(2)
「はあ」
ひとまず安ホテルに向かって少ないダンボール箱を発送し、メルリリーはボストンバッグを手にマクウェザー&プレインフィールド邸改めマクウェザー&レアンダー邸を重い足取りであとにした。
空を見上げればいつも通りのチョコレート・ブラウンの空が広がっている。
駅の前の丸いロータリー前に設けられたベンチへ、どっかりと重い腰を下ろす。さっきからトレンチコートのポケットでバイブレーションをやめないスマートフォンを確認するためだ。
「うわあ」
着信99+。始めて見る数値にメルリリーは思わず顎を引いた。と、同時に再び着信が入り剥き出しのスマートフォン――メルリリーは怠惰ゆえにスマホケースなどはつけていないのだ――が震えだす。
発信者はモデル仲間のミミーナだった。夫が大会社の役員とかで主婦業の片手間でファッション・モデルをしているという、なんともうらやましいご身分の女性である。
「いったい、どうしちゃったの? あなた、ヴァルデマー・マクウェザーと付き合っていたでしょう?!」
メルリリーは恥を忍んで「付き合っていない」と語ったあとで、一度も自分からそういう話をミミーナに持ち出さなかった過去の己を褒めた。ミミーナは恐らくゴシップニュースなどからメルリリーとヴァルデマーの関係を知っていたのだろう。そう考えると傷は浅かった。
「ネットじゃこの話題で持ちきりよ」
そう言って送られてきたアドレスから記事に飛ぶ。芸能系ニュースを扱う大手誌のサイトでは、「マクウェザー同棲中の恋人と破局か、次のお相手はマレレーン?」などというタイトルがでかでかと踊っていた。
「いやいや、同棲じゃなくて同居だから」
力のない声でスマートフォンの液晶の向こう側に突っ込みを入れる。そう言ったあとで、メルリリーはむなしさを覚えた。
「ところで今はどうしているの? その様子じゃパパラッチが鬱陶しいんじゃないかしら?」
「いえ。まったく。影も形を見えませんよ」
「え? そうなの? それじゃあ一度うちに来なさいよ。いつ見つかるかわかったもんじゃないわよ」
「ええっ。それは悪いです」
「いいのよ。旦那が出張でいないから暇だし。たまには女ふたりで飲みましょうよ」
「昼からですか?」
「昼からよ。悪い?」
チェックインした安ホテルで過ごすよりは、それはいい提案かもしれない。それに今は、思ったよりもひとりでいることがつらい。
たとえ相手が好奇心にもとづく行動でメルリリーを誘っていたとしても――ミミーナに限ってそんなことはないと彼女は思ってはいるが――どちらにせよ飛び込むという選択肢を取っていただろう。
「それでは、お言葉に甘えて……」
「オッケー。それじゃ車で迎えに行くわ。今どこにいるの?」
「ペペポンペン駅のロータリーのベンチです……あ」
「どうしたの?」
メルリリーはチョコレート・ブラウンの空を見上げる。と、同時に額に大粒の飴――黒い包装が印象的な――が当たった。
「いたっ」
ガゴン。ガゴン。ガガゴンゴン。駅の近くにいたひとびとは急に降り注いできた飴に右往左往している。そのうちに屋根のあるロータリーのベンチへとひとり、またひとりと集まってきた。
「あれ……?」
そのうちの大学生らしき若者のふたり組みが、じっとメルリリーの顔を見てなにかに気づいたような顔をした。スマートフォンの画面を覗き込んで、「なあ」「……じゃね?」と声を潜めてやりとりをしている。
メルリリーは嫌な予感がして、すっくとベンチから立ち上がり、ボストンバッグから折り畳み傘を取り出した。バッと優雅でない所作で折り畳み傘を広げると、できるだけ大急ぎで歩き出す。
ちらりと先ほどまでいた場所を見れば、大学生のひとりがスマートフォンのカメラレンズをこちらにむけていた。
……撮ったのかな? ……撮ったんだろうなあ。あまりプライベートには踏み込んでは欲しくないタイプのメルリリーは憂鬱になる。女優として大成したいという夢はあれど、私生活を切り売りしてまで話題になりたいというほどの野心は、メルリリーにはないのだ。
しかし結局、ミミーナの車に拾われるまで、メルリリーはときおりすれ違う人々からの好奇の視線に晒されるハメに陥ってしまった。
