四十七段 くさめくさめ

【徒然草 四十七段 原文】


 或人あるひと清水きよみづへ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前あまごぜん、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、こたへもせず、なほ言ひ止やまざりけるを、度々問はれて、うち腹立ちて「やゝ。はなひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君やしなひきみの、比叡山ひえのやまちごにておはしますが、たゞ今もやはなひ給はんと思へば、かく申すぞかし」と言ひけり。


 有り難き志なりけんかし。




【本文】


「頑張れ頑張れ」


 朝、国語の小テスト中。四組の教室には鉛筆を走らせる音と俺の独り言だけが聞こえる。


「頑張れ、自分に負けんな」


 時計を見つめる。一教科目は英語のリスニングだったか。ちゃんと耳掃除していただろうか。詰まって問題が聴こえにくいなんて事にはなってないだろうか。


「頑張れ頑張れ。お前なら出来る。マックス見せろ」


 今日はまだいいとして、問題は面接だ。最近アイツ髭濃くなってきたからな。慣れない髭剃りで口の周りを切ってしまい、血だらけの顔で面接官の印象が悪くなったりしないだろうか。


「頑張れ頑張れ」


 ああ心配だ。アイツ本番に弱いからな。お腹壊したりしてないだろうか。

 

「頑張れ頑張……」

「うるせーよ先生! 皆集中してるんだから!」


 近藤が俺の独り言を注意する。おっと、気付かない内に結構な音量になっていたようだ。


「あ、すまん近藤。入試が気になってさ」


 今日は公立高校の入試だ。自分の事ならがむしゃらにやるだけだが、こうして応援するしか出来ないのは歯痒い。誰にも後悔して欲しくない。


「なるようにしかならないって。今トベ先生が心配しても何にもならないよ」


 渡辺の言うとおり、俺がここでソワソワしていても何の意味もない。だけど、気付くと頑張れと声が出てしまう。

 それだけ笹原が心配なのだ。

 正直に言うが、笹原誠也ささはらせいやは俺にとって特別に思い入れの強い生徒だ。トレーニングパートナーとしてずっと補助しあってきた。アイツの事は何でも知っているつもりだ。筋トレ部では真面目に俺の言うことを聞いてくれて鍛練に励んでくれた。教師として生徒を贔屓してはいけないが、実際関わってきた時間が一番多い三年生だ。

 一年と半年前、野球部の大会でサヨナラ負けをして人に向かって投げられなくなってからのアイツは、本当にしんどそうだった。自分には価値がないんです、そうこぼしていた。

 それでもアイツは筋トレ部なんて訳のわからない所で女の子に混ざりながら、歯を喰いしばってバーベルを毎日挙げ続けてくれた。

 卒業式の時に俺に感謝を伝えてくれたが、筋トレ部にいてくれてありがとうとお礼を言いたかったのは俺の方だ。


 頑張れ。

 頑張れ。


 笹原の頭上にもあるだろう同じ空を見上げて、何度も何度も心の中でエールを送った。



『徒然ww 四十七段 くさめくさめ』


 

 翌週、合格発表の日。学校には合格のしらせの電話が次々と届き、その度に三年生の担任の先生方はホッと安堵の息を吐いた。中には残念な報告もあったようだが、受かる人があれば当然落ちる人もいる。二次募集もあるし、志望校に行けなくても腐らずに頑張って欲しい。




「遅い。吉報だったらいの一番に連絡してくるんじゃないのか?」


 放課後、俺は気が気じゃなかった。笹原の担任の先生に何度か確認しているのだが、「まだわからない」としか返ってこないのだ。


「ひょっとして、俺に伝えられない様な悪い内容なんじゃないか?」


 不合格。


 いやいや、そんなまさか。アイツはやる時にはやる男だ。しかし、本来の自分のレベルより高い高校を受験している。高坂と同じ学校に行く為だそうだが、そんな不純な理由では学問の神様も笑いかけてくれないかもしれない。


「先生、落ち着いたら? 動物園の檻の中のクマみたいだよ」


 部室の隅から隅を行ったり来たりしている俺を奥田がそんな風に例えた。

 確かに部室の中でじっとしていても悶々とするだけだ。部員達と外でランニングでもしようか、そう思って口を開きかけた時だ。


――ピーンポーンパーンポーン――


 校内放送が俺の動きを止めた。


「放送委員より連絡です。来夢……ゴホン、イケメンの卜部先生、イケメンの卜部先生、至急グラウンドまでお越しください」


 聞き覚えのある声。

 間違いない、高坂の声だ。ひょっとして合格の報告に来たのかもしれない。高坂なら笹原の合否も知っているだろう。それにイケメンと言われては行かない選択肢はない。事態が飲み込めないが、奥田に練習の指示を出してグラウンドへと向かう。



「あ、卜部先生こんにちは」


 部室棟を出てすぐにセーラー服姿の高坂と鉢合わせた。並んで歩き出す。


「おう高坂。何だよあのふざけた放送は。っと、そんな事より入試、どうだった?」


「イケメンはちょっとふざけすぎましたね。はい、私も誠也も東高校、受かりました」


 イケメンは事実だろ。ってか、マジか!


