2-2 仮面の三人
山肌から吹き付ける風が貨車のまわりを渦巻いて、シィーは身体を小さく丸めた。
朝の空気はずいぶん冷え込んでいた。ラクダと呼ばれた荷駄はどこかに消えており、貨車だけが山の中の平原にぽつんと放置されている。昇ったばかりの朝日が稜線のむこうにあり、平原に細長い影を落としている。すぐそばで水の流れる音がする。小さな沢があるようだった。
「起きたか、シィー」
瞼が小さく開いて、淡褐色の瞳が素早く左右に動いた。控えめに開かれた口に冷たい空気が吸い込まれ、
「おまたせ、エル」
と吐き出した。
「お前さんの設計者は、眠らなくていい遺伝子は作れなかったのか? 夜が退屈で仕方ねえよ」
「動物から睡眠をなくすのは難しいよ。イルカは脳が半分ずつ眠るから、その方式の別種も研究されていたけど、実用化されなかったみたい」
「ほー。なんでだ」
「海棲哺乳類は、完全に眠ったら息継ぎができないから」
「そっちじゃねえよ。別種のほう」
シィーは組んだ両手をまっすぐ前に伸ばして、全身を少し震わせた。
「詳細はわからないけど、やっぱり、普通に寝るほうが効率的だったんじゃないかな。失敗した研究はちゃんと成果発表されないから、資料が残らないんだよ」
「なるほどな。じゃ、仕方ねえな」
シィーは貨車の中で立ち上がり、全身の関節を少しずつほぐしはじめると、エルは前足でシィーの背後を指した。
「で、この状況はどうするべきだと思う?」
シィーが関節を少しずつ動かして振り向くと、川向うの森に、何か動くものの気配がある。
野生の獣ではない。3つの人影が、用心深い足取りでこちらに近づいて来ている。
草深い山道を歩きやすいように、足に脚絆が巻かれている。朝露が染みない革地の服を着ており、背中には草を編んだリュックサックを背負っている。山を住処にする文化圏らしい服装だが、ひときわ異様なのは、3人とも顎まで覆う大きな仮面を被っていることだった。
仮面たちも既にシィーに気づいているらしく、互いに仮面を見合わせて、小声で何か話しているようだった。
「たぶん、この荷物の引き取り手だね。あの背中に持ってるのが、彼らの商品なんだ」
シィーは落ち着いた声で言ったが、3人とも仮面で顔を隠しているのは、言いようのない威圧感をエルに与えた。
「もし戦う必要があんなら、少し離れてろよ、シィー」
「大丈夫だよ、彼らは武器も持っていないし。それより、今回の方針を確認するよ、エル」
「……おう」
「ここの人たちが〈記憶人〉を知ってるかもしれないから、僕はただの旅人。あと、エル、君は普通の猫なので、言葉を喋らない。いいね」
「ああ。ちゃんと覚えてるぜ」
だが、未知との遭遇に威圧されたのは、むしろ仮面の3人のほうだった。
シィーと仮面たちの間には小さな沢が流れているが、3人はその向こう側で、貨車の中に人がいるという想定外の状況に、どうするべきか判断しかねていた。ひとりが落ちている枝を拾ってシィーに向けたが、別のひとりに諌められてそれを地面に置いた。警戒させるな、という意味のようだった。
仮面たちはみな黒い髪を肩まで伸ばし、体格も3つ子のようにそっくりだった。見分けられるのは仮面のデザインだけだ。ひとりは白地に黒でシマウマの縞のような模様を走らせており、ひとりは黒字に金色の薔薇が全体に散りばめられていた。もうひとりは、萌葱色に六角形の幾何学模様を張り付けていた。本来全身に分散すべき個性を、その一点に集約させているように見える。
不自然だったのは、3人が近寄る時も今もシィーの顔を直視せず、目線を逸して胸や脚のあたりを見ていることだった。仮面の目穴が小さいので、どこを見ているかは首の向きだけでよく分かる。
ようやく意見がまとまったらしく、幾何学模様の仮面が、両手を振りながら叫んだ。
「おい、そこのお前」
仮面には口穴が開いており、音はよく通った。男とも女ともつかない声だった。
「はい」
「お前。言葉、分かるか?」
顎までかかった彼らの仮面は、声にあわせて少し揺れた。やはりシィーの顔を見ずに、胸から腰のあたりに目線を向けていた。
「はい、大丈夫です。大抵の言葉は分かります」
シィーの返事で敵意がないことを察したらしく、3人は飛び石を踏んで沢を渡り、貨車を正三角形に取り囲んだ。シィーの正面には幾何学仮面が立っていた。
「私たち、大き虫の荷物、取りに来た。お前、荷物とは、違う?」
「僕は、ただの旅の者です。塔の町の委員長の厚意で、ラクダ車に……」
と言いかけてから、
「塔の町の人に頼んで、大き虫の車に乗せてもらったんです」
