2-6 交換

 滑落したコンファを追って、リッカクとシィー、そしてエルは、崖を慎重に迂回して降りていった。地元民たるリッカクもこの山道から降りた経験はなさそうだったが、どれだけ道なき道を進んでも、シィーはコンファの滑落した位置を正確に指すことができた。

 コンファは河原の岩場に倒れていた。背骨が大きく折れていて、首も曲がった状態で動きを止めていた。が既に生命の失われた身体であることは、仮面を外すまでもなく明らかだった。背負い荷物の壺が割れて、中身の樹液が服の背中に染み込んでいる。

「蛇、噛まれた」

 と、リッカクはコンファの右足を手にとって言った。綿の服を貫通し、ふたつのU字型の歯型がくっきりと付いている。

 シィーは両手の指を合わせて、うなだれて目を閉じた。

 数秒だけその姿勢を続けた後、目を開いてリッカクの仮面を見た。死者を前にした彼がどのような行動をとるのかを、シィーは見ておかねばならなかった。

 リッカクは黙って、何かを考え込むようにコンファの仮面を見ていた。仮面は土汚れがついただけで、ほとんど傷はなかったが、持ち主の死と同調するように、生命の気配が薄れたように見える。

 異様な静けさだった。川の流れと、鳥の声だけがそこにあった。

 やがてリッカクは意を決したようにしゃがみ込み、コンファの遺体を抱えると、河原から少し離れた森の中に入った。崖の上の山道からは、枝葉に覆われて見えない場所だ。

 平らな土の上に遺体をを載せ、曲がった首と背骨をきちんと揃えて仰向けにすると、両手を組んで、抑揚のない声で淡々と、呪文のような文句を唱えはじめた。エルも、シィーも知らない言語だった。おそらく彼らの間で伝承されている、死者を悼む言葉だろう。

 それが済むと、リッカクは遺体を横に向けて、後頭部の結び目をしゅるりと解いた。

 薔薇の仮面が、ぽろりと地面に落ちた。

 現れたコンファの顔は、シィーが382年前にこの村を訪れたときの村人たちの顔そのままだった。アジア系の人間をベースとした平坦な顔に、切れ長の一重瞼。かすかに開かれた目にはブラウンの瞳。首が折れているものの目に苦悶の跡はなく、ただ眠っているだけのようにも見える。

 遺体を村まで運ぶのか、それともこの場で埋葬するのか。シィーとエルがじっとリッカクの次の動きを待っていると、リッカクはおもむろに自分の後頭部に手をやり、紐をほどいて仮面を外した。

 幾何学模様の仮面の下から現れた彼の素顔は、体格がそうであるように、倒れたコンファとだった。

 それ自体はシィーの想定通りだ。この村は設計者の意図によって、誰もが同じ顔になるように、慎重に設計されていたのだから。だが、あれだけ人前で外すのを避けていた仮面を、なぜ今外したのだろう。シィーとエルの間に、静かな緊張が走った。

 次にリッカクがとった行動は、完全にふたりの想定の外であった。

 リッカクは、自分の仮面を地面に置くと、背中にしょった荷物から、枝を切るための小さなナタを取り出した。

 ぶん、とナタを振り下した。

 仮面は左右に真っ二つに割れた。ぱきっと小気味良い音が森に響いた。

「えっ」

 とエルが小さく声を漏らした。シィーがちらっとエルを見たが、素顔のリッカクの瞳はぴくりとも動かなかった。

 死んだコンファの仮面を拾い、そのまま流れるように自分の顔に当てた。紐を耳にかけ、後頭部で結び合わせた。割ってしまった自分の仮面を、薪と一緒に籠に入れると、

「帰る、村」

 と、シィーに向かって言った。仮面のないコンファの遺体は、そこに放置していくようだった。

 崖を登る経路はシィーが正確に覚えていたので、帰り道もシィーが先導する形となった。小さなシィーの身体を見失わないように、すぐ後ろにリッカクがついていたので、エルは喋ることができなかった。だが、いま目の前で起きたことについて、ふたりは共通の理解に至っていた。

 リッカクは死者に成り代わったのだ。


 村にたどりつくと、コンファの薔薇仮面を被ったリッカクは、荷物も置かずに早足で中央広場に向かった。納屋から例の大きな笛を取り出した。昨日この村に着いて、シィーの仮面の作り手を決めるときに使った笛だ。

 リッカクはあの時と同じように、肺に空気をいっぱいに吸うと、ブオーッと、山を揺らすような低い音を出した。

 前回と違って、リズムはなかった。肺活量の続く限りのロングトーンを、深呼吸を挟んで、ブオーッ、ブオーッと、ちょうど3度続けた。

 3度目が終わると同時に家々の扉が乱暴に開かれて、どよめきと共に人々が広場に駆けつけた。シィーが山道でそうしたように、誰もがきょろきょろと首を振って、互いの仮面を見合わせていた。異様な雰囲気だった。

「コンファ」

 と、笛を持ったリッカクに誰かが声をかけた。

「コンファ、どうした」

 3度のロングトーンは、訃報を意味するようだった。誰が死んだのか、誰が生きているのかを、村人たちは首を振って大慌てで確認していた。

「リッカク、いないぞ」

「リッカク、死んだか」

 幾何学の仮面の不在に気づいて、村人たちが騒ぎ出した。

 薔薇の仮面を被ったリッカクは、真っ二つに割れた幾何学模様の仮面を取り出して、地面にそっと置いた。

 それだけで意味が通じたらしく、村人たちはうーっ、うーっと奇妙な声を出しはじめた。仮面越しで表情がよくわからないが、彼らが死者を悼んで泣いていることは明らかだった。

