後編

 わたしは一成さんの好きな人にとてもよく似ているらしい。


 三好織江がそのことを知ったのは松原一成と付き合い始めてからしばらくしてのことである。教えてくれたのは一成の友人である小柴という男だった。しかしなにも彼は意地悪で織江にそのことを教えたのではない。一成に他に好きな人がいるのではないかと最初に問うたのは織江のほうであった。


 それに気づいたのはいつだったか。付き合う少し前から、織江は薄々気づいていた。一成が自分を見ながらも、別の違うだれかを見ていることに。織江の瞳を見ながら別の人間を見通していることに。


 だから織江は一成と付き合うことになってから引き合わされた小柴に、思い切って尋ねてみたのだ。一成には好きな人がいるのか、と。


 小柴はためらいながらも教えてくれた。織江がそうとう食い下がったせいもあるだろう。彼は苦虫を噛み潰したような顔をしながら一成には思い人がいるのだと言った。けれどもその彼女と思いを通じ合わせることができないとも。


 織江はふたりの関係についてそれ以上詮索はしなかった。小柴の言い分からすると、一成の思い人はどうにも故人か、そうでなければ既婚者なのだろうとは想像した。故人という発想に、多分に織江の願望が含まれていることは言うまでもないだろう。


 一成が思い人と自分の姿を重ね合わせていることを知った織江は、納得した。最初から一貫して一成は織江に優しかった。まるで以前からの知り合いにでも会ったかのような態度で、彼は織江に接してきたのだ。引っかからないこともなかったわけではないが、織江も織江で、一成のことを好いていたから深く考えたことはなかった。


「……良かった」


 織江はそうつぶやけば、小柴は眉間にしわを寄せた。


「良くないだろう」

「いいえ、良いんです」

「どうして」

「だって一成さんはわたしにそっくりな方が好きなんでしょう」

「……ああ」

「そしてその方とは仔細あって思いを通じ合わせることはできない……と」

「そうだ」

「ならわたしがその方の代わりになればいいんですよね」


 小柴はわずかに目を見開いて織江を見る。


「正気か?」

「……だってそうすれば」


 織江は陶酔に満ちた目で向かいに座る小柴を見た。


「そうすれば、一成さんはわたしを愛してくれるんでしょう?」


 一成の好きな人に似ていて、彼が自分にその姿を重ね合わせているのならば好都合。それが織江の考えだった。常人であれば怒るか泣くか呆れるか、あるいはそのすべての反応を見せるところであるが、織江は違った。


 織江は一成が好きだった。どこがと聞かれれば、優しいところとか、頼りがいがあるところとか、月並みな答えしか出せない。けれどもそういった言語化できる感情を超えて、織江は一成を愛していた。


 しいて言うのであれば、一成が持つ雰囲気そのものであろうか。いっしょにいても苦痛ではなく、かといって退屈でもない、安心できる存在。織江の他愛のない話にも付き合ってくれる、そういう気安さの伴った日常感。そういったものを含めて織江は一成を愛していた。


 けれども織江は自分に自信が持てなかった。一成に褒められても世辞だと真っ先に思ってしまう、卑屈な自分が嫌だった。けれども長年にわたって培われたその性格を今すぐ引っくり返せる方法などあるはずもなく、織江はただ悶々とするしかなかったのである。


 そこには捨てられることへの恐怖もあった。いつか飽きられてしまったら、嫌われてしまったら、幻滅されてしまったら。そういう訪れるかも定かではない未来を空想しては、織江はひとり怯えるのである。


 けれども一成が織江に好きな人の姿を投影しているのであれば、話は簡単だ。


「ねえ小柴さん、一成さんが好きな人のこと、教えてくれませんか?」


 それはなかば哀願であった。けれども要領を得ない小柴は困惑した顔で「どうして」と織江に問う。もし一成の好いた人に危害を加えようとしていると考えられては心外だと、織江は小柴に己の「名案」を教えてあげた。


「一成さんの好きな人とそっくりになれば……そうすれば一成さんは喜んでくれると思うんです。そうして真似していれば……きっとわたしも捨てられない。わたしにとっても一成さんにとっても、良い案だとは思いませんか?」


 小柴はしきりに「考え直せ」と言って織江を説得しようとしたが、織江は最後まで折れなかった。根負けしたのは小柴のほうだ。しかしここで当の一成が会社からの電話だとかを終えて戻ってきたので、この話はここで終わった。


