猫先輩と、フラれるための恋愛哲学

殻付飛鳥

1 恋する乙女は告白する

「貴方が好きですっ」


例えば、それまで一度たりともまともに語り合ったことが無い、恐らく自分のことを認識してさえいない人物を、放課後の屋上に呼び出して告白する。


聞く人が聞けば恐らく、軽薄だなぁと思うだろう。そんなことをするやつは、さぞかし頭と尻が軽い恋愛至上主義のJKみたいなやつだろうと思うだろう。

いかにも、私は頭と尻が軽い恋愛至上主義のJKだ。母親譲りの小顔が自慢で、ヒップサイズは82センチの、セクシーを投げ捨ててスレンダーを取った体型のJKだ。(ちなみに、友人からは「頭と尻が軽いってそういう意味の言葉じゃないから、自己紹介に使うの止めといた方がいいよ」と何回かため息をつかれているのだが、他に良い感じの自己紹介が見つからないのでそのまま使っている。代わりになる、良い感じの自己紹介文を絶賛募集中)

ついでに言うと、少女漫画雑誌愛好家で、強いて言うなら別冊マー〇レット派。だから、多分、恋愛話も恋愛自体も大好きだ。大好物だ。

けれど、けれども。この告白は、断じて軽い気持ちで行ったわけではない。

軽さとは正反対の、重っ苦しい未来への諦観から、この告白は断行されている。


「好きです。貴方が、大好きなんです。私と付き合ってください!」


淡紫と橙色の夕焼け空を背景に、かじかんだ手を握り締めて、私は一世一代の告白をした。

貴方が好きです。

言葉にしてからの数秒間、私は目の前の告白相手の……先輩の、蘇芳色のスカートが風に翻る回数を無心に数えていた。頭の中が爆発しそうで、数でも数えてないとやってられなかったからだ。

降りた沈黙が肌寒い。冷えた体に頬だけが熱い。

春先なのに、なんで今日に限ってこんなに寒いんだろう。なんでこんな日に告白することになっちゃったんだろう。

でも、もう耐えきれなかったのだ。


恋愛話好きの中にも、甘々な恋愛好きと辛い悲恋好きがいると思うのだけど、私は圧倒的前者だ。

甘いのがいい。甘ければ甘いほどいい。

切ない片思いだの、心突き刺される展開だの、そういうのは全く好みじゃない。

.......だからね先輩。

私はもう、叶う確率推定0%の片想いに、これ以上頭と心を侵食されることに耐えられないんです。


どうして、告白する前から叶う確率推定0%だなんてわかるかって?


推定理由1。

先輩は私が眼中にない。全く無い。一度だけ話したことがある過去の思い出も、多分先輩は覚えてさえいない。


推定理由2。

先輩はそもそも恋愛に興味が無い。浮いた話がこれっぽっちもない。告白されたからとりあえず付き合ってみるかー、みたいなノリな人では断じてない。そこは人として好ましい部分ではあるけれども、現在の私の立場としてはマイナスにしか働かない。


推定理由3。

先輩は高校三年生で、現在卒業式まで後10日を切っていて、なおかつ先輩は遠くの大学に進学が決まっている。つまり、このタイミングで地元に新しく未練を残していくのは大変賢くない行為であり、聡明な先輩がそんな賢くない選択をするとは思えない。


……あと、まぁもう一個、ダメ押しで推定理由4。

先輩と私は二人ともうら若き乙女で、要は同性で、残念ながらこの現代日本では、同性の恋愛が実る可能性は異性の恋愛より(多分)低い。多分、メイビー、残念ながら。


そんなわけで、片想いが叶わないであろう理由を思いつくのは非常に簡単だった。考えるまでもなく、ボロボロと、溢れんばかりに思いついた。

対して、この恋が成就する理由を思いつくのは非常に困難だった。考えても、頭を振り絞っても、天日干しして乾ききった雑巾を絞っているかのように、一滴たりとも希望は出てこなかった。

