記憶人シィーの最後の記憶
柞刈湯葉
【プロローグ】時計職人のおとぎ話
私たちを作ったのは時計職人だ。
時計職人は盲目だった。
手探りで部品を削り、切り、組み合わせることで、世界の誰よりも精密で、正確で、秀麗な時計を作ることができた。
時計職人は幸福だった。まわりの人々も、彼が幸福だと思っていた。
ある時、神の子が地上に現れて、時計職人の顔に触れて言った。
「目を開きなさい。そなたの目は見えるようになる」
すると奇跡が起きた。生まれつき閉ざされていた時計職人の目に、最初の光が差したのだ。
人々は口々に言った。「これでもっと素晴らしい時計を作ってくれるだろう」と。
だが、はじめて自分の目で世界を見た時計職人は、こう言った。
「朝日はこんなにも眩く、夜空はこんなにも暗い。ならば、時計など必要ないではないか」
こうして時計職人は、いままで自分がつくった時計を、すべて壊してしまった。
「そりゃ、なんの話だ? シィー」
無垢材の長椅子に寝そべったまま、黒猫のエルは体格に不釣り合いな深い声で尋ねた。
「ロンドンにいた頃、キャロルが僕に、何度も話してくれたんだ」
とシィーは答えた。ひとつひとつの語をピンセットで拾うように、丁寧に言葉を並べた。
「何度も?」
エルは首をかしげた。
「うん、何度も。眠る前の子供に聞かせる、おとぎ話みたいに」
「そりゃ妙だな。お前さんは一度聞きゃ、覚えられるんだろ? どんなくだらねぇ話でも」
「そうだよ。僕は、そういうふうに出来ているからね。でも、キャロルは、何度も話したんだ」
と、シィーは静かにつぶやいた。
壊れたドアの外には夜風がびゅうびゅうと吹いて、その声はかき消されそうになる。かつて街路樹だったマロニエは、今や道路の流れを無視して好き勝手な方向に広がり、夜空を黒く染めている。ずっと昔に住人がいなくなって、放棄された村の教会だった。
「きっと、キャロルにとって、大事な話だったんだろうね」
かつてはこの礼拝堂で、信仰篤き者たちが牧師の声に耳を傾けていたのだろう。だが長い時間を経て、神聖な空間を形作っていた調度品はほとんどが持ち去られ、キリスト教の象徴である十字架すらも乱暴に外されていた。ステンドグラスの
「おとぎ話ってのは大体、教訓や啓蒙を目的として作るもんだろ、シィー。その話にゃ、どういった教育的意図があるんだ」
「僕よりも、きみの意見を言ってみてよ」
エルはふーむ、と少し唸ってから答えた。
「時計を壊すってことは、なんかの比喩だな。都市のせわしない生活を捨て、時間に縛られずのんびり生きろ、とか、そういう事じゃねえか」
するとシィーは、あらかじめエルの答えを知っていたかのように、すぐに言葉を返した。
「どうかなあ。キャロルがこの話をしていた頃はもう、人間の都市はだいぶ減っていたし。せわしない生活なんて、望んでも得られなかったよ」
「そうか。もうそんな時代だったか」
「それに僕たちなんて、もう3週間も、人のいる都市を見てない」
「マジで?」
「マジ」
「おいおいおい、食うもんは大丈夫か? 腹減っても俺は食えねえからな?」
エルはヒャハハハっと笑った。シィーもくすっと笑って、目を閉じてカバンの中身を見た。カバンを開けなくても、そこに何が入っているかを、シィーは記憶の中で見ることができた。
「もう1週間くらいは持つよ。それまでには、塔の街に着くはずだ」
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