二十一段 心慰む

【徒然草 二十一段 原文】


 よろづのことは、月見るにこそ、なぐさむものなれ。ある人の、「月ばかり面白おもしろきものはあらじ」と言ひしに、またひとり、「露こそなほあはれなれ」と争ひしこそ、をかしけれ。折にふれば、何かはあはれならざらん。


 月・花はさらなり、風のみこそ、人に心はつくめれ。岩に砕けて清く流るゝ水のけしきこそ、時をも分かずめでたけれ。「げんしやう、日夜、ひんがしに流れ去さる。愁人しうじんのために止まること少時しばらくもせず」といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。嵆康けいかうも、「山沢さんたくに遊びて、魚鳥ぎよてうを見れば、心楽しぶ」と言へり。人とほく、水草清き所にさまよひありきたるばかり、心慰むことはあらじ。




【本文】


 生きるのは辛い。

 いつだって向かい風だ。追い風なんて滅多にない。

 立ち向かっても失敗ばかりで、後悔する暇もなく次の風が吹いてきて、また歯を食いしばる。

 時の波は止まることがなく、立ち止まってしまえばたちまち足を掬われて流される。


 でも、たまには、しんどくなったら、休んでいい。

 大丈夫、その間は俺が前で踏ん張って壁になるから。

 だから、ちょっと休んで、また頑張れ。



 『徒然ww 二十一段 心慰む』


 

 可愛がっている後輩とロードバイクで山を登っていた。振り返り、ペースが落ちて少し離れてしまった彼女を叱咤する。


「ほら、休むな! 足を回せ!」


「み、みんと先輩……待って、限界ッスよ……」


 もう足が残ってないのだろう、頭を振りながらカエラは苦しそうに息を弾ませている。 

 同人漫画家一条いちじょうカエラこと美術教師香取小夜かとりさよは俺とは同じ中学、高校に通っていた二つ下の後輩だ。特に高校では俺の文芸部とカエラの漫研部が同じ部室で、よく話していたし俺の小説の表紙絵をカエラがデザインしてくれたりもした。だからカエラが新卒で吉田中学に赴任してきた時は懐かしくて、嬉しかった。今でも学校の外ではお互いペンネームで呼び合う仲だ。俺の影響でつい最近ロードバイクを始めたりとか、ある意味抄子ちゃんよりも気心の知れた女性だと言える。


 カエラは二年生の副担任をするのは今年が初めてで、立志ウォークの歩く道を知らない。吉田中学の近くを流れる川を上流に向かって歩くのだが、今日は自転車でその下見に来たのだ。と言っても、往復三〇キロなんてロードバイクには散歩の内にも入らない。最近自転車を始めたばかりのカエラは下見の距離だけで十分そうだったが俺には物足りなくて、立志ウォークの折り返し地点から更に上流へと山道を登ってきていた。


「あと一キロぐらいで峠が終わる。その後は目的地までほぼ平坦だから」


「はひ、わかったッス。頑張るッス」


 休憩を入れてやりたいところだけど、一度止まってしまうと体はもう動いてくれなくなる。ゆっくりでいいからとにかく走り続けた方がいい。


「登りが終われば楽できるから」


 この言葉は正しくない。

 真冬は公道を走る自転車の数がグッと減るが、実は寒さが問題ではないのだ。防寒さえちゃんとすれば暑い夏より温度の面ではずっと走りやすい。現にカエラも長袖のジャージを軽く捲っており、気温よりもロードバイク乗りを悩ますのは強い北風である。向かい風は足を使っても全然進まなくてやる気を奪う。峠は周囲の木々が風を防いでくれるが、平坦のひらけた道では風が牙を剥いてくる。きつい登りが終わっても、更にきつい向かい風が待っている。

