第4話のろまなカメは夢を見る(2)

「こんにちは。」

扉をあけて一言挨拶をすると、目に入ったのは艶やかな色たち。木枯らしの吹くこの季節には寒いのではないかと疑いたくなるほど露出した肌。ゼリービーンズのように明るく染められた髪。そこにいたのはおそらく学生であろう、4人ほどの女性たちだった。とても楽しそうにおしゃべりに興じる彼女たちは見た目に負けないくらい明るくて、眩しい。暖かな橙色のランプ、木組みの本棚。落ち着いた色に囲まれた店内の中で、彼女らの姿は貼り付けられたテクスチャのように浮いていて。大自然の中に突如人工物が紛れ込んだかのような、そんな違和感がある。目を閉じていても歩けるくらいに通い慣れた場所なはずなのに、僕の知る場所ではないような、そんな疎外感を感じて、少し居心地が悪かった。

けれど店内に入ってしまった手前、今更ここで踵を返すわけにもいくまい。

よしっと1つ気合を入れると本棚の一角からお馴染み読みかけの小説を取り出す。レジ横にあるいつもの定位置が彼女らに占拠されていたのを不満に思いつつも、仕方ないので少し離れた場所にある。高い場所の本を取るためにある台に腰をかける。本を開く片手間にふいと声のする方を見やると、色とりどりの女性の間にサキさんの姿を見つけて、僕は少しホッとした。


それから物語の世界に没入しようと飛び込んで見たけれど、やはりというべきか。どうにも姦しい声が気になり集中できなかった。頑張って読み進めようにも、少しずつ文字の上を目が滑り始める。何度か同じ行をなぞり始めた頃から、やはりダメだなと諦めて、僕は本を読むふりをしながら、甲高い鳥たちの合唱のような会話に耳を合わせていた。

とは言っても、まるでマシンガンのような速さで、目まぐるしく繰り広げられる彼女らの会話の全てを読み解くには、僕の頭はスペック不足で、数分の会話の中から、やっと聞き取れたのは彼女たちがサキさんの大学の友達であることと、サキさんのバイト先を冷やかしに来たことくらい。

しばらくそうやって躍起になって聞き取ろうとしていたけれど、盗み聞きしている自分に嫌気がさして来て、潮時かなと荷物をまとめて席を立とうとする。その時ふと、雑談に花を咲かせる女子大生の1人と目があった。

どうしたのだろうと、疑問に思っていると、彼女たちは互いに目を合わせ、にやりと笑った女性たちがこちらに近づいて来て、

「君が噂の少年?」「やだ近くで見ると結構かわいい。」「そう?私はそうでもないと思うけど。」「美希は趣味悪いからなぁ。」「どうしていつもここに来てるの?」「友達とは遊ばないんだ?」「友達いないんじゃない。」「あぁ、なるほどね。って酷い言い方。」「さきに会いたくて来てるんでしょ?」

いきなり矢継ぎ早に投げかけられる。質問に戸惑っているうちにいつの間にか取り囲まれて身動きが取れない。好奇の目がこちらを向く、晒し者にされるようなその雰囲気はあまり心地よいものではなかった。

「ねぇ、みさきのことどう思ってるの?」

「美希やめて。」

「ダメだよー。さきには彼氏がいるんだからー。」

「そーそー。彼氏と熱々なんだから、横恋慕はだめだよー?」

「ね、みんなやめて?」

「またまた~。恥ずかしがらないの~。」

「はーい。サキは少しお口チャック~。」

眉尻を下げて、困ったような顔をしながら、懸命にサキさんが助け舟を出してくれるけれど、しけた海に攫われて僕の元へは届かない。

姦しく投げつけられる質問の羅列。数に押されて、目に見えぬ言葉の圧力が僕の体を押し返す。マシンガンのようだと他人事のように表現していた言葉のやりとりは、いざ自分に向けられてみると文字通りの濁流だった。どうにか言葉を返そうにも、押し寄せる文の数々に溺れないようにするのが精一杯で二の句を継ぐことができない。

せせらぐ小川くらいの僕の思考回路に、河岸をえぐり押し流すように濁流が流れ込んでいく。

サキさんがなだめようするも焼け石に水。理解が追いつかず、ゲリラ豪雨のようにかけられる言葉の半分も読み取れてはいなかったけれど、端々に聞こえる嘲弄とクスクスと抑えるように笑う彼女たちの笑い声がざらついた表面で僕の心を逆なでした。勢いよく溜まっていくストレスを押さえつけて、どうにか状況を打開しようと頭を回そうにも、どうしてか

「彼氏がいるんだから。」

この一言が耳に引っかかって離れず、サキさんの困った顔が網膜から離れない。

言葉の1つを、表情の1つを向けられるたびに、僕の心の湖に濁った感情がドバドバと流れ込んで、流れ込んで、流れ込んで。

限界だった。一刻も早く、この場所から逃げだしたかった。

「ごめんなさい!」

押しのけるように包囲網を突破して、乱暴にドアを開け、お店の外へと転がり出る。

店を出てもすぐ立ち止まる気にはなれずにそのまま闇雲に地面を蹴り続けて、お店の明かりが見えなくなったところでようやく立ち止まった。

太陽が今日の日にさよならをして、寝起きのようにぱらぱらとまばらにつき始めた街灯のうちの、一本。その根元の近くの壁に背中を預けて、僕は忘れていた呼吸をする。深く深呼吸をすると、体の中に冷気が浸透していくのがわかる。シンと冷えた初冬の大気が火照った体を沈めるようで少し落ち着く。

