5 恋する乙女は名付けられる

私の宣言を聞いて、先輩はまた、ぱちぱちと瞬きをした。それからもう一回、首を傾げた。

その反応を見て、私は確信した。……これは、わかってないな。

私は、また若干落ち込んで、また気を取り直す。

OK、これも想定内である。


私は立てた指を自分の顔の前に持ってきてから、ずいっと先輩の顔の前に近づけた。

私流、必殺『これから私の言うことにちゃんと集中して聞いてください』のポーズだ。うちの猫にはよく効く。

きょとんと私の指を見つめる先輩に、ぐいっと言葉を覆いかぶせた。


「私は、先輩が昨日の告白の時に、「わからないものには答えようがない」って言ってたから、わかるように説明しようとしてるんです。いわば、先輩が私に「答え」の代金として「説明」を要請したようなものなのです。で、私はその代金を払って、先輩の答えをもらおうとしているんです。いいですか? 一応それは把握しておいてくださいね? 絶対ですよ? 先輩が要請したことなんですから、私が説明した後に「やっぱり返事できませーん」っていうのはなしですよ!」


言い切った。

ほぼ息継ぎなしで言い切ったので、ちょっと息が切れている。

「………………………………なるほど、わかった」

先輩は、長い長い沈黙の後に、顎に手を添えながら頷いた。

息切れして、はぁはぁと足りない酸素を求めて呼吸する私をじっと見つめて、少しだけ、また首を傾げた。

「君は、告白の返事がほしいの?」

「そうです」

先輩は沈黙している。一度だけ瞬いて、小さく口を開く。

「それは本心?」

「本心ですよ」

「別の願望を、耳障りよく言い換えたわけではなく?」

「なんですかそれ」

「僕、どちらかというと、願望はストレートに伝えてくれたほうが嬉しいタイプなんだけど」

「あ、ほんとです? じゃあこれが一番ストレートな願望なので、嬉しがってくれて大丈夫ですよ!」

「……うーん。なるほど、本当に本心か」

うんうん、と頷いて、先輩は肩を竦めた。私がやるようにわざとらしくない、本気の竦め方である。

で、竦めるのをやめた瞬間、ぽそりと小さく呟く。

「じゃあもし、君は、先に僕が告白の返事をしても、後からちゃんと説明してくれる?」

「え?」

「『告白の返事の代金が説明』だって言うのなら、先に告白の返事を貰っても、説明はするのが自然じゃない? 後払いでも、代金は払うものでしょう?」

「…………」

予想外の提案に、私は一瞬考え込んだ。真剣に考え込んで、結果、3秒位で答えが出た。

「ごめんなさい。それはちょっと、無理ですね」

「無理?」

「だって、フラれたら、さすがにショックでまともに喋れる気がしないですもん。申し訳ないんですけど、その場合は踏み倒させてもらいます」

「……もしかして君、そもそも現時点で、告白の返事=フラれる、って前提で考えてるの?」

「いや、フラれる前提ですよ」

「なのに返事が欲しいの?」

「宙ぶらりんな状態が嫌だから告白したんですもん。早く白黒つけたいんです」


先輩はいったん沈黙し、両手を口の前で合わせて、はーっと息を吐きかけた。

昨日ほどでもないが、ずっと外にいると若干肌寒いので、そうしたくなる気持ちはわかる。手先の冷えはこの時期のあるあるだ。

先輩はそのまましばらく指先を息で温めてから、うーんと体ごと左に傾いた。

「君、友達とかから変な子って言われない?」

「別に言われませんよ。なんですか、先輩じゃあるまいし」

変な子だなんだと貶められた覚えは特にない。むしろつい数時間前、ふうちゃんから褒め殺されたところだ。

ちょっと先輩でも失敬ではないか、とむくれた私の目の前で、先輩がつぶやく。

「だって」

左に傾いていた先輩の体が、ぐいっと上体をひねって、そのまま私の顔を覗き込んでくる。

淡い墨色の瞳に、私の顔が映る。突然の近距離での邂逅に、慌てて伏せた視線の先で、私の好きな桃色の唇が可笑しそうに笑った。

「普通こういうとき、本心では、『告白の返事が欲しい』じゃなくて、『告白にOKがもらいたい』とかになるんじゃない?」


……今度は、私はぱちぱちと瞬きをする番だった。

先輩はそのままの姿勢で、ぽろぽろと言葉を漏らす。

「僕が言ったことに誠実に向き合う態度を示すことで、僕の好感度を上げて、告白にOK貰いたいってのならわかるけど。単純に『告白の返事が欲しい』だけで止まるなら、わざわざそこまで労力払うの面倒じゃない? ましてや君自身は、僕にフラれるって思ってるのに」

