第10話カメとウサギの仲直り

読み終わった。読み終わってしまった。

プツリと集中が途切れると、酷使していた目が疲れを思い出して、私はきつく目を閉じる。

何度か目を瞬いてから、久しぶりに物語から目を離して辺りを見渡すと、いつの間に日が落ちていたのか、店内は不気味に薄暗い。壁伝いに手探りで明かりのスイッチを探して、照らされる人工の光が目に入ると、ようやく心が現実に足をつけたようで。視界が広がり、認識が世界に追いついていく。五感が私という家に帰ってきて、冷気が体を包むのを感じた。

自身の熱と周囲の大気の温度差が、自らと外との境界を明瞭にしているようで、私は私という形を取り戻す。

現実に戻ってきた安心感で、全てを留めるような夜の空気に「ほぅ…」と、ひとつ熱い息を吐いた。

体は寒いはずなのに、心の熱は冷めやらない。

まるで大好きなアーティストのライブ直後のような高揚感が私を襲う。

実際に体験したことなんて絶対にないはずなのに、想像の情景がまるで思い出のように泡沫となって蘇っては消えていく。暖房をつける気にはなれなくて、擦り合わせた手に暖かな息を吹き付けた。

無性に誰かと話がしたい。

この熱を誰かにぶつけてしまわなければ、自分が爆発してしまいそうな錯覚に襲われる。

少年もこんな気分を味わっていたのだろうか。

こんな気分に浸りながら、されど彼はいつも1人で。

まるで本の海があたりのすべての音を吸い込んでいるかのように、小さな書店の中には静寂という名の音が聞こえてきそうな静けさに満ちている。

この世界の片隅にひっそりと佇みながら、1人黙々と小説をめくる彼は、平気そうにしているけれど、以前の私にはどうしても寂しそうに見えて仕方なかった。

第一私がひとりでここにいるにしたってとても落ち着かなかったのだ。

身じろぎをすればやたら大きく音が響くし、ついたため息も、放った独り言も紙に吸われて戻ってこない。まるで孤独を押し付けられているように感じていた。

けれど一度、彼の感じる世界を、のぞいて見るとそれが間違いであったと気づく。たかが小説を一冊読み終えたくらいで、こうも自分の中がうるさくなるとは。確かにこれなら辺りの静けさを気にならないだろう。まるで文字が、声が、私の中を跳ね回るかのよう。

ドキドキしたシーンが、ワクワクした情景が、まるでMAD動画のように細切れに駆け回る。

この騒音を、喧騒を。この興奮を、誰かと分かち合うこともないまま、彼はたった1人で。

だとしたらなんて悲しい。

人と関わることの醍醐味は、共有することだと私は思う。

一緒に笑ったり、泣いたり。喜んだり、悲しんだり。そうやって感情は伝播して、心は繋がっていく。なんだかとても、無性にそわそわして。とても彼に会って話がしたかった。

なーんて思っていたら、噂をすれば影。いや、今回は祈りが届いたって言う方がいいかな。

部屋の中が冷え込んでいたとは言っても、やっぱり外のほうが寒いらしい。

聞こえてくるのは、けたたましく開かれた扉と、それと遅れてやってくるささやかな鈴の音。

「いらっしゃいませ」と声をかけて、戸口に駆け寄ると、静謐の檻に突如現れた侵入者は、息を切らして加湿器みたいに白い煙を吐きながら、分厚い冷気を身に纏い現れた。

なんとなく、予感がしたのだ。

根拠なんてないけれど、でもこういうときの私の勘は絶対に外れない。

ほらやっぱり。

冬だというのに汗を流して、熱々の肉まんみたいに湯気を纏った彼がそこに立っていた。

「少年…」

「サキさん…」

何かに囚われたように、ただ見つめ合う二人。とても長い一瞬ののちに、頭がいまに追いついて。謝らなければと、私は弾かれるように口を開く。

「「ごめんなさい!」」

これがお話だったらたぶん、二人の間に三点リーダーが浮かんでいることだろう。

「見事にハモったね。」

床暖房みたいにじわじわと、お腹の底から笑いがこみ上げてきて止まらない。

「そんなに汗ビッショリにして、走ってきたの?」

「サキさんに早く謝らなくちゃと思って。」

しゅんとする彼を見ていると少し可哀想に思えて。

「それなら、私も一緒だ。」

と一つ助け舟を出す。そしたら彼の表情が180度くるりと回転するかのように明るくなって。

「よし、謝ろうと思って少年に連絡しようとしたら連絡先知らないんだもの。もどかしいったらなかったわよ。あとで連絡先教えなさいよね。」

と、私は気恥ずかしさから目をそらすように言い捨てた。

「サキさん。」

「なぁに。」

「話したいことがあるんです。聞いてもらえますか?」

とても落ち着いた表情と声音で彼は言う。

「いいよ。ついでに私の話も聞いてもらえるかな。」

「もちろん。」

ひとまず座ろうか、そんなに汗だくになるまで走って疲れたでしょ。待っててお茶とタオル持ってくるから。と一度お店の中に引っ込んで。それから小さな机を間に彼と向かい合って、  言葉を交わし合う。何気ないひととき。

二人の顔を、オイルストーブのほのかな明かりがぼんやりと照らす。

夜空に浮かぶ三日月は、微笑む口元のような形で私たちを見守っていた。

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カメとウサギの交流記 @heatstar

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