきゅっと細くなったような気がした。ひどく、忌々しげに彼は眉根を寄せてうめいた。


「……卵」

「え?」

「卵だ。卵。電子レンジが爆発するとは思わなかった」

「え?」


 ふたりのあいだに沈黙が落ちた。それが奇妙で、ひどくおかしくて、メルリリーは笑いをこらえ切れなかった。


「卵!」


 うふふっと唇から息が漏れる。ああ、怒られると思いながらも、頬は緩んでしまって、メルリリーが笑っていることはだれの目にも明らかになってしまった。


 ヴァルデマーはひどくプライドを傷つけられたかのような顔をしてメルリリーを見た。


「笑わないで。深刻な話なんだ」

「ごめんなさい……。でも、卵が爆発したとは思わなくって……」

「僕も卵が爆発するなんて知らなかった」

「そうね……そうよね」

「笑うなよ。料理なんて全然したことがなかったんだ」


 メルリリーの腹筋がぴくぴくと痙攣する。そんな彼女を見るヴァルデマーの顔は次第に眉が下りて、情けないものに変わった。


「こんなに笑うやつは見たことがない。ひとが困っているっていうのに」

「ごめんなさい。……そう、その、食事はまだよね?」

「電子レンジが爆発したからね。それどころじゃない」

「それじゃあわたしの部屋にきませんか? お詫びに食事を作ります」


 ヴァルデマーはまたきゅっと目を細めた、ような気がした。ああ、しまったとメルリリーは思った。彼に気のある女のセリフみたいなことを言ったことに、気づいたからだった。


 けれどもこのときのヴァルデマーは人間不信の心よりも、空腹を満たしたいという欲求が上回ったらしい。


「……わかった」


 そう言ったヴァルデマーにメルリリーは目を丸くした。


「その目はなんだい?」

「いいえ、ちょっと。断られると思ったから」

「……僕だって、近所付き合いくらいはする」


 恐らく、付き合いの悪さについて前々からなにかしら言われていたのだろう。自分は立派なひとりの大人だとでも言いたげな彼の態度に、メルリリーはまた奇妙な笑いを我慢せねばならなかった。

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