今昔物語集 三十巻第一話「平定文、本院の侍従に懸想せし語」 または芥川龍之介「好色」
【前書き】
今回は番外編として、徒然草ではなく今昔物語集からお話を作りました。今昔物語の中でも一番有名な平中の話です。
原文、訳文ともに大変長くなるため、いつものように前書き後書きには載せておりません。本文の中である程度のストーリーを紹介しております。
もし気になられた方は「今昔物語 平中」もしくは「芥川龍之介 好色」でネット検索して頂ければヒットしますのでそちらで原文及び訳文をお読みください。両者とも著作権が切れており無料で読む事が出来ます。
【本文】
「今は昔、大路真姫といふ人があった。あだ名を絶対王子といった。人品
「何それ?」
放課後、図書室で勉強をしていたら向かいに座った優里が何やら変な文章を朗読し出した。
「今昔物語の
「へいちゅー?」
「今昔物語の30巻第1話。平中っていう貴族の話で、一番有名な話だよ。
優里とは最近よく話す様になった。笹原のお節介のせい。私は恋の相談なんて頼んでないのに「笹原君から大路さんの話を聞いてあげてって言われたんだけど……」と優里が突然話し掛けてきたんだ。それまでほとんど話した事もなかったのに。
でもまあ、それも厚意からだ。それに優里は真面目そうな見た目よりもずっとユーモアがあって話しやすい。仲良くなるのに時間はかからなかった。
「似てるって、私はもう男前じゃないよ。それに美術教師って何?」
もう王子は卒業した。人と話すときなんかは殿下喋りがまだ抜けきってないけど、今の私は普通の女の子なのだ。
「今は昔、って前置きしたじゃない。
とか言ってるが、優里がこっそり絶対王子と林をモデルにした
閉口する私を気にする事もなく、優里は続ける。
「その当時、林宗一郎と申す人がいらっしゃった。容姿すぐれ、心映えもなかなかの男性であった。
林はつねづね、生徒会に出入りしていた。その折々に真姫はこの林のことを盗み見て懸想した」
「平中って恋の話なの?」
今昔物語というと仏教の話がメインだったはずだが、まさかそんな浮わついた話もあったなんて意外だ。
どうやら主人公の平中を私に、ヒロインの侍従の君を林に例えているらしい。
「そうだよ。平中は侍従の君が好きなんだけど、相手にされなくて、報われないならいっそもう嫌いになろう、そう思って欠点を探すんだけどこれといった欠点がなくて、最終的に侍従の君のおまるを盗むの」
昔の貴族は重箱の様な物に用を足していたらしい。それを使用人が外へ捨てに行くのだ。
「おまるを? つまり、排泄物を見ればどれだけ好きな相手でも冷める、そういう事?」
介護が当たり前の今の時代、結婚してもいいと思えるような相手ならその人のうんちを見ても別に愛情は変わらないと思うのだが、私がおかしいんだろうか? まあ、貴族が介護なんてしないか。
「そう。おまるを運ぶ童女に突撃しておまるを強奪、童女が泣き叫ぶ中、おまるの蓋を開けて……」
最低だな平中。でも、それだけ侍従の君が好きだったって事だ。恋は簡単に人を狂わせる。
「で? 嫌いになれたの?」
「うんちを食べて死んじゃったんだって」
「は?」
何で食べるんだ。話が飛躍しすぎじゃないか。それに何故死ぬんだ。侍従の君のうんちには毒でも入っているの?
