二百四十三段 父に問いて云はく、
【徒然草 二百四十三段 原文】
【本文】
「煙草を、三十一番のやつを一箱貰えますか」
隣の県の、とある有名な温泉地近くの駅の売店で数年ぶりに煙草を購入した。もう二度と買う事はないと思っていたのだが、人生わからないものだ。
親父が死んだらしい。
うちの両親は俺が十歳の時に離婚、兄と一緒に俺は母親に引き取られ育てられた。離婚してからも父とはしばらくは二ヶ月に一回ほど会っていたが、中学に入って少しすると連絡がとれなくなった。それから今まで会う事はおろか、電話で話す事もなかった。今どこに住んでいるのかさえ知らなかったのだ。
メモと新聞の切り抜きを頼りに親父が死んだという事故現場へ向かう。駅から距離があるが、最後に親父が住んだ街を見たかったのかもしれない。地方の田舎道を一人歩いた。
実はここに来るのは初めてじゃない。と言っても、あまり覚えていない。離婚する前、親父と二人きりで旅行に来た事がある。何故二人きりなのか疑問に思っていたけど、今思えば母も兄も、あの時には既に父に愛想を尽かしていたのかもしれない。
ジュゴンが有名な水族館に行って、日帰りの温泉に入って、フェリーに乗って帰った。
あの時はまさかその日が親子でいられる最後だなんて想像もしなかった。
親権と養護権が無くても、血の繋がりがある以上親子だなんて言われるかもしれない。しかし、もう十五年も接触がないのだ。本当に俺は愛されていたのだろうかと疑念も湧いてくる。
海沿いの街を歩く。潮の匂いが鼻を刺して、あの日の記憶を呼び起こしていく。
海女さんの絵が描かれた看板。
歩くのに疲れてチョコレートパフェを食べた喫茶店。
この頭は親父との最後の思い出をちゃんと覚えていた。
あの日、ずっと手を繋いでいた。料理人だった親父の手は大きくて分厚くて、握っていると安心した。強く握ると優しく握り返してくれて、その度に微笑みあった。
あの笑顔も嘘だったのだろうか。それとも、あの日の思い出を糧に、一人で頑張ってきたと言うのか。保証人になった友人の借金を一人で背負い、家族とも別れ、最愛の息子との思い出の場所で晩年を過ごしたとでも言うのか。
「バカが」
思わず本音がこぼれた。
迷惑をかけない事が息子の為だと?
「バカだろ」
兄貴はよく親父と口論していた憶えがある。
高校を卒業した後の進路選択に借金の事が影響したのだろう。丁度反抗期も重なって、兄はいつも親父の事を悪く言っていた。数年前、一度だけ兄貴に親父の行方を探してみたい、と言ったらすごい剣幕で怒鳴られた。家族の間でも親父の話はずっとタブーだった。
俺に反抗期は無かった。だって、思春期には既に片親で貧乏で、オカンも兄貴も苦労していたのは子供なりにひしひしと感じていたから、いつも気を使っていた。いい子であろうと努めた。成績だってずっと上位で、自慢の息子で、弟だったと思う。だけど、二人とも仕事に忙しくて俺の事を見てなんかくれなかった。
しばらく歩いて事故現場に着いた。
真っ黒なブレーキ痕の先には少し傾いた電柱。根元に供えられた缶ビールと、親父には似合わない花束。
わからなかった。
何を思えば息子として正解なのかわからない。
悲しめばいいのか、怒ればいいのか。ただ現実感がなくて何も感じない。
記憶の片隅にあった、親父が吸っていた銘柄の煙草の箱を開けて、一本くわえた。線香代わりに火を着ける。
数年振りに煙を肺一杯に吸い込む。強いタールの煙は喉を焼いて、胸に詰まって酷くむせた。
「ゴホッ、ゴホッ……」
そっと煙草を缶ビールの横に供える。真っ直ぐに立ち
「あ、あの……二週間前の事故に遭われた方のお知り合いでしょうか?」
声に振り返ると、俺より少し歳上だろうか、髪の長い女性が立っていた。少し迷って、立ち上がって正直に答える。
「息子です」
「むっ……? す、すいませんでした! うちの娘が飛び出してしまって、それを避けようとして……」
どうでもよかった。親父が死んだ原因なんてどうでも。誰が悪いとか興味がない。ただ、誰も巻き込まれてなくてほっとした。
「大丈夫ですよ。何とも思わないんで」
抑揚のない声でそう告げて、その場を立ち去った。
「よく来てくれたね。小林です」
運送会社の小さい事務所を訪ねると、社長の小林さんは俺を歓迎してくれた。
十年ほど前から親父はこの会社でドライバーとして働いていたらしい。
「卜部兼好です。父がお世話になりました」
「いやあ
自分でも最近似てきたなあと思う。前髪を下ろしているとそうでもないが、風呂上がりなんかに親父みたいに髪を上げると本当にそっくりになる。
「兼好さんが来てくれて助かったよ。最初はお兄さんの方に連絡したんだけど、来てもらえなくてね」
一昨日、小林さんから学校の方に連絡が来たのだ。親父が亡くなった後、必死に家族を探してくれたらしい。俺と兄貴、両方に連絡したが、こうして遺骨を引き取りに来たのは俺一人だ。
「申し訳ありません。父と兄は仲が悪かったようで、すみません」
父と険悪だったからと言って、好意で連絡をくれた人まで邪険にする必要はない。兄貴もオカンも家族として愛しているが、親父が絡んだときだけは昔から二人が大嫌いだ。
深く頭を下げると小林さんは慌てた。
「あ、いや、光好さんからもお兄さんとの事は聞いていたから。早速だけど光好さんの部屋に行こうか」
