病的近似コントロール
やなぎ怜
前編
ふとした瞬間の表情が、とてもあの人に似ている。
そうして思わずじっとその横顔を見ていれば、彼女は首をかしげた。
「どうしたんですか?」
「いえ……ずいぶんと髪が伸びたな、と思いまして」
一成がそう言えば、織江は右の指で胸のあたりまで伸びた黒髪をひとふさ、つまんだ。一度も染めたことがなさそうな見事な黒髪は、さんさんと降り注ぐ日の光を受けて白い輪を作っている。
「一成さんはどちらが好きですか? その、長いほうと短いほうでは」
「短いほう、と言ったら切るんですか?」
思わず意地悪く答えれば、織江はちょっとうつむいて考え込む仕草を見せた。それがいじらしくて一成は自然と口元に笑みを作ってしまう。それを目ざとく見つけた織江は、眉を八の字にしながらも「あー」と声を出した。
「笑ってる」
「すいません」
「一成さんにはどうでもいいことかもしれませんけど……」
唇を尖らせる織江を見ていると、一成はえも言われぬ感情の波に飲み込まれる。それは単純に劣情という言葉だけでは片づけられないものだった。胸を締めつけられるような、今にも泣きだしたくなるような、制御できない感情が、心の底で渦巻くのである。
「……長いほうが好きですね。織江さんの髪は綺麗ですから」
織江のものよりずっと武骨な指を彼女の髪に差し込む。ひんやりとしていて心地の良いその感触に、一成の指先はぞわりと痺れを訴える。ずっと触っていたくて、離れがたい。けれどもそうすることはできないので、一成はしぶしぶ指を引かざるを得ないのであった。
そんな一成の胸中など知る由もない織江は、彼の言葉に頬を赤らめる。恥ずかしげに伏せられた長いまつげが、彼女の目もとにかすかに影を作った。
「それじゃあ、このまま伸ばそうかな……」
ぷくりとした唇を所在なさげに動かしたあと、織江はそう言ってはにかんだ。
一成には前世の記憶がある。いや、それが果たして前世の記憶なのかどうかは定かではない。ただ、物心ついたときから今の自分とは違う人間の人生の記憶を色濃く持っていることはたしかであった。
記憶の中の一成は、あるひとりの女に恋焦がれていることがほとんどだ。
一成は成金の息子で、彼女は華族の令嬢である。一成と違い、由緒正しい家柄の姫君なのである。それでも家柄だけでは食べていけないのが、その時代の流れであった。
例に漏れず彼女の家も殿様商売の末に家を傾けて、仕方なしに娘を成金の家に嫁がせることにしたのであった。
初めて見た彼女は、ハッとするほど美しい少女であった。牡丹柄の振袖を着て、長い見事な黒髪をうしろに垂らした姿は、一成の網膜に焼きついた。
「初めまして」
形の良い唇が動いてやっと、一成は我に返ったのである。
彼女の両親は一成の父に媚びへつらいながらも、その瞳の奥でこの成金の父子を見下していた。そういうわけで一成は彼らの目が苦手だった。だから妻になる彼女もそんな目で見てくるのならばどうしようと、いい大人だというのに憂いたものである。
しかし予想に反して彼女にはそういった高慢なところがなかった。むしろ純真に、そして愚直なまでに一成を夫として敬しようとするものだから、一成はくすぐったくて仕方がなかった。
彼女は汚れを知らぬ処女雪のようであり、春に芽吹く花々のようでもあり、とかく――一成は彼女に恋をしたのであった。
家屋敷と女学校を往復する以外にほとんど自由のなかった彼女は、一成に色んな話をせがんだ。色街についてまで聞かれたのにはさすがに困ったが、一成は概ね彼女の疑問に答えてやった。色街の話については言葉を濁すと彼女は唇を尖らせる。それは彼女の癖のようで、ちょっと不機嫌になったり納得が行かなかったりするとよくそうしたものだ。
きらきらと輝く大きな目。鮮やかな反物で仕立て上げた振袖の長い袖が揺れて、艶やかな黒髪がさらさらと流れて。日の下が似合う彼女はよく笑った。
あるとき彼女は白魚のような手の指先に怪我をしていた。どうしたのかと問えば、彼女は恥ずかしげにうつむいたあと、胸元の合わせ目からなにかをそうっと取り出し、一成の前に突き出した。その指がつかんでいたのは、不格好な布の塊で、前面の刺繍からかろうじてそれがお守りであるということが理解できた。
