第3話のろまなカメは夢を見る

どうやら名を知るというのはすごいことのようで、ひとつ僕とサキさんの間にあった壁がひとつなくなったかのように、その日を境に交わす言葉の数が増えて言ったように思う。

「友達と遊んだりしないの?」

「あまり友達多くはないんで。」

「そういえばそういってたね…寂しくはない?」

「ときおり、皆でワイワイやっているのを見ると羨ましく思うときはありますけれど、でもあまり話について行けませんし…まぁ、それに本読んでいれば結構楽しいので。」

「うわー…隠キャだなぁ…」

「隠キャとは?」

「ん?あ、えーっと…」

サキさんは言葉を探すように、というか実際探しているのだろう。目線を彷徨わせた後に。

「あまり人生を充実できていないような…負け組の人たち?」

と疑問形で返すのだった。

「酷いなぁ。まぁ、仕方ないんでいいですけれど。」

「そこを認めちゃうところが君のすごいところよね…」

「?まぁ、事実ですしね。」

「はぁ…」

それからめくられるページの数が50を数え始めたあたりで。

「例えばカラオケとか」

お姉さんが雑誌をめくる傍で話しかけてくる。

「友達と行ったりしないの?」

「行きますよ。極たまにですけれど。」

「え?行くんだ。」

「僕を一体なんだと思ってるんですか。」

「毎日こんな古びた本屋さんに通うくらい暇で友達のいないぼっち男子高校生。」

「サキさんは僕の心を的確にえぐってきますね…」

「でも事実だからしょうがない?」

「そうですけれど、それを人に言われるとなんだか無性にムカつきます。」

「あら、それはごめんなさい。」

そう口では謝っていたけれど、彼女の目元は楽しそうに細められていた。

そのあとサキさんに僕の好きな楽曲なんかを聞かれたりして、僕が素直に答えると「古っ!」と驚いたような突っ込みが入る。流行に乗るのは苦手なのだと、ついでに音が殴り合うような最近の曲がどうも得意ではないのだと、言い訳をすると。それなら君にも合いそうな曲を教えてあげるよとイヤホンを片方差し出してきて、本を読みにきたはずなのに、結局その日は本を読まずに終わってしまった。


時は流れ、木々は少しずつ葉を落とし始める。流れる雲は刷毛で伸ばしたように薄くなり、空は少しずつ高く、秋は刻々と深まっていく。

この頃から、1日をやけに早く感じるようになったのは、日が短くなった影響だけではないのだと思う。最近、学校の数少ない親しい友人に「最近えらく機嫌がいいように見えるけど、何かいいことでもあったの?」と尋ねられ、しまいには「気持ち悪い。」と言われてしまう始末。 

あれはちょっと凹んだ。そして機嫌が良いと、心にも少し余裕ができるのだろう。学校においても、普段あまり話をしないような人たちとも、少しずつ話ができるようになったような気がして、自分に進歩を感じ、なかなかに充実した日々を送ることができていたように思う。

なんにせよ。自分が上機嫌な理由ははっきりしていて。そうやって、自覚できる程度には、僕はサキさんとのたわいのないやりとりを楽しみにしているようだった。

そうやって、空に放った風船のようにふわふわと心を浮つかせているうちに、地上のことがすっかり見えなくなって、僕は当たり前のことを忘れてしまっていたのかもしれない。遡って思えば、そのことがそもそもの原因であったのだろう。


はじめの違和感はお店の外にまで響く楽しげな笑い声だった。

違和感とは言っても、普段と違うという意味であって、別にお店の中から誰かの話し声が聞こえることは不思議ではない。

普段は深い森の奥にひっそりと存在する湖のように静かなこのお店にも、気まぐれに人が迷い込んで、騒がしくなる時もある。

実際、月に1、2回はおじいちゃんの知り合いであろうおばちゃん達が集まって、井戸端会議に興じている時がある。店の中で話さず、よそでやってくれと思わないでもないが、老人の楽しみを奪うのも忍びない。さりとて無視して物語に潜り込もうにも、どうしても耳から入り込む雑音が至高の海を荒れさせて、美しい海の世界を眺めることさえままならない。

故に大抵、ドアの取っ手に手をかけた段階でお店の中の人の気配に気がつけば踵を返して家路につくのだけれど、この日は脳裏に浮かぶサキさんの姿に背中を押されて、そのままえいっ  

と、本の世界の入り口をまたいでしまった。

けれど、このあと起こることを思えば僕はきっとここで引き返すべきだったのだ思う。

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