 でも、俺は嘘はついていない。

 きついのは先頭を走る俺だけ。

 自転車は空気抵抗との戦いだ。ロードバイクが今の姿になっているのも、ヘルメットがあんなヘンテコな形なのも、ピッチリとしてセクハラ紛いなサイクルジャージも、全ては空気抵抗を減らすためだ。しかし、人の後ろについていると前の人が風避けになり、その空気抵抗は激減する。大袈裟でなく、後ろを走っていると前を走っている人の半分ほどの力でついていく事が出来る。

 だから俺はカエラの前を走る。


「カエラ、ほら。登りもここで終わりだ」


 峠の頂上に着き、長かった坂が終わる。俺は吹き付ける北風を一身に受け、負けないように強くペダルを踏み込む。


「ああ、助かった! やっぱり登りじゃなきゃ楽ッスね」


「だろ? もうちょっとだから頑張れ」


 恐らく、カエラは俺が歯を食いしばって必死に漕いでいるのを知らない。カエラを前に走らせた事はない。今だって、今日は風がなくて走り易いなあなんて思ってる事だろう。わざわざ言う事じゃない。これが同じぐらいの脚力だったら交代で前を走るのだが、カエラは初心者で俺は先輩だ。彼女が俺の事をどう思ってるかは知らないが、頼れる先輩でいたいのだ。カッコつけたいのだ。 

 

 向かい風を割って、しばらくして目的地に到着。

 川を上流に登っていけば、やがてダムにたどり着く。ダムの放流も見物だが、もうちょっとだけ登った先にあるダム湖がそれはそれは綺麗なのだ。

 自転車をダムの売店に停め少し歩いて、とっておきの場所に出る。

 一周十キロを超える壮大なダム湖が一望出来る湖のほとり。騒がしかった風は木々がシャットダウンして、聞こえるのは鳥の声だけだ。静止した水面はまるで時間が止まった様な錯覚を覚える。カエラの描く水彩画に似ている。色というより光を散りばめたような、優しい温もり。

 ロードバイクのサドルの下にくくりつけたバッグからビニールシートを取り出して二人で座る。


「わあ、綺麗っすね……」


「創作意欲が湧いてくるだろ?」


 俺に絵心は無いが、文字書きは綺麗な風景を見ると自分の言葉で表現したくなるものだ。それは文字書きだけじゃなく、芸術家なら皆そうだろう。絵描きだってたまらないはずだ。


「ですね! じゃ、みんと先輩、一句お願いします」


 かなりの無茶ぶりだが、国語教師として出来ませんなんて言えない。即興俳句は国語教師としての嗜みである。


「そうだな……北颪きたおろし 抜けて見えたる 凪ぎのうみ


「きたお……? って、どういう意味ッスか?」


「北颪ってのは山から吹き下ろされる北風の事で、冬の季語だよ。寒い北風の中を頑張って走って行けば穏やかな湖畔に辿り着く、っていう意味。人生も同じ。逆境でも踏ん張れば、いつか報われる。何かあったんだろ? 俺で良ければ聞くよ」


 最近カエラは元気が無かった。だからここに連れてきたかったんだ。


「お見通しッスか。えっと、学校で大失敗しちゃったんすよね……」


 カエラは一年生と二年生の美術の授業を一人で見ているが、三学期から産休に入った先生の代わりに三年生の授業も見るようになった。国語よりも授業数は半分以下だが、実際、時間数より人数が多い方が大変だろう。六百人近い生徒を一人で見ているのだ。名前を覚えるだけでも一苦労だ。


「で、三年一組の大仏おさらぎちゃんって女の子がいるんですけど、私読み方知らなくてそのままダイブツさんって呼んじゃって、それを男子がからかって大仏おさらぎちゃんが泣いてしまったんです。出席番号が大路ちゃんの次だから、た行な訳ないのに」