「だから、平中は好きな人のうんちを食べて死亡」
平中は好きな人のうんちを食べて死亡。
「……え? それで?」
「おしまい」
意味がわからない。平安時代とはいえ、ワケがわからなすぎる。侍従の君はどうなったんだ。2時間の映画になったとしてそんな終わり方したら私ならキレる。
「そんな話が一番有名なの?」
「インパクトあるし、芥川龍之介がリメイクしてるからね」
「芥川って、羅生門の?」
「うん。純文学のラスボス」
芥川龍之介と言えば教科書にも載っている、日本人なら誰でも知っている大正時代の作家だ。一番有名な文学賞の名前にもなっている。
「それは意外ね。高尚な物しか書いてないのかと思った」
「あの文体で書き上げてるからとっても高尚な物になってるよ。特にうんちの汁を飲むときの描写なんて凄すぎて鳥肌立ちっぱなし。今じゃネットでも見れるし、そうだ、ここにも置いてあるんじゃないかなあ」
優里は席を立ち棚の方へ姿を消す。しばらくして一冊の本を手に戻ってきた。
「はい、芥川龍之介集。『好色』っていうタイトルの短編が平中のお話だから」
下品な話は苦手なんだけど、芥川龍之介が書いたというならどんなものなのか興味がある。借りる手続きをして勉強を再開する。
「真姫は次のデートの約束とかしてるの?」
「ん? 林とは来週末に会う約束をしてある」
三回目のデートだ。冬休みに映画に行き、この前はスケートに行った。まだどこに行くか決めてないけど、駅で待ち合わせてそれからどうしようか決めるのもいいと思ってる。
「いい感じじゃない。告白しないの?」
デートをしているといっても、林とは付き合ってる訳じゃない。私から誘ったのだって、受験勉強の気晴らしに一緒に遊んでくれなんて情けない理由をつける始末だ。林にとってはデートでも何でもなく、先輩とただ遊んでいるだけのつもりかもしれない。
「その内にと思っているけど、やっぱり男の子の方から告白して欲しいとは思ってる」
勿論、恋仲になれるのなら私から告白するのも構わない。でも憧れはある。体育祭の時の笹原の告白は羨ましかった。私もあんな熱烈な告白をされてみたい。
「フフ、乙女だよね真姫は。でも女の子から告白していい日が再来週に迫ってるけど」
バレンタインデー。
特別な日。女の子から告白してもいい日。
想いを溶かしてチョコにして。甘くて苦い、恋そのもの。
「チョコは作る予定。告白するかは未定」
林にあげるのに市販のチョコなんてあり得ない。彼の事だからきっと沢山チョコを貰うだろう。その中でもうんと目立たなきゃいけない。
「そっか、頑張って。何でも相談に乗るから」
「ああ、ありがとう」
林とのデートの日。
服装はこれでもかと悩んで、オーバーサイズの白のニットにコーデュロイの茶色のワイドパンツ、足元はゴム底の高めの真っ赤なパンプス。ちょっとボーイッシュに大人っぽいファッションを決めてみた。好きなのはふわふわの可愛らしいファッションだけど、私には似合わない。
待ち合わせた駅前の広場に着く。林は先に来ていたが、一人じゃなかった。ニットの白のワンピースにムートン風のピンクのコートを羽織って、モコモコのファーのつけ襟がとってもガーリーな、私の理想像みたいな女の子が林の隣にいた。背だって155ぐらいで釣り合いが彼と取れてて、袖が触れ合いそうな程に距離が近く、親しそうに話している。
近寄ろうか迷っていると、やがて林が私に気付いた。
「大路先輩」
声を掛けられて距離を取っているのも変だし歩き出す。近付いていくと隣の女の子はその表情に警戒心を滲ませた。
「林、待たせただろうか? 友達か?」
「いえ、僕もついさっき来た所です。同じ塾に通っている南部中の里中って子で、ばったり会ったんですよ」
目もくりっとして猫みたいに可愛らしい女の子だ。私とは正反対。
「宗くんの先輩? プッ、デカ!」
