1章 バベルのような塔

1-1 草原

 風があり、草原があり、ほかは何もなかった。


 どこまでも遮るもののない純粋な平面の上を、薄枯れた葉の黄緑色が覆っている。

 それを潰して走ったタイヤの跡が二本、地平線の向こうまで真っ直ぐに続く。

 そのわだちを道標にして、ふたつの影が動いている。ひとつは少年の姿をしていて、もうひとつは黒猫の姿だ。黒猫が急かすようにその四本の足を動かし、その数歩後ろを少年がついてきている。

「歩くのが好きなんだ。つまり、ゆっくり動く、ってことが」

 轍の窪みを歩きながら、シィーは答えた。

「お前さんの好き嫌いに口出しするつもりはねぇけどよ、シィー。いくら何でも、効率、悪くねぇか?」

 黒猫のエルは振り向かずに尋ねた。

「僕にとって、移動の効率はあまり重要じゃないんだよ、エル。見るべきものは点じゃなくて、線であって、面だから」

「こんな何もねぇ草原も、お前さんにとっちゃ見るべき面なのか」

「もちろん。そうだよ」

 シィーはしゃがみこんで、足元にある草の葉に指を触れる。

「たとえば、ほら、このあたりの草を見てごらん」

「ずっと見てるぜ。俺の目線だとそれしか見えねえ」

「この地域は、人類史のほとんどの時間、ずっと乾燥した砂漠だった。だから、人間がその時代の終わりに、乾燥耐性の強い植物を作って、埋め尽くしたんだ」

「ほぉー。そりゃ何だ、環境破壊に対する、罪滅ぼしみたいなやつか」

「さあ。彼らが何を思っていたのかは、僕には分からないけれど」

 強い風が一吹きして、シィーの黒いコートを揺らす。草がさわさわと音を立てる。

「でも、人間たちがした事と、その結果を、ちゃんと見て、ちゃんと覚えておくことが、僕の仕事なんだ。だから、あまり急いじゃいけない。遅すぎてもいけないけどね」

「なるほどな。お前さんのことが少し、理解できた気がするぜ」

「それは良かった」

 とシィーは笑う。

「じゃ、次の質問だ」

「どうぞ」

「お前さんのそのカバンには、何が入ってるんだ? 身体のわりにでけぇよな」

 エルは前足をぬっと上げて、シィーの持つ茶色のアタッシュケースを指す。使い込まれた革製のそれは明らかに大人用のものであり、シィーが持って歩くと全身が持ち手のほうにいくらか偏ってしまう。

「それ聞くの、78回目だよ」

「そうか。そんなに聞いたのか」

 エルは尻尾をぶるるんと振る。

「となると、俺とお前さんの旅はもう、ずいぶん長く続いてるってことだ」

「うん。77回説明してきたけど、そのたびに中身がちょっとずつ変わる」

「そうか。で、何が入ってるんだ」

「旅に必要なものだよ。食べ物と水と、ナイフと簡単な調理器具、あとお金だね。大体どこでも使える金貨と銀貨と銅貨。それと、着替え」

「お前さん、昨日もおとといも、同じ服だったが」

「そうだよ。中に入ってるのも、同じ服」

「ほー。それが好きなのか。ガキのくせにずいぶん地味な趣味だな」

「別にそういう訳じゃないよ。ただ、僕がむやみに変わっていたら、僕の目に映る変化が、相手の変化なのか、それとも僕自身の変化なのか、分かりにくくなる。だから、なるべく変わらないようにしてるんだ」

「なるほど。仕事熱心なこったよ」

 とエルは鼻をふんと鳴らして頷く。

 二人はしばらく黙って、草を踏みしめていく。

「で、まだなのか? 次の目的地は」

「えーっとね……」

 とシィーは手を額にあてて東の空を見る。すでに高く昇った朝日が、緑の地面にちりちりと照りつけている。

「ほら、もう見えてきてるよ。あれが、塔の町だ」

 エルも目を細めて、シィーの向くほうを見る。ここ数日の道程でずっとそうであったように、地平線の向こうまで草原が続いて、その真ん中には自動車の轍がまっすぐ伸びている。そして、その向こうには、ただ青空が広がっている。

「俺には見えねぇぞ。目がいいんだな」

「うん。僕の目は、人間よりもずっと進化しているからね」

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