言っている間に、重力に負けたのか、先輩の髪が、肩から数房地面に向かって垂れる。先輩自身は、そのままの体勢から変わらない。動かない。

じっとこちらを覗き込んでいる薄墨色の眼を見返して、この人の真意を探ってみる。が、結局わからなくて、私はじわっと眉をひそめた。

先輩の顔越しに見える、屋上の床が白々と広い。

「先輩……。面倒でも、説明しないと返事がもらえないんだったら、仕方ないじゃないですか」

「そこはこう、ほかにもいろいろあるでしょう。そもそもフラれる前提なんだったら、別に手段を選ぶ必要はないんだから、もうちょっとしつこく食い下がって僕が根負けするのを待つとか」

「そういうのはちょっと、誠実じゃなくないですか?」

「『やっぱり告白OKしてもらいたいから好感度あげとこう』って意図なら、誠実にこだわるのもわかるけど。でも君、そういうのじゃないのでしょう? 別に誠実じゃなくてもよいのでは?」

それを聞いて、私はうーんと口を尖らせる。

尖らせついでに、握りっぱなしだったいちご牛乳にもう一度口をつけた。甘さで唇を湿らせながら、私は先輩の瞳を見る。


「……だって、私が先輩に誠実に向き合いたいかと、私の告白を先輩が受けてくれるかどうかは、全然別問題じゃないですか」


先輩の瞳の中から、私が真顔でこちらを見ていた。

ピントを少しずらしてみると、先輩の瞳の外で、先輩が真顔でこちらを見ていた。

先輩は私の握っているいちご牛乳を見て、自分のいちご牛乳のストローに口をつけて、ほう、と言葉を吐き出した。

「そっか。別問題か」

「そうですよ。……あ、っていうか話それちゃったじゃないですか」

「もともと何の話だっけ」

「合意をとるって話です! 先輩、私がちゃんと説明したら、ちゃんと告白の返事返してくれますよね?」

勢い込んだ私に対して、先輩は静かに体勢を戻し、ぐーっと腕を上げて伸びをした。

そのままぽすっと音を立てそうな勢いで背後のフェンスに倒れ込んで、もたれて、そのまま手の甲でしばらく、フェンスをするすると撫でている。

「……先輩?」

私は眉をひそめて、先輩に声にかけた。

大体何を考えているのかわからない先輩だが、なんだかこの瞬間、輪をかけて異空間の生物になったように思えたのだ。先輩が。

先輩は「んー」と小さく声を漏らして、フェンスを撫でる手を止める。

「……合意の前にひとつ確認しておきたいのだけど、君、別に、僕が君のことを好きだって言いだしても嫌じゃないんだよね?」

「嬉しいに決まってるじゃないですか」

何を当然のことを聞いているのだろう、この人は。そんなもの、テンションハイになり屋上10周走り回ってでんぐり返しするくらい嬉しいに決まっている。

先輩は私の答えを聞くと、ふわっと笑った。

「ならいいや」

続けて、先輩はおまけのように付け足した。

「合意するよ」

……さっきまで微妙にのらりくらりとかわされていた話題を、突然豪速球ストレートで打ち返されて、私は少し反応が遅れた。

「えっ」

「君が言う『私は貴方が好きです』という言葉に関して、君がちゃんと説明してくれたら、僕はちゃんと告白の返事を返す。これでいいかな?」

いちご牛乳のストローをくるくると手遊びながら、先輩は、私の顔を見てにこっと笑った。

私は一瞬呆けて、慌てて、ぶんぶんと頷く。

「は、はい。それでオッケーです。文句なくオッケーです」

「じゃあ、そういう契約で」

「そ、そういう契約でっ」

先輩の声にようやくだんだんと実感が湧いてきて、内心で私はガッツポーズした。

よかった。これで、私の目的は無事達成される。

完全に、先輩のペースに乗せられているのが少し気になるけど。


先輩は、そんな私を微笑みながら見つめていて、