そんなわけで、叶わないとわかって続ける重苦しい片想いに、思春期JKの柔らかいデリケートなハートはもう限界だった。無理無理の無理だった。


だからさ、もう、叶わない片想いならとっとと潰してしまった方が合理的だよ。

さよなら、私の可愛い恋心。私を苦しめる、可愛い可愛い恋心。

さっさと殺して、わーって泣いて、忘れよう。


.......というわけで、この屋上の告白に至るのだ。

今にも精神が爆発しそうな私の脳内を知る由もなく、黄昏に染まった屋上を背景に、先輩はまっすぐに私を見つめている。

私の大好きな淡い髪を春先の風に揺らして、私の大好きな白い胸元をゆっくりと呼吸で上下させて、私の大好きな薄墨色に輝く瞳を、まっすぐに私に向けている。

それから、私の大好きな桃色の唇を開いて、先輩は何か言おうとして、

……大好きだから耐えられなくて、私は反射的に目をぎゅっと瞑った。


今から考えると、私はその瞳を見ておくべきだったのだ。

聡明な先輩の瞳に、私がどう映っているのか、真っ直ぐに見返して把握しておくべきだったのだ。

けれど、当時の私はそれどころではなかった。

自分の思考が爆発しないように抑えるのに精いっぱいで、先輩が、聡明な先輩が、どんな思考を巡らしてどんな解釈に至ってどんな心情を想起したのか、理解しようとする余裕はなかった。


「……ったらないな」

「えっ」


どうしよう、最初の方聞こえなかった。

なんておっしゃいました?という思いを込めて、私は慌てて目を開ける。

先輩は目の前で笑っていた。目と目が合った。突然の見つめあいに虚をつかれた瞬間、先輩の桃色の唇がもう一度開いて、言葉を紡ぐ。


「ごめんなさい」


あああああっしまった。決定的な言葉が紡がれた瞬間を、防御力ゼロで直視してしまった。

出た、「ごめんなさい」だ。告白を断る常套句。シンプルだが切れ味がよく、それでいて相手を慮る誠実な言葉。

私の恋心はこの時点で木っ端みじんにはじけ飛び、振った相手にさえ配慮溢れる先輩の心の美しさに全私が咽び泣き、悶絶しながら死んでいった恋心代わりに賢者のような静謐さが心中に到来する────

──その前に、先輩の涼やかな声が、私の思考に叩きつけられた。


「ごめんなさい、質問していいかな。そもそも『貴方』ってどれのこと?」

綻ぶように微笑んで、目の前の先輩は首を傾げた。傾げた角度さえ美しい。

……で、ビジュアルの美しさと問われた内容の合わせ技に、思考が止まる。

「え」


あれ?


何よりもまず困惑が先に立った。

止まっていた鼓動が、どっといきなり堰を切ったように鳴り始める。体を落ち着かせる間を持たせようと、視線をうろうろと彷徨わせてみる。

その間に、冷静に、頭をフル回転させてみよう。状況と頭の整理だ。

私は「ごめんなさい」を聞いた。それを告白のお断り常套句だと解釈した。

でも、なんかこう、思ってたのと違う「ごめんなさい」なのでは? と、私の少女漫画で鍛えられた文脈読解力が私に告げている。

つまり、告白を断られたわけではない。

さっきのはどちらかというと、自分がうまく相手の言葉を解釈できず説明を求める時の、枕詞の「ごめんなさい?」だ。英語で言うところの「pardon me?」だ。事実、その後に先輩は質問を続けた。

けど、私の少女漫画で鍛えられた文脈読解力は、そこで活動を止めてしまった。

告白にこういう質問で返されるパターンは、残念ながら私の読んできた少女漫画では想定されていない。


黙り込んでしまった私相手に、先輩はもう一度首を傾げた。

「……君が言う『貴方』って言うのは、これ?」

話しながら、これ、という発音と共に、先輩は先輩の顔を指さす。

反射的に頷きかけて、動作だけで返すのは失礼かと思い直し、適当な言葉に言い直す。

「え、っと。これ、というか……先輩です。先輩の……」

「つまり、君は『僕』のことが好きだと」

「は、はい! 好きですっ、だだ大好きです!! 愛してます!!!」

停止した思考でも唯一明確に答えられる端緒を得て、慌てて元気よくうなずいた。

その勢いで、自分の後頭部でぴょこんとポニーテールが跳ねたのを感じる。

……ちょっと、勢いに乗って言い過ぎたかもしれない。困惑に冷えていた頬が、また熱くなる。でも、嘘ではない。

「そっか」

そう言って先輩は、また違う笑い方をした。少し遠いところを見るような眼で、顔の輪郭に指を添える。

反射的に、その動きを目で追ってしまう。

えっ、笑顔の種類が何パターンもあるなんて先輩ホント天才だし、それを次から次へと見られるなんて最高かな?