ほう、と吐いた息が白く空に昇っていくのを眺めていると、読んでいた本を返し忘れたことを思い出す。

まぁ、またいずれ返せばいいやと、投げやりな気持ちで、握っていた文庫本をカバンに放り込む。今更あの店には戻りたくはなかった。

「はぁ…。」

しばらく何もやる気になれそうにない。

心の中は先ほどの大災害で被害甚大。せめて自分の中に溜まったわだかまりを少しでも吐き出すかのように、ため息を繰り返していると聞こえてくるのは荒い息遣いと乱れた足音。

「待って少年!」

追って来たサキさんの顔を見て思わず眉根が寄る。今だけは彼女と顔を合わせたくはなかった。

「さっきはごめん…言い訳させて…」

膝に手をついて、ぜえぜえと息を切らしながらサキさんは言う。

「早く戻ってあげてください。お友達が待っていますよ。」

「でも…」

「大丈夫です。所詮僕はただ客ですから。お友達のが、大切でしょうから。」

サキさんの言葉を遮るように言葉を重ねる。

ほら言わんこっちゃない。頭の片隅でもう1人の自分が肩を落としている姿が想像できた。こうなるだろうから、今サキさんには会いたくなかったのだ。

「…っ!そんな言い方ないじゃない!」

言いたくもないトゲのある言葉が僕の口から溢れ出す。

冷えた空気を目一杯に吸い込んで、冷めたはずの体に、心に再び熱がこもっていく。その熱に当てられて、膨張していく黒い感情が全身から溢れ出す。

そんなことを言いたいはずじゃないのに。サキさんを怒らせたいわけじゃないのに。悲しませたいわけじゃないのに。

「僕たちは住んでいる世界が違ったんです。多分それだけのことだったんです。」

僕はサキさんと同じ世界に生きて入られているのではないかと、夢を見た。そんな都合のいい幻想に囚われていた。

実際はなんてことはない。僕はいつだって歩みの遅い滑稽な亀で。お姉さんは世界を自由に跳ね回ることのできるうさぎだった。

ただ、亀の歩みに合わせて歩いてくれる、優しい優しいうさぎだった。

わかっていたはずなのに、見えていなかった。その現実に、悔しさと、劣等感と。色々な負の感情が溶け合うように混ざり合って。いつもはどれだけ語りたくてもゆっくりとしか流れてこないくせに、この時ばかりは決壊したダムのように泥をふんだんに含んだ汚れた水が、とめどなく溢れ出す。心を超えて、全身から湧き出す感情が止まらない。

助けようとしてくれてありがとうございました。

「気を使ってもらわなくて結構ですから。」

もっとサキさんとお話ししたかったです。

「早く行ってください。」

まるでスイッチが反対に入ってしまったみたいに、本当に言いたいことの裏側が世界に飛び出していく。

「ごめん少年。謝るからさ…」

いつもは時に春の晴れ空のように朗らかに、夏の晴れ空のように意地悪く、秋の晴れ空のように優しいサキさんの目が今にも雨が降り出しそうなくらいどんよりと曇る。

悲しげなその表情に胸が痛んで、その顔をさせている原因が自分であることが沸騰しそうなほど腹立たしい。

胸の内にふつふつと湧く苛立ちの熱量が身を焦がし、僕から冷静さを奪っていく。

「私は、少年のことも大事な友達だと思ってるから。」

「友達」その言葉がどうしてか妙にひっかかる。

「本当の友達って、一体何なんでしょうね。」

思い出されるのは、嵐のような大学生の会話のワンシーン。以前サキさんが話していた隠キャとは対極に位置するであろう彼女らは、毎日を不満なく過ごしているはずであろうに。どうしてか僕には彼女たちが、沈黙を作らないように、会話に間を作らないように。まるで会話が途切れたら死んでしまうかのように。必死に言葉を重ねて会話をつなげているように思えた。

楽しげに話しているはずの彼女たちに、どこか違和感を覚えたのはそんな感覚を覚えたからかもしれない。眩しいと、そう評した彼女らの日常はもしかしたら、湖を優雅に泳ぐ白鳥が水面下では必死に足をばたつかせるように、必死の努力で作られたものなのかもしれなかった。だってその証拠に楽しく会話しているはずのサキさんの表情は、どこかぎこちなかったから。

「常に気を使い合う人たちって、ちゃんと友達って言えるんでしょうか。」

頭の中の声がそのまま溢れた僕の言葉に。

「いいじゃない!お互い気を使い合う友達がいてもさぁ!」

爆発したようなサキさんの叫び声が重なる。

今まで聞いたことのない大声に一瞬、僕の全てがフリーズした。

「もう知らないっ!」

その間にサキさんは走り去ってしまって、僕はその背中を追いかけることができなかった。

遅れて、モーセが割った海が再び閉じるかのように、僕の中で暴れていた感情が叩きつけるかのような勢いで戻ってくる。

持て余した想いをずっと自分の中にとどめていては、いつかこの身が破裂してしまいそうで、

「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

言葉にならない叫び声が、冬の夜空に響き渡った。

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