1-8 最初の記憶

 記憶人シィーの最初の記憶は、研究所のベッドから見えた、白い天井と白い壁だ。

 窓のない部屋の天井に埋め込まれた、平たい照明から放たれた光の筋が、幾度かの反射を経てシィーの網膜に飛び込んだ。気まぐれで刹那的な電磁場の振動は、シィーの特異な身体に、最初の記憶として永遠に刻まれることになる。

 壁に据え付けられたディスプレイの時計は、黒い画面に白い文字で、西暦2321年2月12日を示していた。あとで知ることになるが、それはシィーが誕生して12年目の日付だった。

 ゆっくりと肘の関節を動かし、両手を顔の前に寄せた。腕の重さの感触とともに、少年のような白い手が見えた。点滴のパイプが腕に挿し込まれている。

 指先をひとつひとつ、重機の作動を確認するように慎重に折り曲げていった。そこにあるのは自分の意思にしたがって動く、自分の手のようだった。首と膝を少しずつ動かした。シーツがこすれる音が足元から聞こえた。

 身体に痛みはない。ただひとつ決定的に不自然なことがあった。その時、シィーは、なにひとつ覚えていなかった。

 ここが何処であり、なぜ自分がここに寝ているのか、自分が誰なのか、そういったことの一切が、四肢を欠損したように、シィーの身体から抜け落ちていた。

「キャロル先生、シィーが目を覚ましましたよォ」

 という若い男の声が、廊下から部屋に響いた。その暢気な口調が、自分のこの目覚めが異常事態ではなく、予定通りの出来事であることを示していた。自分の名前がシィーであることも、そのとき認識した。

 部屋に駆けつける靴音が聞こえて、ベッドに臥したシィーの顔を、ひとりの赤毛の女性が上から覗き込んできた。

「シィー、私のこと、覚えてる?」

 と尋ねた。それが〈記憶人シィー〉設計担当の主任研究員キャロルだった。


 

 その言葉に、反射的にシィーは首筋をぴくりと動かして、自分の記憶を引き出そうとした。その記憶が脳髄のみでなく、全身に分布していることを、シィーは感覚として理解していた。だが、いくら記憶の海から掴み取ろうとしても、シィーの振るう網は形あるものは何一つ掬えなかった。そこにあったものは全て、溶け落ちていた。

「……わかりません」

 とシィーは答えた。

 その言葉とともにシィーが感じたのが、記憶にある最初の感情であり、生理的恐怖心だった。

 あるべきものがなにもない。すべて失われていた。

 母胎から出された新生児が外界に恐怖して泣くように、シィーは、自分の記憶が失われたという事実に震えていた。心拍数と呼吸数が急速に上昇していた。ただでさえ多量を要する酸素の供給が、追いつかなくなっていた。不穏な予言のように、シィーに接続された計器が赤いアラートを示した。

「大丈夫、落ち着いて、シィー。それでいいの」

 身体の震えを抑えこむように、キャロルはその両腕でシィーを抱きしめた。

「大丈夫」

 キャロルはもう一度言った。


「四肢の発達、内臓の各器官ともに、順調に発育しています。記憶能力にも問題ありません。ただ」

 と、白衣の若い男が検査の結果をキャロルに、そしてシィー自身に説明した。彼はキャロルの助手を務める研究員で、名前をレイと言った。

 ベッドに伏せたままのシィーに、簡単な記憶力のテストが行われた。シィーはそのひとつひとつについて完全な結果を出した。数字の桁数も図形の複雑さも、シィーにとって問題にはならなかった。

 だがそれは、シィーの身体の震えを収めはしなかった。新たなことを記憶できるという事実よりも、過去が失われてしまった恐怖のほうが、シィーの小さな身体を覆い尽くしていた。

「情緒がかなり不安定になっています。過去のデータを見ても、やはりこの子には、成長因子の投与による記憶分解が、相当に悪影響を及ぼしているかと」

 レイが暗い顔で言った。自分の状態が何かの不都合をもたらしているのは、目覚めたばかりのシィーにも理解できた。

「大丈夫」

 キャロルがシィーの目をまっすぐ見て、こう言った。

「忘れるのが怖いのは、あなたにとって、とても大事なこと。すべての生命が死を恐れるように、記憶人は、忘却を恐れるの」


 精神状態がある程度落ち着くと、シィーの身に何が起きたのかを、キャロルは丁寧に説明していった。

 記憶人と呼ばれるシィーの細胞は、身体の状態をすべて記憶し保持しているため、人間のように自然に成長することはない。

 したがって、身体を成長させるには、一定期間ごとに成長因子を化学的に投与する必要がある。

 この処置によってシィーは四肢と内臓を発育させるが、それによって細胞に刻まれた記憶が分解され、白紙の状態でこの世に落とされることになる。

 キャロルはこれまで、シィーに12回に渡って同様の措置を行ったが、そのたびにシィーの情緒が著しく不安定になることを、レイの示した記録が告げていた。記憶を分解するという行為に、シィーが本能的な拒否反応を示していた。

