1-9 最上階にて

「風が! 痛えんだよ! 風が!」

 エルの叫び声は中央塔を貫く空気の奔流にかき消され、背後にいるシィーには届かない。地表からの距離はすでに1000メートルを超えていた。

「風圧を内部に通して、逃がす構造になってるんだ。普通のビルだったらこんなことしないよ、フロアが使い物にならなくなる」

 シィーは両手でカバンを抱えて言ったが、その声もやはりエルには聞こえていないようだった。

 塔の最上部にたどり着いたのは3日目の午後だった。時間をかけて気圧に順応したおかげでシィーの体調は初日よりも良好だったが、この段階で問題になるのは、高度が上がるほどに苛烈さを増す風のほうだった。

 フロアに積まれたままの端材のいくつかが、風に押し流されていく。窓から下の町に落ちたらひどい事故になりそうだが、あくまで塔のために町があるのであって逆ではない、という住民の態度を示しているようにも見える。

「これ、下手すりゃ人も落ちて死ぬんじゃねーのか!?」

 エルが必要以上の大声で叫ぶと、背後まで近づいていたシィーは言った。

「死んでるよ」

「は?」

「昼ごはんを食べた店があったでしょ。あの店のお父さんが、中央塔の作業員だったんだよ。でも、落ちて死んじゃったって」

「昼飯? いつの昼飯だ?」

 エルが不思議そうな顔をした。シィーがコートから懐中時計を取り出すと、屋根のない店で昼食をとってから、3日と数時間が経過したところだった。


 最上階から下3階は作業員たちの居住階となっており、そこまで登るとふたりはようやく一息ついた。

 階段での来訪者を想定していなかったらしく、居住階のドアを押すと積んであった荷物が派手な音を立てて崩れた。夕飯の煮炊きしている女たちがぎょっとした顔でシィーを見た。

 居住階の窓は合板で塞がれていたので、外の風は猛烈な音を立てるだけで中に入っては来ない。外光が入らず小さな電球が天井から吊るされており、部屋は全体的に薄暗い。あちこちに無造作にハンモックが置かれ、仮眠をとっている作業員もいる。百人近くがここで塔の建設に従事しているようだった。

「ああ、〈記憶人のシィー〉さんですか」

 と、煮炊きのそばで暖を取っていた壮年男が面倒そうに話しかけた。彼は自分がここの作業長で、建設委員長から電話でシィーの来訪を聞いていた、と話した。

「お待ちしていましたよ。こちらへどうぞ」

 と作業長は言ったが、その表情には隠しようもない戸惑いの色があった。なぜ自分がこの外来の少年に、神聖な塔の建築過程を説明しなければならないのか、飲み込めていないようだった。

 居住階の上は今まさに煉瓦を積んでいる途中の最上階があるので、それを見せてほしいとシィーが言うと、作業長はやはり面倒そうな足取りで螺旋階段を登り始めたあと、

「そちらのお荷物はここにでも置いておくと良いかと。上は風が強いですし」

 と、フロアに置かれている棚を指した。作業員が私物を置くスペースのようだった。

「はい。ありがとうございます」

 と言って、シィーはカバンをそこに置くと、階段を登って建設中の最上階に出た。

 天井のまだない最上階では、数十人の作業員が風に煽られながら煉瓦の外壁を積んでいた。地上から積み込まれた煉瓦がフロアに山となっており、それを外壁に積み、風で飛ばないように仮止めしていく。

 彼らの動きは、音のないオーケストラのように規律的だった。生体分子が協奏的な化学反応によってマクロな身体を形成していく様を思わせた。これだけ巨大な塔が人の手で組み上げられた、というにわかに信じがたい事実に対し、その動きはいくばくかの視覚的説得力を与えた。

「もうじき雨季ですからな、今は追い込みの時期であります」

 作業長はシィーに向かって説明した。

「乾季の間に一階層分の煉瓦を積んで、雨季が来る前に接合材を塗るわけです。雨で接合剤が固まると、その上に次の階を積むのです。エレベーターもそれに合わせて、一階層分引き上げられますな」

「ということは、ここが今488階ですので、中央塔の建設は488年前に始まったのですね」

 シィーが尋ねると、作業長は少し考えて答えた。

「ふむ。概ねそんなところでしょうな。なにせ、随分前に数えるのをやめたものですから」

 作業員たちは作業長とシィーの方には目もくれず、淡々と煉瓦を積み続けていた。煉瓦を積むことが彼らにとってもっとも自然な状態であり、それ以外の行為が不自然であるかのようだった。「中央塔で働くのが名誉なことである」という店員の話も、彼らの表情から真実味がうかがえる。

