1-10 カバン泥棒

「ねえ、エル」

 と、シィーは足元の黒猫に囁くように言った。

「僕のカバンが、この棚からなくなってる」

「マジで?」

 エルは首を伸ばしたが、彼の位置からは棚の中身は見えなかった。

「他の場所に置いたんじゃねぇのか?」

「僕は場所を間違えないよ」

「……それもそうだな」

「僕たちが最上階にいる間に、誰かが持ち去ったんだね」

「おーおー。こいつは不用心だったな。ついてなかったな」

 エルが軽く笑うと、シィーも少し困り笑いを見せてから、

「そうだね。ついてない泥棒だ」

 と、同情するような声で言った。

「記憶人からモノを盗むのは、難しいんだよ」



 荷物をぎりぎりまで積んだ上りのエレベーターに比べると、下りの箱はそれなりに空間的余裕があった。煉瓦を下ろして空になった荷台に、シィーとエルは乗せてもらうことになった。ちゃんとした場所を開けさせますよ、という作業長の義理的な申し出をシィーは丁寧に断った。

 エレベーターは落下したのかと思えるほど急速に加速し、レールの僅かな歪みを受けて拷問器具のように激しく揺れた。作業員たちは壁と荷台に身体をしっかりと挟んで、舌を噛まないようにじっと黙っていた。荷台に乗ったふたりはそうした制御ができず、膝や腰がごんごんと壁にぶつかった。

 ほどなく減速がはじまると強烈な重力が全身に加わり、地上に着いた頃にはシィーのコートは土埃で白くなり、エルも白黒のバイカラーとなっていた。

「大丈夫だった? エル」

 一階フロアのドアが開き、シィーは手で土埃を払った。

「まあな。猫は三半規管が発達してるって言うからな」

 と、エルはあまり関係のなさそうなことを言った。

「だが、こうもあっさり降りれちまうと、俺たちの3日間の努力がバカにされたみてぇだな」

「エレベーターを造った人の努力が、もっと凄いってことだよ。488年も動いてるなんてね」

「っと、ボサッとしてる場合じゃねえ。カバンを探さねぇとな」

「慌てなくても大丈夫だよ。もう、盗んだ女の子の顔はわかってる」

「女の子?」

 エルは居住階の風景を思い出したが、子供らしき顔はシィー以外にひとつも見当たらなかった。

「なんでだ。盗む現場を見てたのか?」

「それなら、その時に止めるよ」

「じゃ、何なんだよ」

「消去法」

 と言って、シィーは積荷のまわりに集まっている10人の男たちを指した。

「僕が来たとき、居住区には131人の人がいた。最上階を見て降りてくるまでの間に、新しい顔が15人増えて13人減っていた。エレベーターで移動したんだ。で、降りたうち10人は、そこで次の荷物を積んでる」

 エルはその男たちの顔をまじまじと見たが、どれも同じような顔にしか見えなかった。そもそも、この町の住民がみな似た顔にしか見えなかった。

「もう2人は洗濯のおばさんで、そこで談笑してる。だから、残りのひとりがカバンを持ち去った人ってわけ。煮炊きをしていた16か17歳くらいの女の子。背丈はこのくらい」

 とシィーは右腕をまっすぐ上に伸ばした。

「なぁ、シィー。今からすごくつまらねぇこと言うぞ」

「どうぞ」

「お前さんがその顔で、17歳の、って言うの、かなり違和感あんだが」

「そうだね。じゃ、探そうか」

 と言って、シィーは少し早足で歩き出した。

「ちょい待てよ、シィー、エレベーターで降りてねえってことはねぇのか? カバンを居住区のどこかに隠したとか……」

「隠してはいないよ」

「なんでだよ」

「物陰に隠したら、物が動くでしょ」

「……ああ」

「動いてなかった」

「何が?」

「布のシワとか、棚の上の砂粒とか」

 エルは少し考えて、シィーの言っていることを飲み込んだ。

「シィー、お前さん、結構怖いな」

「君がそれを言うの、287回目だよ、エル」

 最初に塔に来た早朝時と異なり、塔の前は大勢の人々で賑わっていた。持ち込まれた資材をエレベーター用の荷台に積み替えて、書類を渡しながら話している。足跡や荷車の跡が乾いた地面に模様のように付いている。

