1-3 水瓶売の商人
シィーとエルが城門をくぐると、外の静けさからは想像もつかないほど喧騒な町が広がっていた。
すぐ目の前に次の城壁がそびえ立ち、高さは背後の城壁の倍ほどもある。両の壁に据え付けるような形で住居が並んでいて、地面は舗装されておらず、むき出しの土をサンダルを履いた人たちが歩いている。
喧騒な印象を与えるのは、その狭さのためだった。住宅の外にまで積み残された煉瓦や鉢植え、商店の品物がはみ出しているので、ただでさえ幅のない道がますます歩きづらくなり、大人たちはすれ違うたびに肩をぶつけないように気をつけていた。
ほとんどの人は徒歩だが、たまに小さな気動二輪車を両脚にはさんだ男が、狭い凹凸道を人を避けながら器用に進んでいくのが見える。荷台を牽引している車もいて、その中身は煉瓦か木材だ。
男も女もみな黄色い一枚布の服を着ている。巨大な布をかぶって帯を巻いただけのシンプルな服で、日差しの強い地域によくあるように、肌を露出させないことを第一に考えている。頭には、ヘルメットのような半球状の帽子を被っている。通りすがる人たちは、黒のコートを着たシィーを珍しそうにちらちらと目をやる。
「ねえ、エル。どうして彼らは、データを破棄してしまうんだろうね」
シィーは歩きながら足元の黒猫に向かって話しかける。
「どうして、ってそりゃ、どういう事だ? シィー」
「訪問者の情報をどうして保存しないのか、って事。どういう人がこの町を訪れたのか、覚えておきたいと思わないのかな」
「保管庫の容量が足りねぇんじゃねぇか? 見たとこ、あんまりデジタル化もされてねぇし」
「建物はこんなにあるのに」
「こんなふうにむちゃくちゃに建物を造ってる都市は、どうせ中の運用がろくでもねぇ事になってんだよ。俺はカンがいいから分かるぜ。この城壁の組み方からしても、無計画の臭いがプンプンしやがる」
とエルは鼻をふんと鳴らす。
城壁は単純な直線ではなく、血管のようにうねうねと曲がった道を形成していた。戦争のときに敵に攻め込まれにくくしたというよりも、とにかく土地のあるところに壁を建てた、という印象の町並みだ。
「そうだね。段差の町を思い出すよ」
とシィーは答えた。
「何だ、それ」
「13年と7ヶ月前に、君と一緒に行った町だよ。交通事故が頻繁に起きるから、道路を段差舗装だらけにして、速度が出せないようにしたんだ。誰も車に乗らなくなったから、事故が減った」
「ほー。まぁ、そんなもんだろうな」
しばらく歩いていくと、道の真中に立てられた柱に、案内板が据え付けられていた。いちばん上には看板が据え付けられ、標語のようなものが書かれている。エルはその首をいっぱいに上げてその看板を見て、
「いつの時代の文字だ? これ」
と尋ねた。
「『
「ほぉー、お前さんはこういうのも読めるのか」
「文字は覚えればいいから簡単だよ。会話のほうが、少し難しい」
その下には「公会堂」「礼拝堂」「自由市場」といった文字が書かれ、矢印のピクトグラムが描かれている。だがシィーがその矢印のほうを見ると、施設に続く道はなく、行き止まりの壁があるだけだった。
どうやらこの矢印は「その方向に施設がある」というだけで、経路を示しているわけではないようだった。大きな町に必ずあるような、壁掛けの地図も見当たらない。
「こいつは難題だな、シィー。中央塔より先に、今夜の宿を探したほうが賢明だぜ」
「うん。でも、そんなに慌てることはないよ。むしろ、少し迷ったほうがいいくらいだ」
「なんでだよ。お前さんの仕事は、ここの塔を見ることなんだろ?」
「もちろん塔も大事だけどね。僕の仕事は、こういう平凡な住民の、平凡な生活を、覚えておくことだから。彼らにとって平凡すぎて、書き留めておこうと思わないような日常をね」
そう言ってシィーは広い道が続くほうに歩き出した。エルは鼻をくっと鳴らすと、その後ろに寄り添うように歩いた。
中央塔は町一番の重要施設なのだから、てっきり誰にでも分かりやすい案内が整備されているものだと二人は思っていた。しかし、どうやら町の住民は外部の者が来るということをほとんど想定していないようだった。
やがて太陽が高く昇り、日射が町の地面を苛烈に照らしつけた。壁のあちこちに数字が刻まれていて、それが塔の影に入ることで、時刻が分かる仕組みになっているようだった。
数字は世界共通のアラビア数字で、エルにも読むことができる。正午を少し過ぎたところだった。人々は日差しを避けて家の中に入ってしまったので、人の密度はいくらか減っていた。
「お前さん、その格好、暑くねぇのか?」
エルが尋ねると、
「こんなに人が多いところは久々だし、だいぶ乾くね」
とシィーは首元のボタンをひとつ外して、ネクタイを緩めた。
「熱中症になるんじゃねえぞ」
「大丈夫だよ。僕は人間よりもずっとタフにできているからね。でも、ちょっと水が欲しいね」
と、周囲をきょろきょろと見回す。
「水、持ってるって言ったじゃねぇか」
「エル、こういう旅先では現地のものを食べるんだよ。それも記憶人の仕事なんだ」
「けっ。観光記者かよ」
「ちょっと違うかな。観光記者の仕事は未来の観光客のためだけど、僕の仕事は、過去のためのものだから」
そう言って城壁の角を曲がると、住宅に庇をつけただけの簡単な商店があった。頭に布を巻いた老人は、手にしていた冊子から目を話してシィーをちらりと見た。
「水をいただけますか」
とシィーが銅貨を取り出すと、老人は少し驚いた顔をして言った。
「こりゃ、どこの銅貨だね、坊や」
「ずっと東のほうにあった国で、昔、鋳造していたものです」
「こんな綺麗な銅貨は、わしは初めて見たぞ」
と言う。商店のカウンターには小さな紙箱があったが、そこに無造作に入れられた銅貨はどれもこれも形が歪んでいて、真円とは程遠い。
だが老人が言っているのはその硬貨自体のことではなく、表面に刻印されている左右対称の建築物のことらしかった。老眼のためか首を後ろに引いて、しわのある手でまじまじと銅貨を見ている。
「仏教の寺院です。でも、今はもうありません。ずっと昔に燃えてしまったんです。木造ですから、長く残るのは難しいんです」
とシィーが説明すると、
「燃えてしまったのか、これが……」
と老人は哀しそうな目を言って、静かに銅貨をカウンターの上に置いた。反対側の面はリボンを巻いた植物のレリーフで、数字の「10」が浮き彫りになっている。
「本当に水と交換していいのかね?」
「いいですよ。僕は、一度持ったものは覚えておけるので、ずっと持っておく必要がないんです」
シィーがそう言うと、老人は不思議そうな顔をしながらも、背後のカゴから手のひら大の黄色い木の実を取り出した。カウンターの機械に乗せて、脇についた金属製のハンドルをぐるぐると回す。きいいいいん、と甲高い音が響き、エルは全身の毛をぎょっと逆立てる。
しばらくすると老人は手をとめて、キリで木の実に穴を開けて、草のストローを刺してシィーに渡した。シィーは礼を言って、木の実を持って歩き出した。老人はシィーに手を振ると、さきほど渡された銅貨の建築物をじっくりと見はじめた。
「なんだ、その木の実」
とエルがシィーに尋ねると、シィーは中身を少し吸ってから答える。
「
「便利なもんを作ったんだな、人間ってやつは」
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