 宇宙から地球を監視する者がいれば、この塔は植物のように見えるかもしれない。太陽光を効率よく取り込むために、作業員というミクロな構成要素を使って、年に一階ずつ断続的に伸長する植物。それは成長因子によって断続的な成長を重ねたシィーの身体に通じるところがあった。

 作りかけの窓から下を見ると、町はグラスを乗せたコースターのように小さく見えた。北側の彼方に青く霞んだ山並みが見える。地上からは地平線しか見えなかった方角だ。

「あれは何の町ですか?」

 とシィーが山並みのほうを指さした。中腹を流れる川沿いにいくつかの建物が見える。畑らしき水平面に青々とした葉が茂っており、今も生きている人里のようだった。

「あれは町ではありませんな。塔が見えませんし。商隊の取引所かなにかでしょう」

「商隊がこの町には来るのですか?」

「そうですな。エレベーターの繊維などは町では作れませんからな。北門の市場あたりでラクダ車が往来しているとのことです。まあ、私はずっとここで寝起きしているので、北門に行ったこともないのですが」

 作業長がそう答えると、シィーは黙って頷いた。

 最上階を一周して風景を一望すると、シィーはすぐに階段を降りてしまった。景色をすべて記憶できる記憶人にとって、外に長居する必要がなかったのだ。居住階の煮炊きに集まって、暖かい飲み物を一杯もらった。家畜の乳をさまざまなスパイスと煮こんだ不思議な飲料だったが、風で冷えた身体を温めるには良さそうだった。

「雨季が終わったら、どうするのですか」

 シィーは作業長に尋ねた。

「居住階を一階ずつ上げます。いま建てている最上階が居住階になるわけですな。そして、その上にを積みます。新階層を着工するときは、委員長にもここにお越しいただきます。それが一年のはじまりでもあり、町でいちばん重要な儀式です」

「その次の年は」

「同じことをします」

「いつまで続けるのですか」

「これは天国への門ですからな。天国に達するまで続くでしょう」

「天国に達すると、どうするのですか」

「町の者たちを順にエレベーターに乗せて、天国へ引き上げるでしょうな。建設委員会の教えにはこうあります。天国には無尽の建材があり、富める者も貧しき者も、誰もが自分の塔を積むことができる、と」

 作業長の言葉に、シィーは少し考えてからつぶやいた。

「なるほど。それは、確かに、天国ですね」

「ええ。私どもの代では届かぬと思いますが、いずれ我らの子孫が成し遂げるでしょう。私の家は代々ここの作業員でしてな、父も祖父もそう信じて、煉瓦を積んでおりました」

 と、作業長は誇らしげに言った。

 居住階の中階では、書記官たちが塔の内壁に刻む歴史について議論を重ねていた。今年あった出来事のうち何をその階に刻むべきかは、彼らの討議で決まるようだった。

 もっとも優先的に記録するべきことは建築作業の進捗であり、資材の供給や事故の発生などがそれにあたった。次に作業員や委員長などの人事であり、その後の余ったスペースに、下の町での出来事が書かれた。シィーが登ってきた488階分の歴史も、概ねそのような内容が淡々と書かれていた。革命で王が殺されるような重大事件は、488年の間でもそうそう起きることではないのだ。

「〈記憶人シィー〉の来訪あり、我らの建設委員長と問答を交わし中央塔を見聞する。わらべの如き姿にあれどその博学叡智は悠久の歳月を偲ばせる。かの者は自らを写本の民と名乗り、我らを碑文の民と呼ぶ。と、刻むことは決定しております」

 と作業長が告げると、シィーは少し恥ずかしそうな顔をした。自らが記録されることは、シィーにとっていまだに居心地の悪い経験だった。

「色々とありがとうございます。では、僕はこれで失礼します」

 シィーがそう言うと、作業長はあからさまに安堵を顔に出した。この狭い空間の権威である彼にとって、委員長の目が向けられることが最も居心地の悪い時のようだった。

 シィーは作業長を尻目に螺旋階段のそばにある棚を見た。記憶にある情景と照合し、荷物の配置が動いていることに気づいた。自分のカバンがそこから消えていた。

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