どうにかこうにかそうやって、高級住宅街にあるミミーナの邸宅までたどりついたメルリリーであったが、そんなこんなでヴァルデマーとは直接関係のないところでくたくたになってしまった。
「ああ、やっとついた」
「お疲れさま~。コーヒー淹れたわよ」
「あ、ありがとうございます……」
白いマグカップからはコーヒーのかぐわしい香りが立ち上る。それを胸いっぱいに吸えば、メルリリーは不思議といつものペースが戻ってくるような気がした。
お茶請けのクッキーをさくさくと食べる横では、大きな薄型テレビが緊急飴速報を出してアナウンサーが警戒を呼びかけている。
「それにしても急に飴が降るなんてね。すごく久しぶりじゃない?」
「そうですね……。たしか、わたしが一四くらいのときに降って以来だったと……」
「そうそう。やっぱりそれくらいぶりよね~? ――あ、ほら、ニュースでも言ってる。……一三年ぶり?! 私も老けるハズだわあ」
「そうですね……」
ミミーナはそれでも見た目はメルリリーと遜色のない瑞々しさを保っている。メルリリーだって美容には気を使っている。なんたって一般に美しさを売りにしている女優なのだ。少ない収入から全身マッサージコースだのヨガ教室だのといったところへ金を払っては、できる限り美しさの衰えを遅くしようとやっきになっている。
それでもメルリリーももう二七。才能と運に恵まれた役者であれば、すでにそこそこの地位を築いていてもおかしくはない年齢だ。
けれどもメルリリーはもう二七と、残酷な世界ではもう若くはない年齢である。美貌で売るのはそろそろ難しい。
……それでも、そんなメルリリーにだってきちんとチャンスは――二七にして――巡ってきていた。それをものにできるかどうかは、まだわからないが。
「――で、別れたってどういうことなの? 飛ばし記事じゃないんでしょう?」
思索の海をただよっていたメルリリーをミミーナが呼び戻す。
「別れたもなにも、わたしたち、はじめから付き合ってなんていなかったんですよ」
「ええっ?!」
ミミーナがあまりにも大きな声を出したので、メルリリーはびっくりしてしまった。それと同時にゴン! とひときわ大きな飴がミミーナたちの豪邸の雨戸を叩いた。
「そんな、またまた……」
「ウソじゃないんです。だって、わたしたちのあいだにはなにもありませんでしたから」
「ええっ?!」
ミミーナがまた大きな声を出してのけぞった。
「あ~んなにイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャしてたのに?! 恋人じゃなきゃおかしいくらいの距離にいるのに?! べったり体を密着させてヴァルデマーなんて貴女の腰に手を回して熱い視線をよこしていたのに?! それを平然と受け入れていたのに?! 挙句の果てに顔を近づけて笑いあっていたのに?! 距離感がおかしいくらいに近いのに?! ひとつのパフェを共有してあ~んするのは序の口で恋人でも頼むのはハードルが高いカップル用ジュース(ハートのストロー付き)を選んでいたのに?! それを嬉々として受け入れていたのに?! ――ウソでしょ?!」
ひといきにしゃべったミミーナが肩を荒々しく揺らす。
「……だから、うん、付き合っていなかったなんてウソでしょう? 恥ずかしがらなくていいのよ。セックスくらいしてたんでしょう? ね?」
「し、してません! だから、本当になにもなかったんですってば!」
「なにも!」
ミミーナがのけぞった。
「なにも! なにもなかったですって?! ……それはもう貴女……」
ミミーナはなにか深刻な宣告をするかのような顔をして声を潜める。
「ヴァルデマーってEDじゃないわよね?」
ミミーナはひどくシリアスな顔をしていたが、メルリリーはどんな表情をするのが正解なのやら、非常に難儀した。
「違います、たぶん」
ひとまず誤解は解いておこうとは思ったものの、ヴァルデマーのシモの事情などメルリリーが知るはずもなく、ミミーナの認識が修正されたかどうかは怪しいところであった。
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