 シマウマの仮面の姿もその中にあった。集まった村人たちの中で、誰よりも大きな声で泣いていた。


 その晩、リッカクの葬儀が粛々と行われた。

 薪を矢倉のように組み、その上に割れたリッカクの仮面を乗せると、銀色の仮面の老人がそこに囲炉裏から持ち出した灰を移した。下に積まれた枯葉がじわじわと燃えだすと、やがて矢倉全体が燃え上がり、幾何学仮面は炎に包まれた。

 ばちばちと薪がはぜ火の粉が飛び散る中で、村人たちは矢倉を円形に囲み、さっきリッカクが唱えていた呪文を、全員で一斉に唱え始めた。多くの涙声が混じっていたが、仏教徒の読経に似たリズムがあることが聞き取れた。シィーは先ほどの森で文句を覚えていたので、彼らに混じって呪文を繰り返した。

 薔薇の仮面を被ったリッカクも、ほかの村人たちと同じように、とっくに模様の判別できなくなった幾何学の仮面を見ながら、自分を葬る文言を唱え続けていた。

 遺体の行方を問うものはなかった。この村では割れた仮面があるだけで、その人物の死を示すのに十分なようだった。

 薪が燃え尽きて灰となり、半時間ほどで葬儀が終わったが、シマウマはまだ泣いていた。仮面と顎の隙間に涙が染み出ていた。リッカクは彼女の肩を優しく抱いて、ふたりの家へと帰っていった。道中でちらりとシィーのほうを見たが、何も言わなかった。


 シィーはエルと一緒に、リッカクの家に戻った。今夜もここに居ていいのか分からなかったが、確認するべき相手はもういなかった。

 主のいなくなった家には、囲炉裏とふたつのベッドと、仮面づくりの道具が残されていた。シィーがゆっくりと扉を閉めると、

「おい、大変なことだな、ありゃ」

 と、エルが籍を切ったように叫んだ。河原からここまで2人になれる暇がなく、ずっと黙っていたのだ。

「あいつ、死んだやつと入れ替わっちまったぞ」

「……ちょっと驚いたね、エル」

 と言って、シィーは赤い仮面を外した。下から現れたシィーの顔は珍しく、本当に驚いた顔をしていた。

「で、だ、俺はずっと気になってたんだが、シィー。お前さん、あの死んだ薔薇のやつ、ええと、コンファつったよな、あいつが蛇に噛まれた瞬間を、ちゃんと見たか?」

 エルは早口でまくしたてた。シィーは目を閉じて、ゆっくりとそのときの記憶を見た。

「ううん。山道の陰になってて、見えなかったよ。悲鳴と、崖から落ちていくところだけ」

「よし、間違いないぜ。こいつは陰謀による偽装事件だ」

 と、エルは猫に似合わない顔でニヤッと笑った。

「リッカクのやつが事故のフリして突き落として、成り代わっちまったんだ。こんな同じ顔ばっかの村じゃ、仮面さえ入れ替えちまえばわかりゃしねえ。あいつら3人が仲良しだって言ってたから、動機はきっと、痴情のもつれだな。男女が3人集まりゃそうなる」

 と、エルは興奮して言った。

「でも、蛇の噛み跡は本当についていたよ」

 と、シィーは河原に落ちたコンファの遺体を思い出しながら言った。

「そりゃ、えーと、そうだな」

「それに、もし偽装のつもりなら、僕たちが見てる前で堂々とやる訳がないよ」

 シィーが冷静に言葉を重ねると、エルはしばらく考えたあと、

「……じゃ、あれは何なんだよ?」

「リッカクさんが成り代わったのは本当だよ。崖から落ちたのは、きっと本当の事故だ。だけど、あくまで僕の解釈だけど、あの仮面の入れ替えは、偽装じゃない」

「どういうことだよ。猫にも分かるように言えよ」

「つまり、この村ではあれが普通の行為なんだよ。死んだ誰かの仮面をもらって、というのが」

「は?」

「ここの村は、遺伝的にも形質的にもきわめて均一な人たちだ。そういうふうに設計されているからね。だから、個人の本質を表すのが、遺伝子や、それに基づいて作られた身体じゃなくて、仮面なんだ。仮面の入れ替えは偽装じゃなくて、本当に個人の入れ替えなんだよ」

「じゃ、ここの連中は、もしかして、えーと、そうだな」

 と言って、エルは少し黙った。

「自分が誰かと入れ替わりたいって思ったら、そいつと仮面を交換して、別人になっちまったりもするのか?」

「してるかもしれないね。長く居座れば分かるよ。僕なら、身体の微妙な違いを見分けられるからね。それまで、この村に残る?」

「……いや、そこまで知りたくはねえよ」

 と、エルはぶるっと首を振った。

「見たくもねえよ。そんなふうに生きてるやつらなんてのはさ」

「少なくとも僕にとっては、そんなに変なことじゃないよ。人の本質はなにも、身体の連続性だけじゃない。もし僕の身体がこのままでも、記憶が失われたり、書き換えられてしまったら、それはもう、僕じゃない」

 と言うと、小さなあくびの音が聞こえた。暗い部屋でよくは見えないが、シィーはもうベッドに入っているようだった。

 しばらく沈黙が続いた。

 外でがさがさっ、と音が響いた。エルはびくっとして、ドア下の隙間から外を見た。誰の姿もなかった。風が草を揺らす音だった。

「も、もしかしたらあの野郎、寝てる間に、この家に入ってくるかも知れねえぞ。あのナタで俺たちをブッ殺して、証拠隠滅したりな」

「そうだね。それじゃ、エルが見張っててよ。退屈しなくて済むよ」

 そう言うと、シィーは部屋の明かりを消すように、すとんと眠りに落ちた。

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