 大仏おさらぎは珍しい苗字だから、知らないのも無理はない。


「悪いのはからかった男子じゃないか。カエラのせいじゃない」


「先輩はそんな言い訳で自分を許せますか? 教え子が傷ついているのは仕方ないなんて、思えますか?」


 いや、許せないだろう。俺だって自分を責めるはずだ。きっと、一生忘れないだろう。


「だから腕が真っ黒なのか? それ、三年生の名前が書いてあるんだろ?」


 捲った長袖の下、細い腕には漢字とふりがながびっしりと書かれていて真っ黒だった。俺の指摘にカエラは慌てて袖を直し隠す。


「み、見ないでくださいッス。恥ずかしいんで」


「何で? 生徒を思ってやってる事だ、恥ずかしい事あるか。超かっこいいぞ」


 みっともなくていい。汚なくたっていい。その純粋な、綺麗な思いがあれば、それでいい。

 カエラは照れて、体育座りの膝にその真っ赤な顔を埋めた。


「……覚えてます? 先輩もこんな風に手を真っ黒にしてくれた事ありましたよね」


 カエラと初めて話をした時の事。

 中学三年の初夏、いつもの通学路を歩いていたら自転車の横で半べそかいてる女の子がいた。どうやらチェーンが外れてしまったようで、直し方がわからないのか途方に暮れていた。

 当時、絶賛中二病をこじらせていた俺は使う場面もないのに無意味に工具を持ち歩いていた。その女の子に声を掛け、鞄から取り出したドライバーでチェーンカバーを外した。やがて遠くで始業のチャイムの音がして、「俺が直しておくから先に行きな」と促したけど、女の子は隣でじっと俺が直すのを見ていた。ちょうど今みたいに、二人で並んで地べたに腰を下ろして。


「手が汚れて真っ黒になっても気にしないで、その手で顔の汗を拭うもんだから顔も真っ黒になっちゃって」


「あれは酷い顔だったな。教室入ったら皆が俺の顔見て爆笑してたもん」


「いえ、カッコ良かったッス。あの時からみんと先輩はカッコ良くて頼りになって、私にとって憧れの先輩ッス。今日だってずっと私の前を走ってくれて、向かい風を一身に受けてる」


 気付いていないと思ったがお見通しだったようだ。こういうのは気付かれないようにやるのがカッコいいのに。


「なんだ、わかってたのか。ま、俺は実際カッコいいからな」


「はい。カッコいいッス。これで顔がイケメンだったら間違いなく惚れてたッス」


「は? イケメンだろ? 惚れろよ!」


 カエラは大袈裟に首を傾げる。全くピンとこない、そんな表情で俺を見る。


「……? 先輩、酷い顔ッスよ。黒く塗った方がいいッス」


「どこの部族だよ! 馬鹿な事言ってないでそろそろ帰るぞ」


 一月は陽が落ちるのも早い。五時過ぎにはすっかり暗くなる。ビニールシートをサドルバッグにしまい、ロードバイクに跨がる。

 いつもの様に先頭を走ろうと前に出た俺の背中にカエラが言葉を掛けた。


「やっぱり、先輩の背中っておっきいッスね」


「まあ、鍛えてるからな」


「そういう意味じゃないッスよ」


 可愛い後輩のくれた嬉しい言葉に頬が弛む。そんなだらしない顔を見せない様に、振り返らずにペダルをグッと踏み込んだ。




【徒然草 二十一段 現代訳】


 落ち込んだり、胸が不安に押し潰されそうな時でも、月を静かに眺めていれば心は落ち着くものだ。ある人が「月ほど見ていて感傷的になるものはない」と言えば、別のある人が「雨露の方がもっと風情がある」なんて言い返したのはとても面白い。要はタイミングが合えばどんな事だって心に染み入るのだ。


 月や花は言うまでもないが、風だって人の心をくすぐる。岩を削る清い水の流れる景色も素晴らしい。「沅や湘(中国にある川の名前)の清流は、常に東に流れ去っていく。(東にある)都会の生活を恋しく思う私の為に一時でも止まらずにどうか流れ続けて」という詩を読んだ時は心が震えた。

 竹林の七賢の一人である嵆康けいこうも「山や沢で鳥や魚を眺めれば開放的な気分になる」と言っていた。

 人里を離れ、都会にはない大自然の中を歩けば、これほど心の癒しとなることは他にない。






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