2-7 思想の純化【2章終】

「コンファさん」

 と、シィーは薔薇の仮面に向かって話しかけた。まだ鈍い朝の光が、川沿いの村を照らし始めた頃だった。

「色々ありがとうございました。僕はそろそろ行こうと思います」

 シィーは言いながら、これを彼に言うのは適切なのか、と少し考えた。自分が世話になったのは幾何学仮面のリッカクであり、つまり身体的に言えば目の前の男なのだが、今の彼は薔薇仮面のコンファになっている。

「雲の糸に、帰るのか?」

 と、彼は自宅の戸から顔を出しながら言った。村人たちはあの塔の町を「雲の糸」と呼んでいた。そういえば、ラクダ車に乗ったシィーの前で最初にそれを言ったのは、コンファだった。

「いえ。また別の町へ行きます。僕は、そういう仕事をしていますので」

「そうか」

 と彼は小さく頷いた。遠くへ行く旅をするのがどういうことなのか、彼らにはうまく飲み込めないようだった。しばらくふたりとも黙った後、

「リッカクの家、食べる分、持ってけ」

 と言って静かに戸を閉じた。部屋に積んである、桃のことを指しているようだった。


 山道に入ってしばらく歩き、村が視界から消えたことを確認すると、シィーはすぐに頭の後ろに手をやり、紐をほどいて仮面を外した。

「ふう」

 と息を吐いた。熱がこもっていたせいで、シィーの顔全体が少し紅潮していた。カバンを開いて麻布のタオルを取り出すと、赤い仮面を包んで中に入れた。

「おつかれさん」

 とエルが言うと、

「やっぱり、視界が狭まるのは落ち着かないよ。僕の仕事は、見ることなんだから」

 と、シィーはぶっきらぼうに答えた。万事において感情を控えているシィーが、唯一その情動を表面に出すのが、仕事に支障をきたしている時だった。

「お前さんも、俺みたいな普通の猫だった方が、仕事が捗ったんじゃねえのか?」

 エルがヒャハハハっと笑うと、

「今までの経験だと、僕が入れない場所よりも、君が入れない場所のほうが多いよ。動物おことわり、って」

「けっ。人間も動物だろうに、エラそうに」

 村を離れるにつれて少しずつ道は狭くなり、上下移動も激しくなってきた。シィーは少しずつ息を整えながら前に進んだ。

「そういや、こいつらが何のために仮面を被りはじめたのか、って話だけどよ」

「……ああ。その話」

「あいつらは設計者の思想に抗ってる、って言ったよな」

「うん。君はそう言った」

「俺だっけ?」

「君だよ」

「まあ、それはどっちでもいい。とにかく昨日、ひと晩考えたんだが、あいつらは設計者の平等思想に抗ってるんじゃなくて、むしろ、より純化したんじゃねえのかな。交換できる仮面を使って、個人を入れ替え可能にしちまえば、これ以上ないくらい、平等だ」

 シィーは道を塞ぐ岩に足をかけ、木の幹を掴んで岩によじ登った。エルがその岩にひょこりと飛び乗ってから、

「なるほど」

 とシィーは頷いた。

「その考えは、ありだと思うよ。エル」

 と言うと、エルは猫に似合わない笑みを浮かべた。

「だろ。3日で忘れちまうのがちょっと惜しくなるぜ」

「大丈夫。僕が覚えておくから」

 とシィーも少し笑った。

「で、次はどこに行くんだ? シィー」

「さあ。前に来たときは川沿いに上流へ行ったけど、今回はあの樹液の林の向こうに行ってみようと思う。前と違う場所に行きたいから」

「蛇に噛まれるなよ」

「そうだね。たいていの毒は僕には効かないけど、あの人みたいに、噛まれたショックで崖から落ちる危険性はある」

 とシィーは言った。崖から落ちたあの人物を、今となってはどう呼んでいいのか分からなかった。森の中の遺体は、少しずつ土に帰っていくことだろう。

「ところで、シィー。俺の記憶が消える前に聞いときたいんだが」

「何?」

「あいつが落ちる前に、お前さんは俺に言ったよな。この道に動物の這った跡がある、って」

「うん。言ったね」

「あれは、蛇がいることに気づいてたわけか?」

 シィーは少し黙って地面を見た。昨日歩いた時と比べて、風で小石が動いた以外には、目立つ変化はない。

「エル、君の言いたいことはわかるよ。僕が『このあたりで蛇が出るかもしれません』って彼らに注意すれば、事故を防げたかも、ってこと」

「別に、お前さんの責任を問うつもりじゃないぜ。ただ、お前さんがそういうことについて、どう考えてるのか、気になってな」

 と言うと、シィーは細い木にもたれて黙った。上り坂が続いたせいで、呼吸を少し整える必要があった。木の葉がかさかさと揺れた。深呼吸をいくつか繰り返したあと、

「見殺しにしたとか、救えたかもしれない命とか、僕はそういう考え方はしないよ。僕の仕事はあくまで、見て、覚えておくことだから。ひとの生き死にに、過度な干渉はしないほうがいい」

 と答えた。エルは少し唸って、

「じゃ、こういう場合はどうだ。目の前に飢えた子供がいて、お前さんは食いもんをたっぷり持っている。それでもお前さんは、そいつが死んでいくのを、ただ見て、覚えておくってのか?」

「そういうときは、食べ物を分けるね」

「その話とこの話は、どう違うんだ」

「飢えた子供はこれから出会うかもしれないけど、蛇のことは既に起きてしまったことでしょ。僕は、終わったことの後悔はんだ」

「……なんか、うまく言えねえけど、矛盾してる気がするぞ」

「そうかもしれないね。でも、論理的な一貫性は必ずしも善じゃないよ。僕は法律じゃなくて、生物なんだから。ある面では自己を維持しようとするし、ある面では環境に適応しようとする。そういうものだよ」

 樹液の林からさらに向こうには、道らしい道はほとんどなかった。村人たちもこれ以上奥には踏み込まないのだろう。移動抑制のこともあるし、第一に用事がない。

「これはちょっと、ヤブを掻き分けて行く感じだね。エル、迷子にならないでね」

「ああ。お前さんも、空気だか空腹だかでダウンするなよ」

「あの桃をたくさんもらってきたから、しばらくは大丈夫だけどね。火をおこす道具もあるし」

 と、シィーはカバンを指した。

「ただ、これだと僕の栄養にはちょっと足りないんだ。村の人たちは必要なビタミン類を自分で合成できるけど、僕はそうじゃないし。なるべく早く次の町に着かないと」

「お前さんの設計者は、栄養を自分で生成できるようには、してくれなかったのか?」

「そうなんだよね。困ったことに」

 と、シィーは苦笑いした。

「キャロルに急かされてる気分になるよ。あまり一箇所に長居するな、ちゃんと動き回れ、って」

「誰だ、キャロルって」

 と、エルはきょとんとした目で尋ねた。

「……そうだね。この山を降りたら、もう一度説明するよ」

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