「で、こっからどうすんだよ。まさか、臭いで追えるとか言い出さねえよな」

「そういうのは、君のほうが得意そうだけど」

「ああ? 俺は犬じゃねーよ。一緒にすんな」

 と、エルはやや芝居がかった怒りを露わにした。普通の猫は犬と一緒にされると怒る、という認識が彼にあるようだった。

 シィーはそのまま少し歩いて、建築委員会本部を出たところで、広場に積まれている小さな城を見た。子どもたちが合戦遊びで造ったものだった。

「エル、あそこから壁の上に登れる?」

 それを踏み台にして城壁に登れ、という意味らしかった。

「ああ。このくらいなら行けるぜ」

「じゃ、そこから東に35メートル、南に12メートルのところで待機して。泥棒の女の子はそこを通る」

「なんで分かんだよ」

「中央塔から外側に行こうと思ったら、どの経路でもそこを通るしかないんだ。上から見れば分かるよ」

「……そうか」

 と呆れたような顔をして、言われたとおりに走り出した。走りながら、エルはいくらか泥棒に同情する気分になっていた。合戦遊びの子どもたちが、今なにか黒いものが通らなかったか、と不思議そうな顔をした。

 普通の猫とは思えない跳躍力で壁から壁に飛び乗って、あっという間に指定の場所についた。迷路のような町を壁越えでショートカットしたため、先に出たはずの泥棒を追い越したらしく、すぐ後にシィーの言うとおりの背丈の少女が、見慣れた茶色のアタッシュケースを持って小走りに現れた。

「居やがったな、泥棒猫ちゃんが」

 と叫んで、エルは地面に飛び降りた。

「おい、手癖の悪い姉ちゃんよ。そのカバンは俺の相棒のモンなんでな、ちょっと返してもらうぜ」

 とエルは威嚇するような声で叫んだ。少女は目の前の獣が喋っているという事態をうまく飲み込めず、カバンを持ったまま不思議そうな目をした。

 四本の足が地を蹴って、乾いた砂埃が宙を舞った。黒い塊が泥棒少女のほうに真っ直ぐ跳んだ。少女は反射的にカバンを盾にしたが、衝突の衝撃に耐えかねてカバンは地面に放り出された。エルはそのまま着地すると、素早く体勢を整えて再び跳んだ。

 身を護るものがなくなった彼女は、なんとかエルを両腕で掴んだ。想像よりもずっと重く、骨の痺れる音がした。彼女はそれを壁に向かって放り投げた。だがエルは城壁を蹴って少女のほうに跳ね返り背中に体当たりをすると、彼女はあっさりと倒れた。じゃらりと金属音が鳴った。

「ざまあ見ろ、猫は三半規管が発達してるんだぜ」

 と言ってシィーのカバンの方に駆けつけて、それをどうしたらいいか分からず、とりあえず上に乗った。倒れた少女は膝を打ったらしく痛そうに足を抱えていた。騒ぎを聞きつけて町の住民たちが集まってきていた。

「さて、カバンは確保したものの、俺の体格じゃこのまま制圧するのは無理だな……おい、そこの兄ちゃん! 悪いが、警察とか呼んできてくれねぇか?」

 と、目に入った若者に叫んだ。だが彼は誰が喋っているのか分からない、という様子できょろきょろと首を振った。

「おい、何ボサッとしてんだ、頼むぜ」

「おーい、エル」

 ようやく現場に駆けつけたシィーは、息切れしながらエルの脇に立って小声でささやいた。

「エル、あのね、普通の猫は、喋らないんだよ」

「……そうなのか?」

 エルがきょとんとした顔をする頃には、通路の両側にちょっとした人だかりが出来ていた。

「もっと早く言えよ、そういうことは!」

 エルは大声を挙げると、町の住民たちはぎょっとした顔で彼を見て、なんだあの獣は、と口々に話していた。


 この騒ぎは後に中央塔の書記官たちにも伝わり、歴史記述の〈記憶人シィー〉の項目の隣に〈黒猫のエル〉の話が刻まれることになる。「四足獣の忠臣、尖った耳のある他は小型犬に似る。主人の荷物を盗みし泥棒を捕らえり。三半規管の発達著しく、その運動の機敏なること、熟練のとび職人に勝るとも劣らず。人語を解しその声は青年男子の如し」と記述されている。

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