2章 仮面舞踏会
2-1 ラクダ車にて
三日目の月はとうに西の空に沈んだ。
天球に垂らされた天の川の光の筋は、雲と見分けられないほど明るい。地平線の見える平原はいつのまにか過ぎ去り、ラクダ車は岩の露出する山道に入っていた。乾いた草がぽつぽつと生えている。
シィーは浅い寝息を立てていたが、エルの目は眠るという概念を知らないようにぎょろりと見開かれて、貨車の内壁をじっと見ていた。
「なあ、シィー。どうもさっきから気になってたんだが」
エルが囁いた。
シィーはゆっくりと目を開くと、腕をぎゅーっと伸ばした。貨車の振動に合わせて、その腕がゆっくりと上下に振れる。
「何?」
「起こしちまったか、すまねえ。ただ、どうしてもひとつ確認してぇんだが」
「別に構わないよ、エル」
「俺たちは、この世界を、400年一緒に旅してる。そうだよな」
「427年と5ヶ月だね」
「ああ。そんで、俺は、お前さんのカバンの中身を、今日と、4日前にも聞いたんだな?」
「そうだよ。それが78回目で、今日が、79回目」
「つまり俺は、平均して5年に1度しか言わないはずの質問を、5日で2度したってことだ」
シィーは少し息を吸うと、寝ている間に肺に溜まった老廃物をすべて押し出すように、長い息を吐いた。
「そうなるね」
「それは、俺の記憶がちゃんと消えなくて、4日前の質問を無意識に覚えていた……って事じゃ、ねえのか。おかしいだろ、確率的に言って」
エルが不安そうな声をあげると、シィーは少し笑って答えた。
「違うでしょ、エル。僕のカバンが盗まれたから、君はその中身が気になったんだよ」
「……そうか」
と、エルは低い声でくくっと唸った。
「言われてみりゃ、そういう話の流れだったな。何をくだらねぇ心配してたんだ、俺は」
床板に寝転んで、安堵したようにため息をついた。シィーは手でぽんとエルの背をなでた。
「神経質になりすぎだよ、エル。君の記憶は、ちゃんと3日で消えているよ」
その「大丈夫」は、かつてキャロルが何度もシィーに繰り返した言葉だった。シィーは今それを、まったく逆の意味で使っている。
キャロルはシィーに言っていた。成長因子の投与によって記憶が消えても、大丈夫だと。
シィーはエルに言っている。彼は記憶が消えるから、大丈夫だと。
脳裏にいくらかの不協和音が生じたが、シィーは言葉を続けた。
「エル。君はランダムに言葉を出しているわけじゃないんだ。ちゃんと自分の目で世界を見て、耳で聞いて、そうして言葉を選んでいる。ただ覚えていないだけ。確率で考えなくていい」
エルは身体をぶるんと震わせたあと、抜けきらない不安を頭から追い出すように、鼻でフフンと笑う。
「悪かったな。わざわざ起こして、くだらねぇ事聞いちまって」
「君にとっては、大事なこと、なんでしょ」
エルは黙っていた。貨車の壁に登り、しばらく外の景色を見たあと、
「こいつは、俺の知ってるラクダとは、ずいぶん違えな」
と、貨車を引く家畜に向かってつぶやいた。ラクダや牛馬の荷駄と明らかに違うのは、その綱が身体に縛られておらず、首のあたりから生えた小さな腕に握られていることだった。ちょうど人力車のような形だった。
「そうだね。普通のラクダは脚が四本だからね。それに、人が同行するものだ」
「どこに向かうんだろうな」
「たぶん、どこか決められた場所に、この貨車を置いていくんだ。すると、別の集団がその荷物を取りに来て、その品物の価値に応じて、自分たちの荷物を置いていく。別種どうしの取引は、大体そういう感じだね」
「真面目なヤツらだな。一方的に持っていっちまうやつとか、いねえのか?」
「そうすると、次の取引ができなくなるから、長い目で見ると損なんだよ」
とシィーが言ったが、エルは不思議そうな顔をした。長期的な損得という考え方が、記憶の続かないエルの頭には馴染まないようだった。
「ラクダに任せずに、自分で乗って取りにいきゃあいいのに」
「ヒトの別種は、生まれた土地を動きたがらないんだよ。塔の町の人たちだって、ほとんど町の外に出なかったでしょ」
「ほー。何でだ」
「別種のゲノムを設計するときは、生態系を乱さないように、そういう移動抑制を入れておくんだ。帰巣本能を強めにした定着本能をね。国際条約でそう決まっていたんだよ」
「ふむ。DNAでできた檻、ってことか、つまり」
「そういう言い方もできるね」
「なるほどな。あいつらが急に哀れに思えてきたぜ」
エルは貨車の後方を見た。中央塔はすでに闇夜に消えて、彼らを比喩的に閉じ込めている城壁の姿はもう見えない。
「人間にとっての恋愛みたいなものだよ。それが子孫を残すために据付けられた本能だと彼らは知っていたけれど、それを否定しようとはしなかった。むしろ、もっとも尊ぶべきものだと考えていた」
「哀れなのは皆一緒か」
と言ってエルは壁から降りて、貨車の上に少し寝そべって、それからばっと顔を上げた。
「……ちょい待てよ、シィー。そんじゃ何で、お前さんは生まれたロンドンから動き回ってんだよ。記憶人もヒトの別種なんだろ」
「そうだよ。よく気づいたね」
と言ってシィーは少し笑った。
「それじゃ、ヒント。別種の移動抑制は、生態系を乱さないのが目的だったんだ。つまり、別種同士が交雑して、遺伝子が混ざるのを防ぎたかった」
エルは少し考えて、貨車の上の砂粒を身体にまぶすようにごろごろ転がってから、首だけ上を向けた。
「分かった。お前さんは子供を作れねえから、移動抑制も入ってねえんだな」
「正解。非生殖種には、そういう例外規定があったんだ」
とシィーが言うと、エルは納得してまた転がりだした。おそらくこの会話も、ふたりの数百年の旅の間で何百回も交わされたことなのだ。エルが忘れてしまっても、彼が理解したという事実が、シィーにとって意味のあることなのだろう。
「じゃ、お前さんは、死んだら終わりか」
「すべての生物は、死んだら終わりだよ」
「だが、お前さんは自分の遺伝子を残したりはできないわけだ」
「そうだね。だから代わりに、記憶を残してる」
と、シィーは自分の耳たぶを指した。ピアスのような小さな膨らみがそこに垂れていた。
背後の夜空には無数の星が広がっていた。人間の歴史の最後まで未知の象徴でありつづけた、銀河の恒星たちの光だった。
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