第8話 別れ

彼女が俺の心にいた時。それはほんのしばらくの間に過ぎなかったが、俺が感情のある人間でいられた時間でもあった。彼女との出会いを求めて、それを最後に俺は彼女との接点を失った。

仕事に追われる日々が繰り返される。年が明けると業務量が増え、帰宅時間は0時を過ぎる。俺は布団で寝ることが大好きだ。殊に冬場の寒さを布団の中で過ごすことは日常生活の最高の癒やしだ。しかし、布団にくるまれる幸せは永遠とは続かない。それはまるで報われない恋愛のように突然終わりを告げる。朝の目覚ましは非情だ。布団の中の幸せと恋愛は共通点が多い。夢を見る時もあれば、そうでない時もある。知らずのうちにその世界に引き込まれ、やがて目が覚める。恋愛に溺れている人を現実に戻すとき、目を醒ませというのはなぜだろうか。

俺の眠りの質は良いほうだ。それだけに朝起きるのは辛い。俺はギリシャ神話に登場するシーシュポスを思い出す。これは終わりのない苦役だ。

しかし、人間とは単純な生き物だ。顔を洗う。たったこれだけの行為で目が覚めて脳が切り替わる。報われない恋愛もそうであればよいのだけれど。そこだけは布団との大きな違いだ。

半年間の繁忙期が過ぎ、また俺はマクドナルドに立ち寄る時間が作れるようになった。俺はマクドナルドが好きだ。マクドともマックともマグダーナルとも呼ばない。マクドナルドはマクドナルドだ。レインマンという映画は俺のフェイバリットだが、トム・クルーズ扮するチャーリーのセリフ「Underwear is underwear!」は俺の心に刻まれている。「McDonald is McDonald.」

彼女との再開は繁忙期が過ぎて3回目のマクドナルドだった。彼女は一人でスマホ片手に喋っていた。電話だろう。俺はカウンターでビッグマックとコーラSSサイズを注文すると、彼女の横の席に座った。

「ひさしぶり」座るとほぼ同時に声をかける。スマホに何やら話したあとで、「ひさしぶりね。ごめん、配信してるから。」配信?俺にはよく解らなかったが、彼女はまたスマホに向かって話しだした。「マジ沈めるぞー!おい!」配信と言っていたが、誰に?何を?頭の中は疑問符だらけだ。「お前ら仲良すぎるやろ!だれがヤクザや!ワイは女の子や!」ケラケラと楽しそうな彼女の声を聴きながら、俺はビッグマックにかじりついた。俺はハンバーガーが大好きだ。ビッグマックならまだ初心者向けだが、大きなハンバーガーを食べるときにはコツがある。まず、ひっくり返すこと。バンズは下より上の方が分厚いので、ひっくり返して食べるほうが断然食べやすくなる。もう一つは当然だが、常にハンバーガーの平行を保つことだ。チーズバーガーみたく片手で斜めに傾けるとバランスを失うのは当然だ。この2点を実践するだけでもかなりきれいに食べることができる。

「だっる〜」彼女が呟いてスマホをテーブルに置いた。配信をやめたのか。彼女の様子を気にしながら、食事を進める。「エビバーガーうっまー。」ああ、そういえば彼女のお気に入りはエビバーガーだったな。コーラを飲みながら思い出す。「配信アプリしてたの。」彼女がおもむろに言った。「声で配信してたの?」「そう。私は一応ツンデレでヤンデレで変態でBLで暴力キャラってことになってるの。」「見た目とは違うね。でも、素質がないとキャラづくりだけじゃ大変じゃない?」「素質かあ。あるんかもなあ。まあ、どっちかというとそっち系かもしれん。」そっち系か。どっち系だろう。どれ系なんだろう。キャラが豊富すぎてよく判らなかったが、深く知る意味もない。俺にとっての彼女は今目の前にいる彼女だ。

「前に店員さんからメッセージもらわなかった?俺からの。」俺は思い出して尋ねてみた。「あー、もらったわ。カリフォルニアでしょ。急な話だと思ったけど、急いで準備して行ったのに。」「いなかったよ。俺もずっと待ってたのに。準備するほどの準備なんているの?」「だって日帰りって訳にいかないじゃない。」彼女の行ったカリフォルニアはカリフォルニア州だ。よく行けたものだと感心してしまった。俺の言いたかったカリフォルニアはこのマクドナルドの横にあるショットバー「california」だ。まさか間違えるとは。しかし、それはもう言えない。「どれくらいカリフォルニアにいたの?」「5ヶ月よ。旅行がてらだったけど、あんまりいいところだったからしばらく住んでたの。」ママス&パパスの名曲California dreamin' が脳裏に流れる。夢のカリフォルニア。彼女のスケールは俺より遙かに大きい。

