第9話立ち止まるウサギが見たものは

よし。そうと決まれば善は急げだ。気持ちが変わらないうちに。と、そそくさとカバンを漁って、スマホを手に取ったところでふと気づく。

あれ…?私、少年の連絡先知らなくない…?

ダメじゃん。全然善急げないじゃん。

「あーもぉー!少年のばかー!」

丁寧に片づけたはずの感情の本棚がぐらりと揺れて、私の叫びは狭い室内を弾むようにこだました。

思えば私は彼の名前と学年、通っている学校くらいしか知らない。

今度会ったら、無理矢理にでも連絡先を交換してやろうと心のTo do リストに書き込んだ。

さて、連絡を取れないものは仕方がない。バイト中にお店をほっぽり出すわけにもいかないし、ましてや高校に乗り込んで少年を待つのもいささかとは言えないくらい恥ずかしい。これは私の心の平穏を保つための最終手段だ。

しかしどうにもやることがなくなってしまった。携帯を触ろうにもファッション誌をめくろうにもどうにも手につかなくて、集中力が続かずどうにも投げ出してしまう。喉の奥に小骨が引っかかったみたいに、チクチクと刺さるような心配がどれだけ押しやっても頭の隅から離れてくれない。

「う~…」

むやみにゴロゴロと転がって机に脛をぶつける。痛い。少年め、麗しき乙女の肌だぞ。あざになったらどうしてくれる。

まぁ、最近彼氏も構ってくれないしなぁ。あざの一個くらいなんてことないか…

もう、これも彼も奴のせいだ。なんて盛大に責任転嫁しながら、しばらく痛みに呻いているとふと思い出す。そういえば彼に本を薦めてもらったのだ。

ええい、せっかくの機会だ。と一念発起して、机に貼られたメモ帳を元に、無数に広がる本の海からお目当の一冊を探し出す。

タイトルは「もう1人の私へ」

春のお花畑に少女が風に吹かれている。柔らかなタッチで描かれていて、少女の表情はうまく読み取れないけれど、広く晴れ渡る空と、舞う花びらを見上げるその姿に、彼女はとても自然に微笑んでいるように思う。とても暖かなデザインの表紙にほっこりとして、いざ1ページを開くと、そこには無機質にびっしりと等間隔に書かれた文字の羅列。規則正しく整列した活字の軍隊が襲いかかってくるようで、思わず眉根が寄る。

「サキさんはあんまり本を読まないみたいなので、読みやすいものを。」なんて少年は言って、思わず「そんなことないよ。」なんて見栄を張ってしまったけれど、なめないでほしい。こちとら今まで生きてきた中で読んだ本の冊数なんて片手で収まるくらい文字とは疎遠に行きてきた人間なのだ。

それでもせっかく勧めてくれたのだからと、吹雪に逆らって歩くような気持ちで読み進めてみる。

一文字一文字を追うごとにカロリーを消費している気がして、短いスパンで机の上のお菓子に手が伸びる。慣れないことをするにはどうにもエネルギーがいるのだ。

読み初めは噛み合わない会話のようだった。

慣れない人、こと初対面の人間とお話する時に感じるあの違和感。ぎこちなさ。相手の会話のテンポ、好み、テンション、ジャンル。だいたい全部わからなくて、探るように言葉を投げる。「これついでなら話せるかな。」と共通点を探して、「このくらいのノリなら大丈夫かな。」とペースを合わせる。表面上ではこともなさげに微笑みながら、頭の中はフル回転だ。

感覚としては、不協和音を放つ弦楽器を少しずつ調律していくイメージが近い。そう、チューニングだ。そのイメージが一番しっくりくる。

そうやって、少しずつ擦り合わせながら、お互いがお互いに対する自分を作り上げていく。

けれどそれまでの、話がうまく噛み合わないその間は、例えるなら歯の噛み合わせが悪い歯車同士が無理に繋がって、お互いをゴリゴリと削りながら回るような不快感というかストレスを感じるのだ。

仲良くなって仕舞えば平気なのだけれど、それまでは結構頑張らなくっちゃって感じ。

それと似たような感覚を、文章を読んでいるときに感じるように思う。本の内容と自分の思考が噛み合わずに歯車はギシギシと音を立てて軋む。しかもこいつは相当に無愛想で、私に合わせて話を変えてくれるなんてことはなくて、読み続けようとするならこっちから歩み寄っていくしかない。その傍若無人さというか、冷たさが、私が本を忌避する原因の1つだった。

ゴリゴリ ゴリゴリ

頭の中にこすり合わされる金属の悲鳴が響く。

けれど、けれどなぜだろう。いつしか脳内に響く不協和音は鳴りを潜めて。気づけばページをめくる音が消え、肌に触れているはずの冷気は遠く、視線は文字列へと吸い込まれていく。