「本当なら、もう6年かけて成長因子を投与して、段階的に身体を完成させる予定だったけど」

 とキャロルは言った。

「これ以上の投与は危険。記憶が消えたという恐怖心が、シィーの心を壊してしまうかもしれない」

「じゃ、この成長状態で送り出すんですか? 先生」

 と、助手のレイはシィーの身体を隅々まで見て言った。

「……ちょっと、小さすぎやしませんか?」

「見た目はそうだけど、記憶人の身体は、自然進化で生まれた不合理な私たちより、よほどタフにできてるから」

 とキャロルは言った。それは自分の設計に対する自信と同時に、人間の身体に対するいくらかの嫌悪を含んでいるようにも、シィーには感じられた。

「それに、この子はこれから何十年、もしかしたら何百年もかけて、私たち人間の社会と文化を、見て、覚えて回らなきゃいけないの。身体が大きいことよりも、心を平穏に保てることの方が、ずっと大事」

 レイは少し呆れたような顔をしていた。シィーの記憶にあるかぎり、彼はキャロルよりもずっと物事を直観的に、具体的に考えるタイプの人間だった。


「何か、欲しいものはある? シィー」

 シィーが目を覚まして4日目の朝、キャロルはそう尋ねた。

 殺風景な部屋だった。時刻を示すディスプレイの他には、身の回りのものを入れるキャビネットが置かれているだけだった。キャビネットの上には3枚の写真が並んでいて、年齢の違う赤毛の少年が、椅子に座ってこちらを見ている。「3y」「6y」「9y」とだけペンで書かれて、それがシィーの成長過程を現しているようだった。

 レイが淹れた紅茶を飲みながら、シィーはまだうまく回らない舌で、ゆっくりと言葉を吐き出した。

「外を、見たい、です」

 それまでの3日間、シィーはベッドに横たわったまま、医療情報のモニタリングと発達状態の検査が続けられていた。記憶の消滅による不安定状態はどうにか平穏化していたが、医療機器に接続された自分に、居心地の悪さを感じるようになっていた。として設計されたシィーにとって、機器に続けるというのは、本能的に落ち着かない体験だった。

 キャロルの許可を得てシィーは立ち上がった。だが急速に伸長した手足にまだ馴染めず、うまく歩くことができなかった。結局、電子制御の車椅子に乗せられて、エレベーターで上に昇り、シィーは研究所の庭に出た。その時はじめて、シィーは自分が地下室にいたのだと気づいた。

 2月のブリテン島は針を刺すように寒かった。芝は霜で真っ白に染まっていた。葉の落ちたシラカバに椋鳥たちが集まり、空は抜けるように青い。風とともに、わずかな粉雪が宙に舞っている。遠くには、既に放棄されはじめたロンドンの街並みが見える。

「どう、シィー。この世界は」

「とても、綺麗です」

 とシィーは震える声でつぶやいた。吐きだした息が、自分の視界を白く染めた。

「シィー。あなたはこれから、この世界を、人間の残した全てのものを、見て、聞いて、覚えていくの」

 キャロルが耳元で囁いた。記憶がすっかり抜け落ちてしまっても、遺伝子に組み込まれたその使命を、シィーは最初から理解していた。

「とても大変な仕事。でも、とても大事な仕事」

 冷たい風が吹いて、シィーの首に巻いたマフラーを揺らした。シラカバに停まった鳥たちが羽ばたいて、塀の向こうへと消えていった。

「私たちが死んでも、あなたは生き続ける。あなたが死んでも、あなたの記憶は生き続けるの」

 彼女はどんな時も、確信に満ちた喋り方をしていた。人間の時代の終わりという運命を受け入れて、それでも何ひとつ迷わず、残された時間で自分のやるべき仕事をひとつずつこなしていった。彼女のあり方は、人間が長い進化の果てにたどり着いた、ひとつの達成であるようにも思われた。


 その冬を最後に、シィーに成長因子の投与が行われることは無かった。

 だからシィーは今でも、キャロルのあの確信に満ちた声を、彼女がそばにいるように思い出すことができる。それはシィーにとってのひとつの道標であり、シィーが長い旅路を迷わずにいられるのは、キャロルが迷わなかったからだ。

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