林にとってはただの同じ塾の生徒なのだろうが、どうやら彼女にとっての林はそうではないようだ。明らかに私に対して敵対心を剥き出しにしている。きっとこの子も林が好きなんだろう。私に挑発的な言葉をかけてきた。
「大路先輩は僕より大きいんだ。カッコいいよね」
そう、私は可愛くない。逆にこの子は可愛くて、林と並んでいるとお似合いのカップルに見える。
「只でさえデカいのに厚底のパンプスとか超ウケる。ひょっとして待ち合わせてたのってこの先輩?」
私はもう王子じゃない。ずっとヒールの高い靴に憧れていた。パンプスを履いてデートするのが夢だった。だけど林の顔は目線の下にあって、こんなのじゃ腕だって組めない。
「うん、大路先輩と遊びに行く約束…」
「えー!? 宗くんにこの人って全然似合わないんだけどー?」
こんな言葉、聞く必要はない。彼女も林を取られたくなくて必死なんだ。だから私を馬鹿にする。
でも、その言葉は客観的に見た事実だ。そんなのわかっている。誰よりも自分がわかっている。
私みたいなデカくて可愛くない女が林の彼女だなんて滑稽にも程がある。
負けてたまるかって思う自分より、その通りだってとっくに白旗を挙げてる自分の方が強い。やっぱり私は自信がないんだ。自分を信じるなんて出来ない。
だって、この頭は想像してしまう。全国模試で三位を取った世間から優秀だと評されるこの頭は容易く想像してしまうんだ。林と仲良く歩いていたら周囲の人が私を指差して笑うのを。デカくてみっともない女の隣で、可哀想だと思われる林を。
「すまない林。急な用事が入ってしまって今日は遊べなくなってしまったんだ。悪いな」
敵前逃亡。
私は逃げ出した。あの子と比べられたら私は余りにも惨めだ。
林の顔が見れなくて、顔を背けて、そのまま振り返らずに家路についた。厚底のパンプスはクローゼットの奥にしまいこんだ。
「事情はわかりました。今からそいつを殴りに行きましょう」
「何を言い出すの遥は……」
私の家のキッチンで遥は物騒な事をさらっと言い放った。
この前の失敗したデートの事を話したら一番仲のいい後輩は憤慨して鼻息を荒くしてくれた。
「だって、私の尊敬する先輩を侮辱したんですよ? その罪、万死に値します。それは私の手で行われるべきです」
目が本気だ。奥田が遥の肩をポンと叩いてなだめる。
「まあまあ。遥も落ち着いて。そんなのほっとけばいいんだって。さ、楽しくチョコを作りましょう!」
バレンタインデー前日。後輩二人とチョコを作る事になった。私の家はお祖父様のお祖父様の代からある広いだけの古い家だが、水回りは最近リフォームしたばかりでキッチンも最新のものがついている。私もお洒落なキッチンが嬉しくてリフォームしてからというものお菓子作りを趣味にしてしまうほどだ。それを遥から聞き付けた奥田が、是非チョコ作りを教えてくれとお願いしてきた。折角だから皆で一緒に作る事にした。
ちなみに遥は特に好きな男子はいないそうで、家族と私にチョコを作ってくれるらしい。
「まあ、先輩が気にしてないならそれでいいんですけど」
気にしてない訳がない。今でもあの子に言われた事が頭をぐるぐると巡っている。私は林には似合わない。
「私は気にしてないよ。じゃあ早速チョコを溶かしていこうか」
「はーい。材料材料っと。
奥田はバッグから取り出した材料をウキウキと
「チョコを作るんじゃないのか?! 奥田の家ではカレーをチョコと言うのか?」
「そんな訳ありませんよ。色んな味付けした方が深みが出るかなって」
はあ、遥から奥田の料理はとんでもないと聞いていたが想像を斜め上に超えてきたな。
「バレンタインのチョコに深みはいらない! 普通のでいいの! 見た目とラッピングに拘ればそれでいいんだって!」
ただでさえチョコを溶かすと白くなったりザラザラしたりするのに、余計な事をすれば絶対に失敗する。それ以前に鍋の素なんて論外だけど。