「はい、お願いします」
会社の敷地内に二階建ての社員寮があった。まだ築八年ほどだそうで、綺麗なアパートだ。
一階の端の部屋に案内される。表札には卜部と書かれていた。
中へ入るとここで暮らしていたとは思えないほどに物が無くて驚いた。
部屋の真ん中に置かれた白いテーブルと、床に直置きされた小さいテレビ。そして服が入ったプラスチックの収納ケースが四つだけ。
「布団は申し訳ないけど捨てさせて貰ったんだ。物がないだろう? あの人ずいぶんと節約していたからね。兼好さんにプレゼントを贈るんだって嬉しそうに貯金箱に五百円入れてたから。その時計、よく似合ってるよ」
大学を卒業し、教師になった年の四月。オカンから小包が送られてきた。「お兄ちゃんには内緒にしておきなさい」と手紙が添えてあって、包みを開けたら親父からの手紙と高級腕時計が入っていたのだ。親父が俺の事を考えていてくれたととても嬉しかったが、兄貴の事を思うと気分が沈んだ。結局兄貴にはローンで買った事にしてある。
「こんなに小さくなっちゃったけど、光好さんだよ」
テーブルの上には
記憶の中よりずもっと老けた親父の写真。俺によく似た、よく知らない人。
「火葬までして頂いて、小林さんにはなんとお礼すればいいか……」
「いいんだ、光好さんは十年以上も真面目に働いてくれてたから。いつも君の事を話していたよ。兼好は優しい子で、上の子よりずっとずっと可愛いんだって」
だったら連絡をくれても良かったじゃないか。理解出来ない。これが愛だと言われても俺には理解出来ない。
「苦労人だったと思う。給料も半分以上借金の返済に充てて、その中からいつか孫の誕生祝いをあげられるようにって貯金までして」
兄貴の子供はとっくに産まれてるよ。とっくにアンタはおじいちゃんだったんだよ。
「可哀想な人だった。自分が借りた訳でもない借金を返して、望まない離婚をして、子供にも会えなくて」
「可哀想?」
誰が? 親父が?
「うん。せめて事故の時に君に連絡が出来れば良かったんだけど、死ぬ間際も私が看取ったんだ。君に会いたいってうわ言の様に繰り返して、本当に可哀想だった」
「ふざけんなよ」
「え?」
「誰が可哀想だって? 勝手に一人を選んだのはコイツだろう? 上の子より俺の方がとか言っちゃうから兄貴に嫌われるんだよ!」
別に良かった。俺は一緒に借金を背負っても良かったんだ。貧しくても一緒にいたかった。
「可哀想って言うのは……父への想いを誰にも言えなくて、母と兄に鬱屈した感情を抱いて、小さい頃一人で留守番していたら家に来た借金取りに怖い思いをして、貧しくて誕生日プレゼントなんて貰った事なくて、給食費が払えなくて先生に立て替えてもらって高校入ってからのバイト代でそれを返して、それでも教師の夢を捨てきれなくて伯父さんに頭下げて金を借りて大学に入って……オカンと兄貴に遠慮して親父を探す事も出来なくて、やっと会えたと思ったら勝手に一人でくたばってやがって……」
遺影に向かって愚痴をこぼし続けた。親父は何も言わない。ただニコリと笑っているだけ。
「誰が見ても! どう考えても!」
それは遅い反抗期だった。一日だけの、十五年遅れの反抗期。
「一番可哀想なのは俺だろうが!」
怒鳴り散らした。こみあげる愛をぶちまけた。大好きだったのに、もう会えない悔しさを、悲しみを、どう伝えたらいいかわからなくて喚き散らした。
「黙ってんじゃねえよ……何とか言えよクソ親父!」
『徒然ww 二百四十三段 父に問いて云はく、』
十歳の時、親父に聞いた。
「離婚ってどういうもの?」
親父の寂しそうな顔を今も覚えている。
「一緒の家で暮らさなくなるって事だよ。お父さんが出ていくんだ」
「何で? 嫌だよ、一緒にいたいよ」
「ごめんな、一緒にはいられないんだ」
この時、俺は親父に嫌われたんだと思ってすごく泣いたんだ。
「僕の事嫌いになったの? 僕わがまま言わないし、勉強もちゃんとやるよ!」
「違う! 嫌いになんかならない!」
親父はしゃがみこんで、俺と目線を合わせてじっと見つめながら言った。
「大好きだから一緒にいられないんだ。兼好、覚えておいてほしい。ずっとずっとずっと、お父さんは兼好を愛してる。お母さんの事もお兄ちゃんの事も愛している」
言い終えて、俺を強く抱き締めて親父は泣いた。
帰り道、最後の旅行と同じ様にフェリーに乗って、揺られながら遺骨を抱きしめていたらそんな事を不意に思い出した。
頬を流れる涙は冷たくて、腕の中の親父も体温が無かった。
【徒然草 二百四十三段 現代訳】
八歳の時、私は父に聞いた。
「ねえお父さん、仏様って何なの?」
「人が仏様になるんだよ」
「どうやったら人は仏様になれるの?」
「仏様の教えを学んでなるんだよ」
「じゃあその教えてくれた仏様はどうやって仏様になったの?」
「他の仏様に教えて貰ったのさ」
「じゃあ一番最初の仏様はどうやってなったの?」
「うーん、お空から降ってきたか、地面から生えてきたんじゃないかな」
そう答えて父は笑った。
後日、父は仕事仲間に「息子に問い詰められて答えに困っちゃたよ」なんて嬉しそうに話していたという。
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