2 恋する乙女は猫を拾う
×××
少しだけ、昔の話をしたい。
私は、先輩をほかの一般的な「先輩」と区別して呼ばなくてはいけないとき、『猫先輩』と呼んでいる。
先輩と私が初めて会話したとき、先輩が猫を連れていたからだ。
もっと正確に言うと、先輩と私が初めて会話したとき、先輩は両手で猫を掲げた姿勢で、側溝の中にはまっていた。
真冬だった。
私は夜中のコンビニ帰りで、私服で、買ってきたばかりの肉まんの最後の一欠を頬張ったところだった。先輩も塾帰りか何かなのか、真っ赤なダッフルコートに真っ白なマフラーという、結構目立つ私服を着ていた。
そんな目立つ格好の人が猫を掲げている、という状況には、正直なところあまり近寄りたくなかった。夜中のJK独り歩きは、一般的に、そういう「変人に絡まれる危険性」のようなものを避けねばならない宿命にある。
ただ、真冬に、膝から下が側溝の泥中にはまって立ち往生しているというのは、明らかにその人にとって困った状況にあるのは想像できたので、私は警戒しながらも近づいてみた。
それで、その人が同い年くらいの女性であることに気がついて……さらにいえば、自分の通う学校内で見かけたことのある顔だ、と認識したことで、警戒は完全に緩まった。
なお、この時点で、私は先輩とは校内で一言も話したことがなかったし、相手も私を知らなかった。
更に言うと、先輩の方は、私が同じ学校の学生だということに、結局最後まで気が付かなかったのだと思う。……が、それはまた別の話だ。
「どうしたんですか」
ともかく声をかけると、先輩ははっと振り向いた。
どれだけ長い間寒空の下に立っていたのか、顔色は完全に青白い。
先輩はもう一瞬だけ逡巡したが、なにかを決心したように、私に猫を手渡してきた。
「この子、ちょっと持っててくれないかな」
手渡された猫の毛並みは、ぐっしょりと濡れていた。体が冷たい。寒いのか、小さな体をがたがたと震わせている。皮肉なことに、その震えのおかげで、その小動物がまだ生きているということがかろうじてわかった。
つまり、素人目から見ても、その猫はまさに死にかけていた。
私が困惑している間に、先輩は手早く自分のマフラーを外すと、それも私に手渡してくる。
「これでその子の体を巻いて、体温保持してあげて。あと、その前にティッシュか何か持ってたら、軽く水気を拭ってあげてくれるととても助かる」
「は、はい。あ、ティッシュ持ってます。拭いときます」
「あリがとう。ああ後、そのマフラーは汚れていいから、気にせずにしっかり巻いて。とにかく、その子、体温めてあげてほしい」
初対面であるということを忘れてしまいそうな自然さで、先輩は私にてきぱきと指示を出した。
正直私は、突然の状況に頭が真っ白になっていたので、そういう指示は助かった。突然巻き込まれた形だとはいえ、私だって、目の前の猫には生きていてほしいに決まっている。
慌てて猫の体を拭き始めた私を横目に、先輩はまず、自分も側溝から抜け出そうと試み始めたようだった。
そこから時間にして、結局5分もかからなかったかもしれない。
1人ではどうにもならない状況も、2人いれば存外すんなりいくこともある。案外そんなものだし、このときもそんな感じだった。
私達はなんとか側溝から離れ、ホッカイロを入れたマフラーに猫を包みこみ、夜道を動物病院に急いでいた。
ちなみにホッカイロは、私がついさっきコンビニで買ったばかりのものだ。明日の登校時用のつもりで買ったものだったが、まあ、明日の私より今の猫の方に必要なのは自明だったので、ちょうどよかった。
ぽつぽつと事情を聞くと。先輩は塾帰りに側溝の泥に沈みかけている猫を発見して、慌てて側溝に飛び込んで救出したのはいいものの、今度は自分が側溝の泥床にはまってしまったらしい。
両手が猫で埋まっているせいでマフラーも外せないし、スマホが入った鞄も、側溝に飛び込む前に微妙に離れた道路上に置いてしまったので手が届かないし、かと言って震える猫を再度側溝の泥や冷たい道路の上に置くのは躊躇われるしと、 完全に立ち往生してしまっていたので、私が来てくれて本当に助かった、ありがとう、とも。
それだけ話して、黙って夜道を歩いた。
吐いた息が白くわだかまって、二人の間に溶けていく。
先輩の横顔を見上げながら、沈黙が微妙に気まずくて、ひとまず口を開いてみる。
「猫、好きなんですか」
「いや、好きでも嫌いでもない」
「じゃあ、優しいんですね。こんだけ寒い中、冷たい側溝に足突っ込んで猫救出するの、なかなか勇気と思いやりがいりますよ」
「ううん、違う」
「え?」
自分としては、この状況では無難な話題を出したつもりだったし、ふんわりとした肯定を見込んで話したものだったから、想定より強い否定の言葉に驚いた。
先輩はそのままいくつか瞬きをして、前を向いたまま──こちらを見ないまま、なんとも言い難い表情で口を開いた。
「この前読んだ本にね。『猫を助けると良い』と書いてあったから」
「……猫を助けると良い?」
「物語とかを書く時に、最初に、主人公とかに猫を助けさせるといいんだって。そうすると、読者や観客は『ああ、この登場人物は、猫を助けるような心優しい人物なんだなぁ』と思って、感情移入しやすくなるものらしい。だから、」
だから、と言って、先輩は腕の中の猫を撫でる。
──猫の体調は、先程より震えは収まっているが、まだまだ油断はできないように見えた。
先輩はスマホの画面で動物病院の住所をもう一度確認すると、もう少しだな、と小さく呟く。
それから少し視線を落として、先輩はようやく、まっすぐに私を見た。
二人並んで歩き始めてから、初めて、真正面から見据えられたような気がする。
「……ちゃんと、猫を助けるような人間に見えてるかな?」
主語も何もなかったが、意図は文脈から用意に判断できたので。
私は、至極当たり前の言葉を返した。
「見えてますよ。実際助けたじゃないですか」
「でも、『中国語の部屋』かもしれない」
「ちゅうごくごのへや?」
「……いや」
首を振って、先輩は視線を前に戻す。小さく微笑みを載せた唇で、静かに言葉をこぼした。
「優しいんだね、君は」
私は、その言葉に首を傾げる。
先輩が何を言っているのかは、全体的にさっぱりわからない。
でも、なんとなく、……なんとなく、わからないでいい気はした。もしくは、わからないほうがいいのかもしれない。
少なくとも、先輩は、わからないほうがいいと思っている。直感的に、そう思う。
その、先輩の、街灯の光だけが映る瞳を見上げて、私はそっと胸元に手を置いた。
私は、そこで。
そこで。
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