──ふふふ、と小さく体を揺らしたと思ったら、くすくすと続けて笑い出した。


「ぬわっ」

びっくりしすぎて変な声が出た。

先輩が声を出して笑うところ、初めて見た。最高に愛らしい。鈴を転がすような声ってこういう声をいうのか。なるほど、なるほど。

……。

「いや、なんで笑うんですか!?」

「いや、あの、……うん。うん」

先輩は目元を拭いながら、うんうんとうなずき続ける。

私は素直に困惑している。目の前でめっちゃ笑っている人が何に対して笑っているのかわからない、というのは、想像以上に困るのだ。困るんですよ、ほんと。

ひとしきり困りつつも、まぁ先輩が楽しそうならいいかなぁ……と思い直し始めた頃、先輩が、なにか言いたげに口を開いた。

「あのさ」

「は、はいっ」

「あ……」

先輩はなにか言葉を発しかけて、そこで止めた。一瞬視線を落としてなにか考えるようにしたあと、再度こちらを見て、微笑む。

「名付けって、重いものだと思うんだよ」

「ん? はい?」

急に話が思いがけない方向に飛んで、私は目をぱちくりさせる。

「そう呼ぶと決めて、名付けた時点で、名付けた方も名付けられた方も縛られるから」

「.......難しいこといいますね」

「その『難しいこと』に付き合うって決めたのは、君だからね?」

えっ、そうかな……?

一瞬内心で疑問に思ったが、にこにこしている先輩を見て、まあいっかと思い直す。難しかろうが簡単だろうが、とりあえず私は、先輩が嬉しいならそれでいい。

「それで、その難しい名付けがどうしたんですか?」

「やっぱり、名付けようかなって」

「名付け?」

私の疑問の声に、先輩は、うん、と小さくうなずいて。

薄墨色の眼をあげて、その鏡のような瞳孔に私を映した。

「君の名前は?」


そこで初めて気がついた。

ああ、そうか。名乗ってなかったけ。


「……結崎日向です。結ぶに大崎の崎で「ゆいさき」、日向ぼっこの日向で「ひなた」です」

「ふぅん、ちょっとイメージと違った」

「ええっ……名乗った直後にそういう事言います?」

「ごめん。でも、そっか。結崎日向、結崎日向」

「イメージと違った、って言った直後に連呼しないでくださいよ」

「いや、今馴染ませてるから。結崎日向ね。結崎、日向」

「気恥ずかしいんですけど……」

結崎日向です。

とりあえず試しに、好きな人に名前を連呼されてみてほしい。嬉しいけど恥ずかしいのだ。というか、流れ的に恥ずかしさが勝つ。

私がその恥ずかしさに溺れている間に、先輩は何回か呟いて、不意に納得したように頷いた。

「うん。日向がいいな」

「はい?」

「日向がいい」

そう言って、先輩は体を起こした。それから振り返るように空を見て、フェンスにまた手を添える。

透けるような青空を背景に、先輩は厳かに宣言した。


「日向。ね、僕たちの本題に入ろう」




──当時は、別にその呼びかけに何も思わなかった。

その直前に名前を連呼されていたし、そもそも私は友人や親から名前を呼ばれ慣れていたし。

けれど、今から思うに。その時、先輩が私を見てはじめて「日向」と呼んだ時、私と先輩の関係は決定的に変わったのだ。

私が先輩を『猫先輩』と名付けたように、先輩はきっと、私を『日向』と名付けた。本名かどうかは関係ない。ただ、先輩がそう名付けると決めたから、私は先輩に名付けられた。

その瞬間、私は先輩の日向になった。


ただ、それは、今はまだ別の話だ。

その時の私はただ子犬のように、ポニーテールを跳ね上げて頷くだけだった。

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