「おめでとう! 頑張ったな!」


「ありがとうございます。私は射程圏内だったけど、誠也は本当に頑張ってくれて。これで高校でも一緒に登下校できます」


 嬉しそうに表情を崩して高坂はノロケた。違う学校になるとすれ違う事も多くなる。勿論それでも上手くいくカップルなんて沢山いるが、一緒にいたいからと勉強を頑張った笹原は本当に凄い。


「本当に良かったよ。わざわざ報告の為に呼び出したのか? いや、直接聞けてありがたいんだけどさ」


「それだけじゃなくて、えっと、サプライズです。グラウンドにご注目ください」


 グラウンド? 野球部とサッカー部が練習をしているだけだろう。今も賑やかな部活の声が聞こえてくる。

 何があるって言うんだ。そう言えば今日は野球部の卒業生チームと下級生チームでお別れ試合をやるって顧問の先生が言って……あ。


「笹原」


 グラウンドで元気に声を出す卒業生チームの中にユニフォームを着た笹原の姿があった。

 下級生のバッティングに檄を飛ばしている。


「誠也、東高校では野球部に入るんですって」


「何で、アイツ……」


「いつまでも自分に負けたくないそうですよ。マックス見せるんだ、って。本当、最近誰かさんに話す言葉がそっくりになっちゃって、辟易してるんですよ」


 野球をやるなんてそんな事、一言も聞いてなかった。心の傷はもう大丈夫なのか? あの時はユニフォームに袖を通すのだって怖いって言ってたじゃないか。


「相談してくれれば良かったのに」


「自分一人の力で頑張れるんだって証明したいんじゃないんですか? だって、高校じゃもう卜部先生はいないんだから」


 そっか、もう俺の助けはいらないんだ。むしろ、寂しかったのは俺の方だ。ずっと一緒にいたパートナーがいなくなって大丈夫じゃなかったのは俺だ。


「あ、卜部先生。ピッチャー交代! 笹原!」


 やがて笹原は俺に気付くと自分で選手交替を宣言し、ピッチャーマウンドへと走った。

 マウンドの土をしっかりと踏みしめると、帽子を脱いで俺にペコリと頭を下げる。


「卜部先生! 復帰後の一球目、しっかり見ておいてください!」


 視界が滲む。それでも、ジャージの袖で乱暴に涙を拭って笹原の姿を目に焼き付ける。絶対に忘れないように、目に、網膜に、脳髄に、心の奥に焼き付ける。


「ああ、ちゃんと見てるよ!」


 帽子を深く被り直し、笹原はまぶたを閉じた。この一年に想いを巡らしているのかもしれない。三者連続ホームランを打たれた時の事、マウンドで投げられずに吐いてしまった事、筋トレ部で一緒に過ごした日々の事。しばらくして笹原は全てを受け入れたかの様に大きく頷き、目を開けて、大きく振りかぶった。


 一球目はストレート。想いを乗せた、真っ直ぐのど真ん中。


 カキンッ!


 二年の小西の振ったバットの芯がボールを捉える。打球はグングン伸びて、外野を越えた。

 復帰後の初球はホームラン。

 それでも、笹原はマウンドを降りなかった。「しまっていこーぜ」とチームメイトに声を掛け、次の打者をしっかりと見据える。


 俺はなんて幸せ者なんだろうか。生徒の成長をこの目で見られる事ほど嬉しい事はない。俺の手を離れる事ほど、寂しいのに嬉しい事はない。

 初めて気付いた。

 教師にとって、寂しいは嬉しいと同意なのだ。


 パァン!


 笹原が再度放ったど真ん中のストレートは、俺の想いも乗せてミットに吸い込まれた。




【徒然草 四十七段 現代訳文


 ある人が清水寺へお詣りに行ったとき、年配の尼さんをお供に連れていった。

 尼さんは道すがら何度も何度も「くさめ、くさめ」と言い続けていた。

 「ばあさん、いい加減に黙ってくれないか。さっきから何を言っているんだ」と注意したが、尼さんは無視してくさめくさめと言い続けた。

 何回も注意していると、やがて尼さんが逆ギレし、「くしゃみをした時にこのまじないを唱えないと死んでしまうらしいじゃないか。私が育てた坊っちゃんはね、とっても賢くて、比叡山で勉強している身分なんだよ。坊っちゃんがいつくしゃみをするかわからないから、あらかじめずっと言っているのさ」と答えたそうだ。


 信心深いというか、変人もいたものである。


【解説】 くさめ=くしゃみの語源となったおまじないの呪文。口惜命くしゃみょうと書く。昔はくしゃみをすると寿命が縮むと信じられており、それを防ぐためにくさめくさめと唱えたという。










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