第7話カメのやさぐれ冒険記(3)

部屋を出てひとつ階を上がったフロアの突き当たり。ファミレスでよく見るドリンクの機械を目にしてふと。お店の回転率を上げるために、カラオケには喉に悪い飲み物しか置いていないと、この前読んだ物語には書いてあったのを思い出す。真偽を確かめようとメニューとにらめっこして、結局喉に良さそうな烏龍茶を選択。その傍で彼女がメロンソーダにフロートを浮かべて、「渾身の出来。」と満足げに頷く。

その光景を微笑ましく思いながら、彼女がついてこなかったら、トイレでも行ったことにして、少し休もうかとも思ったんだけれどなぁ…なんて嘆息。

仕方ないか。と部屋に戻ろうとしたところで、ちょいちょいと控えめに袖を引かれて。どうしたのかと振り向くと、ヒメさんが「ちょっとお話ししよ。」と廊下の端にある赤色のソファーを指差した。

怪訝に思いながらも言われるがままに腰を下ろすと、続いてヒメさんが僕の隣に腰を下ろす。

ってか近い。近くない?

少し動けば肩が触れそうなくらいの距離。たしかにソファーは広くないけれど…うーん…最近の高校生の、男女距離感って、こんなものなのだろうか…

うん、わからん…

少しばかり動揺していると、脳内サキさんが「親父くさ…」なんてつっこんできて、うるさいうるさいと、追いやっているうちにヒメさんが口を開く。

「亀くんって、歌上手いんだね。」

「う、うん。そうだね。僕も初めて知った…」

「ん?私なんか変なこと言った?」

僕の苦いゴーヤを食べた後みたいな声に少女の首が斜めに揺れる。

「いや。いきなり蔑称でフレンドリーに話しかけてくる人は初めてだったから…」

「蔑称?」

「えーっと…簡単に言えば相手を馬鹿にしてつけた名前のこと。亀は僕の本名じゃなくて、僕のことを馬鹿にして誰かがつけたあだ名なんだよ。」

「ごめんなさい!知らなくて!」

はっと、驚いたように目と口を見開くと、立ち上がった彼女はぶんと音がしそうなくらいの速さで頭を下げる。随分と素直でいい子のようだ。

「いいよいいよ気にしなくて。慣れてるし。」

頭をあげてよと僕は苦笑いしながら返す。

「む…じゃあ、なんて呼べばいい?」

「亀でいいよ。」

「え、蔑称なのに?」

「最初はそうだったけれど。よく僕を表していると思うし、割と気に入ってるんだ。」

そう言って僕は、彼女に僕がどうして亀と呼ばれるに至ったかの所以をかいつまんで話した。

同じことをつい一月二月前に、サキさんに話したばかりだったから、前よりは要領を得て話すことができたように思う。けれどそれでも、授業中の時計の針みたいにゆっくりな僕の話を、 

「そんな悩みを抱えてたなんて…」と涙ぐみながら聞いてくれていた。

話を終えると、「ごめん。なんかうるっときちゃって。」涙腺弱いの私。と恥ずかしそうに目尻を撫でながら。

「でもそんなにお話ししてて違和感はないような気がするよ。確かに話すのが少しゆっくりだなって思うけど。」

風鈴の音のように控えめに、けれど爽やかに彼女は微笑む。

「聞いてくれてありがとう。」

そう、素直にお礼を言いたくなるような、まっすぐな笑みだった。

「そういえば。ずっと気になってたんだけれど、いつもどんな本読んでるの?」

気持ちを切り替えるように声を明るくして、ヒナさんは問う。

「私も本読むの好きだから、気になっちゃって。ずっと聞きたかったけど、なかなか聞けなかったから。今がチャンスだって思って。」

そのためにちょっとお話をしたいなと思って、お誘いした次第でございます。と気恥ずかしかったのか、急にかしこまって彼女は言う。

「とは言ってもライトノベルとか漫画とかしか読まないから、ちゃんとした本はあんまり知らないんだけれどね。」

「ごめんね。」可愛らしく舌を出しながら、彼女は謝辞を口にする。

その姿を見ていたらなんだか笑えてきて。「なんで笑うのよー!」なんて、ちょっぴり顔を赤くしながら怒る彼女を見てもなかなかこみ上げる笑いは収まらない。

「ごめんごめん。」

目の端をぬぐいながら、僕は言う。

「誰かと小説の話ができるのが嬉しくてさ。」

ライトノベルでも、漫画でも、ドラマにアニメだって立派な物語なんだ。その間に優劣や貴賎なんてないと思う。

なんて導入から、僕らは物語を語り合う。

主人公の冒険を。脇役の奮闘を。ヒロインの涙を。その他大勢の蒙昧を。

時に共感し、時に反発しながら、僕らはお話の世界をめぐる。創作世界へのダイビングは、いつだって孤独と隣り合わせで。この美しい景色を、誰かと共有できるなんて思ってもみなくて、初めての経験だったからついつい熱く話し込んでしまって。結構長い時間語らってしまったせいで、戻った時怪訝な顔をするみんなに、言い訳をするのが大変だった。

そしてあっという間に月が登る時間になって、帰り際。今日という日を思い返して僕は思う。

この日、僕は自分が結構歌が上手いことを初めて知った。人の前で歌うのが割と楽しいことも、クラスメイトの女の子が、読書が大好きで、素直でまっすぐなとてもいい子なことも知った。

そして何より、苦手だと思っていたはずの人との関わりが、自分には向いていないと思っていたはずの出来事が。心の底から楽しいだなんて思えてしまって。この感情を誰に伝えたいかと考えると、真っ先にサキさんのドヤ顔が頭に浮かんで。「だめだこりゃ。」と、頭の中の小さな僕が白旗をあげる。

これは僕の根負けだ。何がどうしたって認めざるを得ない。

サキさんに出会わなければ、きっとクラスメイトみんなとカラオケに行こうだなんて思わなかっただろう。そしてカラオケに来なければ、こうやって彼女と笑いながら物語を語り合うこともなかったように思う。

人は誰かと関わらなければ行きてはいけない。人は社会的生き物、故に人間。そう言うふうに考え、名づけたのはいったい誰だったろうか。

お姉さんと関わることで、僕は少しずつ変わっていく。

サキさんが少しずつ変えていく。

少しの間だったとしても、確実に僕の中にサキさんと関わった時間が根付いているのだ。

僕の思い出のいたるところから、笑ったり、むくれたり、茶化したり。空に浮かぶ雲のように多彩な表情で、サキさんは僕をおちょくってきて。どれだけ躍起になっても忘れさせてくれそうにない。

なによりまた、サキさんの楽しげな声が聞きたいから。どうでもいいような話で笑いあっていたいから。

真摯に謝って、許してくれるまで向き合って、最後にきちんと仲直りをしよう。

そうやって笑いあった後に、楽しかった今日の話をしよう。

天蓋は遠く、高く澄んだ冬の空気は満天の星空を鮮明に映し出す。浮かぶ三日月はほの明るく、日の光と比べるべくもないほどにささやかな光。それでも夜空はたしかに僕の行く先を照らす。

逸る気持ちを目一杯に弾ませて、僕は書店へと駆け出した。

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