「これは?」
問えば一成に贈るために縫ったのだと言う。頬を朱色に染める姿は愛らしいが、しかし指先に怪我を負ってまですることではないだろう、という思いを一成はぬぐうことができなかった。彼女は針仕事などしなくても良いはずだと。
「そんなことされずとも……」
すると彼女は悲しそうな顔をした。
「でもこれから
一成は自分の愚かさを呪い、そして彼女のいじらしさに胸をつかまれるような思いであった。彼女の
人によれば浅ましさすら覚える言動も、一成からすれば愛らしくて仕方がない。彼女が未来の夫にできる唯一の事柄がこれなのだと思えば、それはますます募るものであった。
けれどもふたりが夫婦になることはなかった。女学校の卒業を前に、彼女は肺を病み転地療養に出された。一成の妻には、代わりに彼女の妹があてがわれた。妹は高慢さを隠そうともしない女で、一成は彼女が遠地へと行ってしまったこともあいまって、ひどく落胆した。
それでも結婚を辞めなかったのは彼女のためだ。もしここで破談にしてしまえば、彼女の生家は没落するだろう。そうすれば彼女は満足な治療を受けることも叶わなくなるかもしれない。一成が直接援助するという手段もあるにはあったが、それを心優しい彼女が受け入れるのかは甚だ疑問であった。
そうであるから夫婦生活は非常に淡白なもので、ふたりのあいだにはおおよそ夫婦とは思えぬよそよそしい空気が流れていた。
一成は何度も彼女に会いに行こうと思ったが、できなかった。結局は彼女と違う人間と結婚したことには変わりがないからだ。そういう後ろめたさもあいまって、一成はついぞ彼女と会うことはなかった。
彼女の訃報を聞いたのは、結婚して四年後のことだった。
織江に出会ったのは合コンでのことである。こちらはしがないサラリーマンなわけで、ひとまずは独り立ちした社会人である。そういう立場であるから「女子大生と合コンができるぞ」などと誘われても、あまり心は動かなかった。だから一成はしぶしぶながら合コンに出たわけなのだが、結論から言ってしまえばこの判断は正しかったと言える。
織江をひと目見たとき、一成は心臓が止まるかと思った。幼い頃から繰り返し想像の中で見て、恋焦がれた女が目の前に現れたのである。名前が三好織江だと知ったあとは、頭の中でずっとその単語が回っている始末であった。
合コンのあいだは一成はほとんど話さなかったが、それは織江も同様であった。機会が訪れたのは二次会になだれこむ前で、控えめに辞退の言葉を口にする織江に、一成は「送って行きましょうか」と声をかけたのである。
「……あんまりしゃべってなかったですよね」
「え?! ええ……まあ……。その人数が足りないからと言われて……」
「俺も似たようなものです」
そう言って一成が笑うと、先ほどまで緊張した面持ちだった織江も少し笑った。
話が織江の専攻科に及ぶと、彼女は饒舌になった。酒が入っていたせいもあるだろう。史学科に籍を置き、近代風俗史について学んでいると言う織江の話を一成は素直に楽しんで聞いていた。織江のことであればなんでも知りたかったというのもあるし、ただ単純に熱を持って話す内容が純粋に面白かったというのもある。
「じゃあ××博物館の特別展には行きました?」
「あ、そこ行きたいんですけどちょっと遠くて……」
「それじゃあいっしょに行きませんか?」
正直、これは賭けだった。この日初対面の相手からそんな誘いを受けてその場で了承するかと言われれば、やはり否と答える人間のほうが多いだろう。異性であればなおさら。
けれども一成は無理だろうと思うかたわらで、なぜだか大丈夫だと、そう思っていた。
「車、出しますよ」
一成の言葉に織江は目を泳がせる。動揺しているのは明らかだった。けれどもすぐに目を伏せて「いいんですか?」と蚊の鳴くような声で聞いて来た。やがておずおずと上目づかいに織江が顔を上げたので、一成は真正面から彼女の目とかちあった。きらきらとした、大きな黒い目と。
「はい。三好さんが良ければ、ぜひお供させてください」