「ええ~? 先輩も皆と同じ事言うんですね」
皆に言われてるなら直せ。
余計な材料を全部戻させて、ハートの型を用意し普通のチョコを作り始めていく。基本通りに、ゆっくりと丁寧に。
「奥田に言いたい事がある」
「何でしょうか?」
「手作りチョコは溶かすだけだと思ったら大間違いだ。温度だけでも三段階に分けて、溶かす、冷ます、固める、それぞれの適温がある。各工程の温度が一度変化しただけでも口どけが悪くなったりつやがなくなったりする。自分なりに手を加えたいその気持ちはわからんでもないがお菓子作りには邪魔だ。好きな男子に美味しいチョコを食べて欲しいのなら私の言う通りにやれ。それが出来ないって事はその男子の事を大切にしていないのと同意だ」
アレンジを加えるのは基本が身に付いてから。何に対してもそうだ。折角先人達が積み重ねてくれた物があるんだから、先ずはその通りにやるのが一番だ。
「わ、わかりました。面倒なのは苦手なんですけど、ちゃんとやります。よろしくお願いします」
男子への想いを引き合いに出されてはさすがの奥田もそれ以上の反論はしなかった。黙って湯煎されたチョコレートをゆっくりとかき混ぜている。
チョコの温度が50度になったら一旦お湯から上げて冷水で冷やす。28度まで下げて、再度鍋のお湯に入れて混ぜながら32度まで温める。
一連の温度調整をテンパリングと言う。日本語で言うとそのまま調温だ。これをする事で白っぽくなったり斑点模様が出来たりするのを防ぎ、また、口どけも滑らかになって美味しくなる。
お菓子作りは丁寧にやらなければ失敗する。確かに面倒臭いが、恋する乙女には大した事じゃないだろう。丁寧にやるって事は想いを込めるって事だ。彼の笑顔を思い浮かべて、ゆっくりじっくり、時を待つ。
「32度になりました!」
「じゃあその温度のまま型に流し込もうか」
「はい!」
遥と奥田はハートの型にチョコレートを流していく。流し終わったら再度冷水につけて固めて完成だ。
「出来たー!」
奥田が万歳をして喜んだ。見た目はツヤがあってムラもなくて美味しそうに見える。
試しに一つ、奥田は500円玉サイズのハートのチョコを口に放り込んだ。
「美味しい! ありがとうございます先輩、大成功です」
お菓子作りは面倒ではあるが難しくはない。レシピ通りにやればその通りの出来映えになる。
「私は指示をしただけだ。作ったのは奥田だよ。それなら想い人も喜ぶだろう。明日は頑張ってこい」
「はい! 頑張ります! ……って、先輩は?」
作ったのは遥と奥田の分だけだ。私は材料すら出していなかった。
「私はブラウニーを作ろうと思って。二人が帰った後に作るよ」
嘘をついた。作るつもりなんてない。
「すごーい! ブラウニーなんて難しそう! わかりました、頑張ってください」
明日の健闘を祈って遥と奥田は帰っていく。
キッチンを片付けて、ダイニングの椅子で一息つく。
真っ直ぐで眩しいな奥田は。私もあんな風になれたらいいのに、いつも言い訳して、逃げてばかり。
私からチョコを貰ったって嬉しくないだろう。さっきだって私だけ頭一つ出てて、まるで間違い探しみたいだった。乙女の中に一人だけいる仲間ハズレを探しましょう、なんていう名門幼稚園の入試みたいで、さぞかし滑稽だったはずだ。
林の事は諦めた方がいい。
そんな考えが浮かんで、ゆっくりと脳内を浸食していく。
ダイニングテーブルの上のタブレットを手にとってネットを開いた。芥川龍之介の「好色」のページが映し出される。
図書室から借りた好色は何回か読んだ。フィギュアスケートの様にポンポンと比喩のジャンプを繰り出していくその文体はさすが芥川だと感動した。何回も読んで、平中と自分を重ねた。本を返却した今でも平中の無念が心に残って、たまにネットで好色を読んでしまう程だ。