 けれども織江は抜け目なく、小柴と連絡先を交換することで、結局は目的を達成することになる。


 小柴は織江に問うた。一成が万が一にもその思い人と二股をかけたり、あるいは織江を捨てることになる可能性は考えないのか、と。もちろん織江は考えた。考えた末にそれはないと結論づけたから、織江は一成の思い人になろうと考えたのである。


「一成さんは真面目な方です。だから二股はかけないでしょうし、思いを通じ合わせることができない相手に、無理に自分の思いを告げることもないでしょう」


 だから織江が好きな人の代替としてじゅうぶんな役割が果たせるのならば、きっと一成は無茶な勝負に打って出ることはない。それが織江の出した結論である。


 その日から織江は小柴から教えられた情報を元に、一成の思い人に近づこうと努力した。


 一成の思い人は旧華族のお嬢様で、つまり元からして織江とは違うわけだが、ガワだけを似せるのにさほど苦労はしない。小柴によると顔のつくりは少々違うがじゅうぶん似ていると言える範囲で、それよりもむしろ雰囲気がそっくりなのだそうだ。ならばこちらは下手に意識して崩すのはよろしくない。


 ひとまずは一成の思い人の好きなものをなぞり、それとなく一成にアピールするという方向で方針を固める。


 服に紺色を取り入れて、藍染の紺が好きだと言ったり、不機嫌さを伝えるときは唇を尖らせた。恥ずかしいときや言いにくいことがあるときは、髪の先に近い場所をひとふさつまんだ。それ以外にも多くのことを実行した。


 多くは功を奏したように見える。一成は熱烈かどうかは知れないが、織江を愛してくれていたし、織江も一成を愛した。三好織江を見てくれない寂しさはあるけれども、一成が愛してくれる安心感と天秤にかければ、それは我慢できる類のものである。


 それでもたまに聞いてしまうのだ。たとえば「髪は長いほうがいいか、短いほうがいいか」とか。


 一成と出会った当初の織江は、いわゆるショートボブで長い髪とは言いがたい。けれども小柴に一成の思い人について話を聞いてからは、織江は髪を切ることなく伸ばしていた。一成の思い人は美しい黒髪の持ち主だと言う。日々の手入れは大変だが、これも一成に愛されるためと織江は手を抜くことは決してしなかった。


 一成の好きな人の特徴にさえ沿っていれば安泰だと知りつつも、やはりそれだけではどうしようもない部分も出てくるし、三好織江らしさを見せたくもなるのは、もはや仕方のないことだった。


「痛っ」


 指の先を見ればぷくりと赤い玉が浮いている。


「またやっちゃった……」


 眉根を寄せて落胆しながら、織江は絆創膏を手に取る。かたわらには針山と縫い糸、それから布の端切れが山ほど。一成に言ったとおり、織江は彼へ送るお守りを作っている最中だった。


 裁縫は高校の家庭科で習って以来だったから、そう年は開いていないはずなのだが、どうにもうまく行かない。先ほどから針の先を指に刺してばかりで、織江の眉間のしわは深くなるばかりだ。


 こんなにぶすぶすと刺してしまうのは小学校のころですらなかったはずなのに。そう思いながらも織江は手を止めることはなかった。


 一成が見ていたのは自分ではないというのは、たしかに悲しいことなのかもしれない。どちらかといえば、織江にとっては寂しいことであった。純粋に愛せる相手が、愛してくれる相手が、自分を見ていたわけではないという事実は、常人からすればとうてい受け入れがたいだろう。けれども織江はそれを飲み込んでしまった。悲しいという感情も、きっとそのときに飲み下してしまったに違いない。


 結局は結果がすべてなのだ。織江が一成の好きな相手の真似をするという、卑怯な手を使ったとしても、彼の愛を手に入れられたのなら、それがすべてなのである。


 たとえそこに、「三好織江」がいなくとも。


 充電器に置いたスマートフォンがバイブレーションする。表示されたのは小柴とおるの文字。織江はあわてて針を針山に刺し、絆創膏が巻かれた指を伸ばしてスマートフォンを手に取る。


「小柴さん? はい、だいじょうぶですよ。まだ起きてましたから。……はい……はい。心配しなくてもだいじょうぶです。ありがとうございます。上手く行ってるの、ぜんぶ小柴さんのおかげですから!」


 そう言った織江の笑顔は、どこまでも屈託のないものだった。

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病的近似コントロール やなぎ怜 @8nagi_0

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