そこからはほとんどとんとん拍子にことは進んだ。思うに一成同様、織江も最初から彼に対してそれなりに好感があったように思う。そうでなければここまで順調に行きはしないだろう、というのが一成の考えだった。
もしかしたら、織江にも一成のような記憶があるのかもしれない。そう考えたのは一度や二度ではなかった。しかし一成がそのことについて織江に問うたことはない。奇妙に思われたくなかったのもあるし、仮に否定されたときにきっと自分が少なからずショックを受けるであろうことがわかっていたからだ。
この記憶は綺麗なまま、とっておきたい。もしかしたら織江が記憶の中の彼女なのかもしれないと、淡い期待を抱いていたい。だから一成はこのことを織江に問わないでおこうと、そう決めたのだ。
織江のことを知るたびに、一成は織江に記憶の中の彼女を重ねずにはいられなかった。付き合っているうちにそれはどんどん顕著になって行った。
織江は彼女と同じ色が好きだと言う。藍染めの紺色が好きなのだ。
織江は不機嫌になったり納得が行かないことがあると、唇を尖らせる。彼女と同じ癖だ。
彼女はずっと色んな場所へ行きたがっていた。そして市井の人々の暮らしや、昔の人々の暮らしについて特段興味を持っていた。
織江は一成といっしょにいるとき、よく髪を触る。髪の先に近い場所を指でひとふさつまむのである。それを見ると一成は彼女のことを思い出した。彼女は恥ずかしがるときは決まってそういう仕草をした。
笑うときの顔もそっくりだ。顔のつくりと言うよりは、雰囲気がそっくりなのだ。
「ねえ一成さん」
かたわらにいる織江は髪のひとふさつまみながら言う。
「今度……お守り渡してもいいですか?」
「お守り? いいけど、どうしたんですか?」
「今、お守りについて調べているんですよ。それでわたしも作ってみたくなって。でも自分のためっていうのも、その……」
織江の横顔を見やれば、耳がほんのりと色づいているのが見えた。
「織江さんが作った物なら、なんでもうれしいですよ」
花が咲いたように、ぱっと明るくなった織江を見ながら一成は考える。これは現実か、それとも夢の続きなのか。あの日、永遠に失われてしまった日々をまるで取り戻すかのような現実に、一成はめまいすら覚える。たしかなのは一成が織江を愛していて、織江もそうだということだけ。
それだけでいいのだ。前世の記憶がどうのと勝手に思っているのは一成だけで、織江はそれを知らない。それを知るすべはないし、知らなくて良い。
騙していると言えるのかもしれない。しかし嘘は言っていない。一成は織江を愛している。それは本当なのだから。
「それは詭弁だな」
「お前の彼女が可哀想だ」
小柴は一成の、
そうであるから小柴は仔細を知り尽くしている。一成が彼女を愛していたこと。しかしそれは叶わなかったこと。そして彼女と織江を重ね合わせていること。織江はそのおぞましい事実を知らぬこと……。小柴はすべてを知っているのだ。
だからこうして小柴はたびたび一成に警告を発する。それは単純に一成の恋人である織江を不憫がってのことではない。一成自身のことも慮っての言葉であった。
この恋が最悪の形で破れたとき、きっと一成は立ち直れない。織江を愛すれば愛するほど、傷は深くなる。小柴はそれをわかっているから、こうして一成を諌めるのである。織江と彼女を重ね合わせるのをやめて、真摯に織江を愛せ、と。
それが人としての正しい行いだということは、一成も理解していた。どれだけ詭弁を弄そうとも、一成の行いがむごいことも承知であった。
けれども一成はそうすることをやめない。やめることができない。
織江と彼女の姿はわかちがたく重なり合い、もはや一成はふたりを別の存在として認識することができないところまできていた。記憶の中の彼女を愛しながら織江を愛し、織江を愛しながら記憶の中の彼女を愛する。その醜悪な愛の形を変えることは、もはや不可能なのだ。
「俺は織江を愛しているよ」
そこに嘘はないけれど、その言葉には嘘があった。
「……彼女が可哀想だ」
小柴は吐き捨てるようにそう言った。
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