侍従の君は振り向いてくれなかった。だから平中は彼女を嫌おうとした。このままでは想いがその身を貫いて死んでしまうと、無理矢理に嫌おうとした。でも嫌いになれなくて、衝動的におまるを盗み、中身を見て諦めようとした。しかしその汚物さえも鞠の様に見えて、彼はそれを口に含んだ。
諦めようとしておまるを盗んだのにそれさえ平中には魅力的でたまらなくて、もう死ぬしかなかった。嫌いになどなれず、恋が叶うことはなく、想いが弾けて、平中は死んだ。
私も平中と同じだ。
あの日から、パンプスを脱いだあの日から、私も林を忘れようとして、嫌いになろうとして。
でも無理だ。
以前の私は呪われていた。周囲から王子と呼ばれて、後輩たちにキャーキャー言われて、自分の中のお姫様を鎖に繋いで閉じ込めて。
でもその呪いを本物の王子様が解いてくれた。
林は私をお姫様だと言ってくれた。
「そんな林を嫌いになれる訳ないじゃないか……」
想いが溢れて、泪になってポトリポトリと机に落ちる。指先で触れて、そっと伸ばして「スキ」と書いた。
伝える事は無理でも、このスキを形にしたい。
立ち上がってキッチンに向かい、冷蔵庫からブラウニーの材料を取り出す。
彼の笑顔を思い浮かべて、そっと想いを溶かした。
翌日。
始業前や休み時間に二年五組の教室へ行って偵察をした。何人かが林に可愛くラッピングされた包みを渡そうとするが、彼は一つも受け取らなかった。昼休みに教室の前でウロウロする私を奥田が見つけ、「宗ちゃん、今年は好きな人がいるからその人以外からはチョコを受け取らないって言ってますよ。きっと大路先輩の事ですよ」と教えてくれた。
不意に林と目があった。彼はニッコリと笑いかけてくれて、その笑顔に胸を貫かれて私は逃げ出した。さすがに人前でチョコを渡すのは無理だ。
でも、私に笑ってくれた。
私でいいんだろうか。
私のチョコを受け取ってくれるだろうか。
結局ふたりきりになるタイミングなんて無くて、放課後になってしまい林は部活に行ってしまった。
2年校舎の廊下の窓からグラウンドを見つめる。林の姿を目で追った。それだけで幸せな気持ちになる。それなのにどうしようもなく不安になって泣きそうになる。
「大路さん? どうしたの?」
ひどい顔をしていたのか、通りがかった蔵野先生が声を掛けてくれた。
「蔵野先生、その、何でもないんだ」
「何でもなくてそんな表情……そっか」
大事そうに抱えるリボンのついた箱に気付くと、蔵野先生は私の隣にそっと立った。
「チョコ、渡さないの?」
いくらバレンタインとは言え学校にチョコを持ってくるのは校則違反だ。でも咎めることなく、生徒の恋心を肯定してくれた。
「私は、自信がないんです。でかくてしゃべり方も可愛くなくて。自分なんて信じられない」
「ふふ、大丈夫よ。大路さんは可愛いから。先生の言うことは信じなさい。そうだ、これあげる」
そう言ってジャケットからウサギの形のヘアピンを取り出すと、私の前髪を留めた。手鏡を私に見せてくれる。
ピタッとおでこにくっついた前髪はとっても女の子らしかった。
「こ、こんなの私には似合わない」
「自信がないんでしょ? 自信がない自分の言うことなんて信じない方がいいわ。だから私を信じなさい。今の大路さんは世界で一番可愛いから」
「私は、可愛い……」
「林君だよね? 待ってて。呼んでくるから」
「えっ? 呼ぶ? ちょっと蔵野先生っ……」
私の制止も聞かずにグラウンドへ走って行ってしまった。何で私の好きな人が林だってバレているんだ! そんなに私はわかりやすいのだろうか。ひょっとして周囲にはバレバレなんだろうか。
そんな事を考えている内に蔵野先生に呼ばれて練習を抜け出した林がこっちへ走ってきた。
ヤバいヤバい、心の準備なんて全然出来ていない。
貰われなくても平気だった。別に貰われなくたって良かったんだ!