お菓子に伸びる手は、とうの昔に止まっていた。

がちんと、噛み合った歯車が元気よくくるくると回る。重力を忘れたみたいに軽やかに、文字の上を私の意識が走り出す。

「面白い。」

話の続きが気になって早く次が読みたいとはやる気持ちに急かされるように、私は目の前の文字を追う。読む速度の遅さがもどかしい。なぜ今まで私は本を読んでこなかったのだ。


この主人公は地方の4年制大学に通う二年生。名前は椎名くるみ、20歳になったばかりの女の子だ。

主人公と自分を重ねやすいようにと。この辺りが、少年が私に対して読みやすいといった所以の1つなのだろう。小さな気遣いが少し微笑ましい。

彼女は、ちょっとネガティヴなのを除けば普通の女学生なのだけれど、ひとつだけ変な癖があった。

すぐ居眠りをしてしまうのだ。

高校を卒業するあたりから生まれたこの体質は非常に厄介で、彼女はかなり困っていた。なにせ彼女の起きていたいという意思に関わらず寝てしまうのだ。電車の中でも、講義中でも。1人でいるときは所構わず。誰かといるときは意識が働くのか、寝てしまうことはないのだけれど、1人になるとなぜかすぐ眠りこけてしまう。

そんな彼女の物語は、友人の些細な一言から始まる。

例のごとく、サークル室の机に2時間も突っ伏してしまっていたくるみは、また時間を無駄にしてしまったと嘆きながら、目指す帰り道の途中で、出くわした友人に奇妙な一言をもらう。

「あれ?ついさっき、くるみを見かけたよ。」

おかしい。今さっきまで爆睡していたはずなのに。

疑問に思った彼女は他の友人にも自分の寝ていたはずの時間に、自分の姿を見たことはないかと尋ねてみると、封を切ったように自身の目撃情報が溢れ出す。

「いったい私の身に何が起きているのだろう。」

小さな疑問から彼女による彼女自身の調査が始まった。

自分とそっくりな人間が他にいないか探してみたり、寝ている間に自分が動いているんじゃないかと自分の姿を録画してみたり。

不器用な彼女の奮闘が小気味良いリズムでコミカルに描写される。

知らずのうちに、行を追う私の指が跳ねるように踊っていた。

そして七転八倒、東奔西走な探偵活動の末にに彼女はある1つの真実にたどり着く。

彼女は知る。自分の中に、自分の知らないもう1人の自分がいたことに。

有り体に行ってしまえば、彼女は二重人格だったのだ。

考えてみれば不可解な点はいくつもあったと、彼女は語る。

寝ていたはずなのに講義のノートがきちんと取られていたり、レポートが勝手に出されていたり。はてまたインスタが勝手に更新されていたりなどなど。今まで寝ぼけ眼でやったことだから覚えていなかったんだと勝手に自分で納得していたけれど、どうやらそれらはもう1人の人格のせいらしかった。

彼女の裏人格は自身の名を「みるく」と名乗る。

「くるみ」の反対だから「みるく」安易なネーミングに思わず笑いが漏れた。

この作品はくるみとみるく。正反対でどうしようもなく交わることのできない2人を中心に描かれる。

乖離性同一性障害なんて、いかにも重たそうな内容をコミカルに、けれど真摯に描くその技術に私は驚かされた。

語られるのはくるみの視点だけ。入れ替わった時のみ交わされる2人の交換日記と、くるみが日常に感じる些細な違和感、友人からの言葉の端々から、みるくの行動が明らかになる。昨日の自分を紐解いていくミステリ的展開に私の想像は風船みたいに膨らんだ。

同じ体で違う人を好きになるシーンに心踊って、ワクワクして。

勝手に片方が友達と喧嘩して、もう片方が謝らなきゃいけない場面にやきもきする。

早く。早く続きを。ページをめくる手は止まらなかった。

彼女たちがお互いの関係性に迷うその時に編まれた一文。

「私たちは2人とも同じ世界を生きていて、直接会うことはできなくても言葉を交わすことはできる。それだけあれば友達になるための理由なんて十分でしょう?」

日記に綴られたみるくのその一言に私の心は打ち震えた。

私の情緒はコーヒーカップみたいにぐるぐる回って、感情はメリーゴーランドみたいに巡り巡る。物語とはこれほどまでに心を振り回されるものなのか。

一心不乱に文字を追いかけているうちに物語は最終局面へ、エンドロールは流れ出す。

これ以上彼女の人生を追いかけてあげられないのかと思うとちょっぴり寂しさが募る。添えられたあとがきに目を通すと、私はそっと、別れを惜しむように文庫本を閉じた。

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