……と、私が予想外の尊さに心をかき乱しているうちに、先輩は困ったように小さく息をついた。

「でも、今僕が聞きたいのは、その『先輩』というのがどの部分に当たるか、ってことでさ」

「……? ええと」

質問の意味を頭の中で反芻しつつ、私は、先ほど先輩の一人称を初めて聞いたということに気が付いた。「僕」か。想定外だけどよく似合っている。

そんなことに気を取られながら考えていたからか、やっぱりいまいち先輩の質問の意図がわからない。

「ど、どの部分とは……」

そう聞き返した私の前で、先輩は、白い頬に指を添える。

「例えば、僕の顔」

髪を漉いて風に流す。

「僕の髪。僕の指」

喉と胸元を順に指す。

「僕の声。僕の体」

それからもう一度微笑んで、

「僕の性格。僕の精神。立場。過去。好み。賢さ。愚かさ。思考回路」

歌うように語りながら、ふわりと両手を広げて見せた。

それから、先ほどとは更に違う色の微笑みを口許に乗せて、そっと私に歩み寄る。一歩、二歩、大体歩幅三歩の距離。

囁く。

「……君は、『僕』のことが好きだと言ったけど」

少し心がざわついた。

先輩はたしかに柔らかく笑いかけてくれているはずなのに、その笑みが何故か、霞んでよく見えないような錯覚に襲われる。

沈黙のうちに、私の視界の中で、ゆっくりと日が傾いていく。黄昏の色がさらに変わって、落ちた陽の光が空一面を、淡い桃色と深い蒼色に染め上げている。

それを背にした先輩の輪郭が、淡い桃色に光って浮かび上がる。

逆光だ。

……影になって、やがて表情が見えなくなってしまった先輩は、柔らかい口調でこういった。

「さて。君が好きと言う『僕』は、一体どれのことだろう? 僕を、君の好きな『僕』たらしめているものはどれ?」

「…………。どれ、とかじゃないです。私は先輩が、」

「僕のすべてが好き、というのはおそらく間違ってるよ。人は人のすべてを好きになることはできない」

言おうと思っていた言葉を、先に封殺された。心臓がヒュッとする。

「例えば今この瞬間、僕が君を刺し殺したら、さすがに僕のこと好きとか言ってられないだろう? ああ、君がそういう趣味の人じゃないという前提だけど」

「えっ……い、いやぁ、好きじゃなくなるわけじゃないと思いますけど」

「そう? じゃあ同意の上で殺していい? 今僕、ちょうど鞄の中にカッター持ってるけど」

「いや、流石に今殺されるのはちょっと嫌かなって」

「だろう? それが正しい。つまり、好きな相手だとしても、好ましい言動と好ましくない言動があるわけだ。明確に、誰にだって、好きな相手の『好きな部分』と『好きじゃない部分』が明確に存在する」

先輩は、ぴっと人差し指を立ててみせた。

静かな声だ。私の返答に対して、怒っているわけでも悲しんでいるわけでも、嗤っているわけでもない平坦な声。

私はなんだか、先輩から講義を受けているような感覚になってきた。

先輩の講釈はまだ続く。

「例えばさっきのような、君自身に直接被害がある例だと、過激すぎて逆にわかりづらいかもだけれど。……君、僕の髪は好き?」

「好きです!! 特に、あたたかい晴れの日に、お日様が透けている時の色が好きです!!」

「なるほど、ありがとう。ただ、じゃあ、もし僕が明日から蛍光ピンクに髪を染めてきたらどうする?」

「えっ」

「真っピンクになった僕の髪も、君は今と同じように好きって言える?」

ピンク髪の先輩を想像してみた。

かわいい、けど、若干の解釈違いを感じる。もちろんかわいいはかわいいのだけど、先輩はどんな色でも似合ってしまうに違いないけど、でも私はお日様に透けた先輩の髪のふわふわとした柔らかさが好きなのであって、真っピンクになったらそれは失われてしまうわけで、ううん。

「うううう」

「悩んでくれてありがとう。うん。好きですと即答しても、今の僕の髪に対する愛着がないということになってしまうし、無理ですと言ったら、色が変わったくらいで好きじゃなくなるなら単に『そういう色と質の髪』が好きなだけで、別に僕の髪自体が好きなわけじゃないんじゃない? って話になるもんね」