パニックになって、咄嗟に廊下のゴミ箱に箱を捨ててしまった。
「真姫先輩」
ずるいぞっ、急に名前で呼ぶなんて。
「は、林? どうした?」
腕を組んで精一杯虚勢を張るけど、目は泳いで声もうわずっている。
林は返事をする事なく、ずんずんと私に近付いてゴミ箱からリボンのついた可愛らしい箱を取り出す。
「これ、渡さないんですか?」
「あ、ああ。だ、だって変だろう。私が本命チョコを男子に渡すなんて……」
「本命チョコなんですね?」
しどろもどろになった私の言葉を林はハッキリとした口調で遮った。
「う、うん。本命チョコ」
「捨てるなら貰っていいですか?」
「え?」
「真姫先輩の本命チョコ、林宗一郎が貰いますよ」
「――!」
貰われなくたって平気だった。でも、貰われる方が全然平気じゃないじゃない……!
「いいですよね?」
「捨てたものだ。か、勝手にするといい」
こんな時まで私は可愛くない。強がって視線をそらして。
「じゃあ貰っていきます。ごちそうさまです」
林は踵を返して歩き出そうとする。
こんなハズじゃない。こんなので良いわけない。
「待って! やっぱり、返して」
何がもう王子じゃないだ。恥ずかしがって姫になろうとしてないのは私の方だ。可愛くないんじゃない、私は可愛くなろうとしてないんだ。こんな私じゃ林に相応しい訳がない。
「……わかりました、はい」
林は振り返って私にチョコを返す。
「それじゃ」
寂しそうな表情でまた背中を向けようとする林を引き留めた。
「待って、違うの。ちゃんと私から渡したいの」
今から私は可愛くなる。ぶりっ子でいいじゃないか。もう強がらない。似合わないなんて言い訳はしない。
「宗一郎くんっ!」
「……はいっ!」
宗一郎君の顔は真っ赤だった。きっと私も同じだろう。だけど構わない。宗一郎君の方が目線が低いからサマにならないけど、目一杯顎を引いて、膝もちょっと曲げて無理矢理上目使いにする。
今までの様なぶっきらぼうな言い方じゃなくて、いじらしい感じで、アニメのヒロインになったつもりで。
「私の本命チョコ、貰ってください。ハ、ハッピー、バレンタイン」
ゴクリ、と生唾を飲み込む音が聴こえた。きっと、宗一郎君が私の可愛さにやられた音なのだ、なんて。
私の差し出したチョコの箱を、宗一郎君はまるで賞状でも授与されるみたいに両手で仰々しく受け取ると深く礼をした。それが可笑しくて、つい笑ってしまった。
「真姫先輩。じゅ、受験が終わったらデートしましょう。その時には前に履いていたあの靴で来てください。僕がエスコートしますから」
「うん、そうする」
真っ赤なパンプスだけじゃない。フリフリのスカートで、トップスもピンクでガーリーな奴を着て。うんと可愛い私で、宗一郎君を誘惑するんだ。
【解説】
今回は趣向を変えて今昔物語集から。
その殆どが仏教について記されており、物語は全体の五分の一ほどだそうです。私も全部を読んだことはありません。
そして好色。
純文学のラスボス、芥川龍之介。
好色を読むと彼の化け物っぷりを再認識します。正に芸術。そりゃ崇められるわ。
文体のあくなき追求が純文学と申しますが、芥川龍之介の文体はもう変態の域です。本文の中でも大路が言っていますが、まるでフィギュアスケートのフリープログラムの様に高難度のジャンプをポンポンと決めていきます。
「一番好きな作家は?」と聞かれたら私は「司馬遼太郎」と答えますが、「一番すごいと思う作家は?」と聞かれたら「芥川龍之介」と即答するでしょう。まだお読みでない方は是非一度芥川作品を読んで頂きたい。
美しい文学を全身で感じていただける事でしょう。
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