「私、引っ越しするの。」突然だった。もう会えなくなるのか。「カリフォルニアに。」その距離ではもう会えない。この会話が最後の二人の会話になるな、と俺は思った。

「日本なんてチンケだわ。私には合わない。でも、楽しいこともあった。友達とオールもたくさんしたし。」「君はすごいね。」「私、配信してるけど、何人かリスナーを海に沈めたわ。瀬戸内海のいろんな港に。大阪湾、神戸港、屋島、倉敷。」彼女は懐かしい想い出であるかのように、話し出した。「鳴門の渦潮にほおりこんだりもしたな。」何人くらいだろう。10人くらいか?「ねえ、知ってる?なんで海に沈めたか。山になんで埋めなかったかって思ってる?」質問は俺の常識を超えていた。「山に埋める、っていうけど、人を埋めれるほど山の土って柔らかくないの。木の根もあるし、岩もある。あんなの、現実的じゃないわ。」海に沈めるのも充分現実的ではないが、彼女は配信のためのキャラを作ってるんじゃない。配信のキャラは彼女自身なんだ、と理解した。全ては実行に移される。良く言えば行動力にあふれている。「私、ひとつだけできなかったことがあるの。」それもまた"配信"にかかる何かなんだろうか。俺は答える術が解らず、彼女は話を続けた。「ノーベル賞欲しいの。でも取れてないの。まだ取ってないの。」「ノーベル賞。。どの分野が得意なの?」「得意なんてないわ。そんなのどうでもいいの。私はノーベル賞とって、そのお金を渡航費用にしたいの。それだけよ。」「ノーベル賞って、」ノーベル賞って知ってる?と聞きたかったが、言葉が続かなかった。「だから、私、アメリカでノーベル賞とるの。絶対。」運転免許とは違うんだよ、と言ったら俺も海に沈められるだろう。「絶対取れるよ!取ってほしいよ!いつかニュースの記事で君の顔写真見れるときがくるって楽しみにしてるよ。」彼女なら本当に取ってしまいそうな気がしてきた。平和賞は無理だろう。他に何か賞はないのか。がんばったで賞でもなんでもいい。彼女にノーベル賞をあげてほしい。

「もう、いくわ。」「アメリカにはいつ出発するの?」「明日の朝。見送りに来てくれるつもり?」彼女は少し笑いながら言った。「行きたいけどね。明日は無理なんだ。」「ありがと。じゃあね。」「うん。気をつけて!」彼女は慣れたようにトレイごとクズ入れにぶち込んで、帰って行った。俺はコーラを飲みながら、人生最後の彼女との会話を振り返ってみた。彼女とのはじめての出会い、そして別れ。彼女のことを結局俺は何一つ知ることはなかった。それでも彼女の存在は俺の心を奪った。何かが終わった訳ではない。何かが始まっていたわけでもない。ただ、彼女という存在が俺の心を占め、そしてそれが終わりを告げた。突然すぎる幕引きに戸惑い、実体としての彼女が目の前から去った今、俺の心の中に空虚感だけが残った。

カリフォルニア。あの時、もし俺が彼女にメモを渡していなければ、まだ俺は彼女と会う機会があっただろうか。いや、そもそも住む世界が違いすぎたのだ。うたかたの間、俺は彼女と関わりを持てた。これが奇跡的なことだったんだ。欲を言い出したらきりがない。欲を言い出したいのなら、彼女のように目標に向かって動き出さなければいけない。俺ははち切れそうになりながらも、コーラを飲み終えた。

最後に俺は彼女に伝えたかった。「俺、コーラ全部飲んだよ。」あまりに些細なことながら、彼女に伝えたかった。俺はクズ入れの前で分別してる中年男性の横から、トレイごとゴミをぶち込んで、店を後にした。

そして、彼女の言った"夢のカリフォルニア"を何度も聴きながら家路を急いだ。(了)

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エビバーガーを買いに @char_chan

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