「うう……」

「今のは外見的な話だけど。見た目以外にも、今の僕が、明日から少し違う性格になってやってきたらどうする? 僕の言葉遣いが、今よりずっと乱暴になったら? 校庭の真ん中で突然サンバを踊り狂うような愉快な人間になったら? そんな『僕』も、君は今のまま好きっていう?」 

……どうだろう。考えて考えて考えて、私の思考は爆発した。


わからない。

いや、わからない。わからないったらわからない。

答えもわからないし、自分の感情もわからないし、何よりこの状況がわからない。

どうしてこんな頭がこんがらがるような質問をされているのだろう。

もしかして、私は先輩に意地悪をされているのだろうか。身の程知らずが高嶺の花に告白をした罰として、答えづらい質問をぶつけて泣かせてやろうとかいう感じなのだろうか。

いや、ないな。

先輩はそういう意地の悪いタイプじゃない。不満や疑念があったら、もっとストレートに否定をぶつけてくるタイプだ。過去の経験から知っている。

それに、先輩の言葉には、小難しい御託を並べて悦に入ってる人特有の、嘲るような響きが一切ない。

あくまで、静かで平坦だ。

だから、これは純粋な質問で、先輩にとっても純粋な疑問だ。

その響きのまま、先輩はもう一度、最初の質問を繰り返した。


「だからね。君が好きな『貴方』はどれのことかを教えてほしい。この僕を、君の好きな『僕』たらしめているものを教えてほしい」


ああ、なるほど、と得心する。

先輩は、純粋に、「私が好きな『先輩』」がわからないから、私に質問しているのだ。

私は先輩の瞳を見上げる。先輩の瞳は、雄弁に私に返答した。

『だって、本当に君が何を言っているのかわからないんだ。理解できないものには、答えようがないでしょう?』

それを説明できるのは、この世で唯一私だけ。今、先輩に告白した私だけ。

だから、私は答えるべきで──……




キーンコーンカーンコーン、と。

さておき、鼓膜に刺さるような爆音に、思考が途切れて飛び上がった。

屋上に……つまり、私たちがいる場所の超至近距離に設置されたスピーカーから、下校のチャイムの音が流れている。普段は聞き流している音だが、これだけ近距離から聞くと耳に痛い。

慌てて耳を塞いで、暫し。鳴り終わった後もキーンとした耳鳴りに襲われつつ、私ははっと先輩に目をやった。

先輩はちょうど、少し離れたところに置いてあった鞄を拾い上げて、肩にかけているところだった。

「時間切れだね」

息を吐いて、先輩は肩をすくめた。そのまま私の方に歩いてきて、横を通り過ぎる。

先輩はすれ違いざまに私の肩に軽く顔を寄せて、とても自然に口を開いて、

「ごめんね、わからないものには答えようがないから。答えが出たらもう一度教えて?」

そう言って、そのまま階段を下って行ってしまった。


私はそれを、首振りカメラのようにぽけっと見つめたまま見送って、しばらく1人で立ち尽くす。

それから自分の鞄を拾い上げて、春風に捲れてしまったスカートの裾を直して、階段の方に自分も足を向けてから。

ふと思い出して、自分の胸に手を当てた。予定では、もう存在しないはずの自分の心に呼びかける。


おはよう、私の恋心。

生きてる? 死んでる? ねえ恋心、貴方、ちゃんと死んでる?

私の心をこれ以上脅かさないように、私の胸をこれ以上締め付けないように、ちゃんと死んでくれましたか?


「いや、死んでないよなぁ……」

恋心は生きていた。私は今、自分の胸の中に、とくとくと脈打つ心臓を感じている。

先輩はあくまで質問を投げかけていっただけで、ちゃんと私の恋心を殺してくれなかったから。

先輩の声を、表情を、言葉を、先ほどまでの邂逅のすべてを思い出して、私は先輩に恋し直してしまっている。

振り返ってみれば、私の状況は、告白前と一切変わっていなかった。……というより、猶予が与えられたが故にたちが悪い。

「うーん、困った」

今日執行されるはずだった恋心の処刑は、裁判官兼処刑人本人を前にして順延し、死刑判決は差し戻しになった。

差し戻しになったのであれば、もう一度審議しなくてはならない。判決を下すはずの先輩から課題が出たのであれば、それに応えるのが私の仕事だ。

場合によってはこの恋心、恩赦、むしろ無罪の可能性さえある。

「.......頑張ってやろうじゃないの、この野郎」

むしろ告白前よりぎゅうぎゅうと胸を締め付けてくる恋心に、私は小さく毒づいた。

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