と言い直した。どうやらここでは、あの六本足の荷駄は昆虫に分類されているらしかった。
「塔の町?」
と言うと、後ろにいた薔薇仮面が上空を指して言った。
「雲の糸のことだ。あれは塔だ。爺さん言ってた。大き虫は、あそこから来る」
シィーが薔薇仮面の指したほうを振り向くと、中央塔がまだかすかにそこにあった。この距離で見ると、天から垂らした糸のように見える。
「雲の糸から、人来ることある」
「村、連れてくか」
「そうしよう」
「待て」
と、3人は向き合ってまた何か相談したあと、シィーの顔を指差して言った。
「その格好、村に来る、困る」
「村、子供もいる。見せられない」
「はい。わかりました」
と、シィーはカバンを開いた。麻布のタオルを鼻から下に巻き、帽子で髪を覆い、目だけが露出する形になった。
「これでいいですか?」
麻布ごしにくぐもった声を出すと、
「鼻の形、見えてる」
「恥ずかしい」
と仮面たちは笑い出した。シィーもとっさに合わせて笑った。カバンから着替えのシャツを取り出して、顔の下半分に巻きつけてると、どうにか顔の凹凸が見えなくなった。
「それでいい。行こう」
と、幾何学仮面がはじめてシィーの目を見て言った。シィーも仮面の中の目を見た。人間と同じ形の、ごく普通のブラウンの目と、少しカールした睫毛が、深い目穴の中にぼんやりと見えた。
彼らの村までは、涸れ沢を登っていくようだった。
もう太陽はすっかり昇っていたが、道は木が生い茂って薄暗い。斜度はゆるいが仮面たちの歩みは速く、シィーの吐息が首に巻いたシャツを濡らしていく。薔薇とシマウマの2人がシィーの前を歩き、幾何学が後ろについた。エルは斜めに削れた涸れ沢の側面を、シィーの目線の高さで器用に歩いていた。
「顔を出してるのが恥ずかしいのか、こいつらは」
エルは仮面たちに聞かれないように、小声でささやいた。
「そうみたいだね。別種は人間以上に、いろんな文化があるから。171年前に行った町は、服を着るのが恥ずかしい、ってところだったし」
「ほー。そりゃ、神話みてえな町だな」
「そうだね。だけど、ある若い女の人が、部屋で一人の時にこっそり服を着ていたんだ。スカートを袋に偽装したりしてね。僕の余っていたシャツを一着あげたらすごく喜んでいたけど、着てるのが両親に見つかって、燃やされてしまった」
「その女が、か?」
「服が、だよ。死罪になるものは渡さないよ、さすがに」
「違えねえな」
エルがヒャハハハっと笑うと、薔薇仮面が振り向いてふたりを見た。とっさにふたりとも黙ったが、それは不審な声のせいではなく、
「村、着いた」
という手招きだった。
そこは山の中にポケット状に開かれた土地だった。小川に沿った一本道をメインストリートとして、その両側に家が並んでいた。家はどれも原始的な丸太小屋で、道の奥には果物畑が見える。そして予想通り、シィーの視界に入った村人たちは、大人も子供も、腰の曲がった老人も、みな仮面をしていた。
仮面の造形は、素材も色も模様も形も実にバリエーションに富んでいた。顔を隠すという点さえ守れば細かい造形は不問らしく、上下に割れた仮面や、頭部全体を覆うマスクもあった。2枚被っている者までいる。
「こりゃ、変なお祭りに来ちまったみてえだな」
とエルがささやくと、シィーは普段以上にゆっくりと首を動かして、濡れたシャツの内側から小さくつぶやいた。
「エル。僕、この村に来たことがある」
「マジか」
「うん。あの涸れ沢とは別の道から来たから、気づかなかったよ。建物は全部変わってるし、小川の流れもちょっと違うけど、山の稜線が一緒だ」
「ほー。いつ頃の話だ」
「382年前。君と出会った少し後だね」
「……俺たちが出会ったのは、400年前、つったよな?」
「427年と5ヶ月」
エルは何か言おうとして、シィーの背後を見てとっさに黙った。
「お前、仮面、作る。ついてこい」
と幾何学がシィーの背中を押した。
前を歩いていた薔薇とシマウマは、貨車から集めた荷物を持ってとっくに姿を消していた。幾何学がメインストリートを先導し、その後ろをシィーとエルがついていった。シャツを顔に巻いただけの格好はここでも目立つらしく、村の子どもたちがシィーを指差して変な声で嘲笑っている。
「でも、変だな」
と、シィーは足元のエルに向かってつぶやいた。
「前に来た時は、誰も仮面なんて被ってなかったんだ。みんな顔を出して普通に生活していたよ。服は着ていたけど」
エルは黙ってそれを聞き、相槌をうつように耳をぴこぴこと動かした。
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